Elizabeth Costello : I believe in what does not bother to believe in me.──J. M. Coetzee

2016/02/06

フアン・ガブリエル・バスケスの『物が落ちる音』

思い切り読書にあてられる自由時間に、フアン・ガブリエル・バスケスの『物が落ちる音』(柳原孝敦訳 松籟社)を一気に読んだ。おもしろかった。

 おもしろかった──という表現ではいささか言い足りない面白さだった。
 読了して思うのは、バスケスがどうしても書きたかったのは、麻薬をめぐる暴力にまみれた80~90年代のコロンビアではなかったかということだ。彼の青春時代と重なる時間、すでに過去となったいま、あれはいったいどういうことだったのかと。

たまたまビリヤード場で知り合った男といっしょに路上で銃撃されて腹部を撃たれ、その怪我の後遺症とPTSDのために性的インポテンツになってしまった主人公が、撃ち殺されたその男の過去を探り、1本の録音テープを手かがりに、いったい過去に何があったのか、どういうことなのか、と自分が撃たれた理由を探る旅に出る。そのプロセスが小説になっているのだけれど、そこからコロンビアとアメリカ合州国の60年代以降の関係が、じわりじわりと浮上するのだ。記憶と歴史をめぐる小説を書く上で、これは心憎いまでの巧みな仕掛けである。バスケス、なかなかの曲者だ。

 大学で法学を教える若い主人公ヤンマラは、ビリヤード場で偶然会った元パイロットのリカルド・ラベルデから、録音テープを聴く場所はないかと訊ねられる。19年間の服役を終えたばかりのリカルドは、だが、路上でいきなり銃殺され、その場にいあわせたヤンマラもまた腹部を撃たれて重傷を負う。銃弾は腹を突き抜け、神経と腱を焼き切りながら、脊椎から20センチのところで止まった──ということがわかるのは第2章で、第1章は断片的な記憶を主人公がふと思い出しながら進むため、物語の幕はあがったのに、その幕が何度もはらりと落ちてくるような感覚が拭えない。しかし幕を持ち上げて舞台の奥をみる努力はすぐに報われ、あとは夢中になって読みふけることになるのだ。

 ヤンマラが撃たれたのはパートナーのアウラとのあいだに娘が生まれる直前で、名前もレティシアにしようと決めたところだった。怪我のリハビリからは復帰したものの、銃弾が焼き切った神経のせいか、PTSDのせいか、主人公は性的インポテンツになってしまう。なぜ自分が撃たれたのか、自分が連座した暴力事件がなぜ起きたのか、断片的な記憶をつなぎあわせて脈絡をたどり、それを解き明かすまでは、もう日常生活でさえ先へは進めない。
 リカルドが最後に聴いたテープ、それは彼のグリンガの妻エレーンがフロリダからコロンビアへ向かう途中で墜落した飛行機のブラックボックスだった。そのテープをめぐって、マヤ・フリッツという女性からかかってきた電話で、物語は謎解きの様相を見せながら、核心へとじわじわと近づいていく。

 エレーンの娘だというマヤはヤンマラと1歳しか違わない。1980~90年代のボゴタで育った人だ。一方、アウラは両親がカリブ海諸国やメキシコなどを転々として育ったため、その時代のボコタを知らない。だから主人公がまきこまれた暴力事件の背景や彼の不安、恐怖の背後にある歴史的事件を深いところで共有しえない。この「知らない」という設定がとても重要なのだ。

 物語は時代を遡って1969年へ。合州国の平和部隊の一員としてコロンビアへやってきたエレーンが、ホストファミリーの息子リカルドと恋に落ち、最後には結婚することになっていったことが明かされる。平和部隊で「活躍する」グリンガを喜ばせようと奮闘するリカルドは、かつて英雄に憧れてパイロットになった男。セスナ機でマリファナを運び、大金を稼ぎ出すようになっていく。ヴェトナム戦争の脱走兵と思しき登場人物、フランク・ザッパの曲の歌詞、『星の王子さま』のシーンなどがじつに巧みに編み込まれ、ペーパーバック版『百年の孤独』の表紙では「E」が逆になったまま14刷というエピソードなどがちらりと挿入されたりする。そのたびに、おっ! と声をあげたくなった。

 しかし。

 最後に主人公がボコタに帰りつき、10階の自宅まで上がるエレベーターのボタンを押すときは、はらはらした。その前に車をガレージに入れたヤンマラが混ぜたばかりのコンクリを指で触れてみるシーンがあるのだが、それが限りなく不穏なサインに思われてしかたがなかった。エレベーターがいまにも「落ちそう」な予感に満ち満ちて……。帰った家はもぬけの殻。妻や娘は麻薬がらみの暴力のこととは無縁だ。そのことが、逆に、彼女たちにとっては幸いではないか、彼女たちのその「無垢」を自分は守ってやらなければ、と主人公が吐露するところがなんとも切ない。その一点からみるなら、これは純愛小説だといえなくもない。そして波乱含みの今後を匂わせながら、物語はどこかハッピーエンドの予感をもただよわせて終わる。

クッツェーとバスケス、2014年8月
 ある日突然、モノが次々と落ちて、崩れて、墜落して、ずたずたになっていく。壊れた日常を、主人公が記憶の断片を頼りに、脈絡を取り戻そうとするプロセス、それは歴史のリアリティの再構築にほかならない。それはまぎれもないこの作品の核心にある。
 しかしまた、ここに描き出された「時代」は決して過去ではないのだ。麻薬がらみの暴力沙汰を「テロ」や「戦争」に置き換えてみると、それは世界中の、時代を超えた物語となっていく。だからこれはすぐれて現代的な、開かれたテクストともいえる。
 銃殺されたリカルドや、墜落死したエレーンは、いってみれば、わたしの同世代人だ。1969年とそれに続く時代、ヴェトナム戦争と反戦運動の時代を、コロンビアの次世代作家がアメリカス全体の歴史として再構築してみせる作品は、ラテンアメリカから出てくる作品群にともすると被せられる「マジックリアリズム」という分厚い霧を取り払ってくれる作品でもあった。

 さあ、次は『コスタグアナ秘史』だ! 柳原さん、バスケスを訳してくれてありがとう! 

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付記:2016.2.7──昨夜、ふとんに入ってから頭のなかを『物が落ちる音』の断片がはらはらと落ちて、ふと気づいたことがある。この作品からは、かつてよく見聞きしたラテンアメリカ文学の「マッチョ性」がきれいに消えているのだ。これはいくら強調しても強調しすぎることはないように思う。女性の描き方が秀逸。1969年前後の男と女の関係の描き方も嫌味がない。『わが悲しき娼婦……』といった妄想の靄からみずからを解放した(?)1973年生まれの男性作家の本格的日本上陸を心から歓迎したい。