2015/06/22

クッツェー『サマータイム』の読みどころ

クッツェーの自伝的三部作の翻訳『サマータイム、青年時代、少年時代──辺境からの三つの〈自伝〉』が出版されてから、もうすぐ一年になる。
 去年、渦中にあるときは本当にぎっしりと目の詰まったような日々だった。すぐに書簡集の仕事へ移ったこともあって、いちいち細かいことはいまではよく覚えていない。でもこうして時間が過ぎ、距離ができて、かえってよく見えるようになったこともある。
 たとえば、いま再読しても『サマータイム』のいちばん面白い箇所のひとつは、ここだったなあと思うのだ。今日、facebook にある書き込みをして強くそう思った。

「ジュリア」の章にこんなやりとりがあった。

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p412-413  ↓ 最初の発言はジュリアのもの(下線は引用者)。

「一冊の本は私たちの内部にある凍った海を割る一本の斧かもしれないでしょ。でなければなんのために本なんてあるの?」
「時間に立ち向かう拒否の身振り。不死性を求める一つの試み」
「不死のものなどない。本だっていずれ死ぬ。私たちがいるこの地球全体だってそのうち太陽に呑み込まれて灰燼と帰すの。そうなれば宇宙そのものが内破してブラックホールとして消滅する。なにも生き残らない、わたしも、あなたも、そして少数の人間しか関心をもたない十八世紀南アフリカの想像上のフロンティア開拓者についての本なんてものも当然」
「ぼくのいう不死性は時間の外に存在するという意味じゃない。人の肉体的消滅を超えて生き残るという意味だ」
「あなたが死んだあとも、あなたの本が読まれてほしいのね?」
「そんなかすかな期待を手放さないでいるのは慰めにはなるだろ」
「自分でそれを目撃することがなくても?」
「自分でそれを目撃することがなくても」
「でも、あなたが書いた本を未来の人間がわざわざ読んだりするかしら、もしもその本が彼らに語りかけなければ、もしも彼らが自分の人生に意味を見出す助けにならなければ?」
「あるいはよく書けている本なら、まだ読みたいと思われるかもしれない」
「ばかばかしい。それって、もしもわたしが上質のラジオ付きレコードプレイヤーを組み立てたら、二十五世紀になっても使われるかもしれないってのとおなじよ。でも、そんなことありえない。だってラジオ付きプレイヤーなんて、どれほど精巧な造りであろうと、そのときは時代遅れになっている。二十五世紀の人たちに語りかけたりしないのよ」
「あるいは二十五世紀になってもまだ、少数ながら、二十世紀末のラジオ付きプレイヤーが出す音を聴きたがる人がいるかもしれないじゃないか」
「コレクターね。趣味人。そのために自分の人生を費やそうっていうの、あなた? 机に向かって座り、骨董品として保存されるかされないか不確かなモノを手づくりするために?」
 彼は肩をすくめた。「もっといい考えがあるかい?」
 わたしが自己顕示していると考えているんですね。わかりますよ。どれほど自分が切れ者かを示すために会話をでっちあげていると思っているのが。でも、あのころのジョンとわたしの会話はそんな感じだったんです。おかしかった。面白かったわ。あとで、彼と会わなくなってから恋しくなったのはそれ。私たちの会話、本当にいちばん恋しくなったのはそれでした。彼はわたしの知るかぎり、正直に議論してわたしに論破される唯一の男性でしたから。自分が論破されそうになると、怒鳴り散らしたり、話をはぐらかしたり、むっとなって逃げたりしない唯一の男性でした。それに、いつも論破したのはわたし、ほとんどいつもかな。
 理由は簡単。彼に論争能力がなかったわけではないの。でも彼は自分の原則に従って生きていた。それに対して、わたしはいつだって実用主義者(プラグマティスト)だった。プラグマティズムは原則主義を打ち負かす。そういうものですから。宇宙は動き、私たちの足元の大地は変化し、原則は常に遅れをとる。原則はコメディの種にはなります。コメディというのは、原則が現実にぶつかったときに起きるものですから。彼は気難しいという噂があることはわたしも知っていますが、ジョン・クッツェーは実際に会ってみるととてもおかしかった。コメディに登場する人物。気難しいコメディです。そのことを漠然とながら彼は知っていて、受け入れてさえいた。彼のことを振り返るといまだに愛着を感じる理由はそこですね。あなたがお知りになりたければですが。
 
 (沈黙)

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1970年代なかばの自分(30代なかば)を、作家が60代後半に振り返って書いている箇所だが、当時の自分を他者の目から見るとこういう感じだったのでは、という書き方がとっても面白い。きれいごとですませないところが良い。そして的を射ている。
 とりわけ、最初の下線部、「自分が論破されそうになると、怒鳴り散らしたり、話をはぐらかしたり、むっとなって逃げたりしない唯一の男性」の貴重さは、つねづね痛切に感じてきたこととみごとに重なった。それをこんなふうにみずから言語化する男性作家の文章を初めて読んだ。登場人物の女性の口を借りて、当時の自分をおおいに評価しているところなのだ。この本を「自虐的」と評する人は、こういうところをよく読んでほしいなあ。

 今日は夏至か。