西江雅之さんが逝った。享年77歳。
以前このブログにも書いた西江さんのお話のことを再掲します。2009.4.27とあるから、もう6年も前のことだったのか!
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ジャズはアフリカ起源の音楽だ、なんてのは違う。ぼくは何年か前に数人の学者とその議論をして論破した──と語るのは、言語学と文化人類学を専門とするマチョ・イネこと西江雅之さんだ。
昨夜は三鷹の「文鳥舎」で「世界中に散るフランスという国」なるトークショーを楽しんだ。西江さんの話しっぷりは、本当に面白い。噺家のようなのだ。「フ ランス語が話されている世界の地域」のことではなくて「フランスという国そのものが、ヨーロッパ本国と、マルチニック、グアドループ、レユニオン、フラン ス・ギアナといった海外県と、カナダの大西洋側にあるサンピエール・エ・ミクロン、インド洋のマヨットといった特別自治体と、さらには、ニューカレドニ ア、フランス・ポリネシア、ワリス・フトゥナ、南極の一部といったフランス領をすべて含めた、世界中に散在する国、として成り立っている」というお話だっ た。
頭のなかでかたまっている「フランス」というステロタイプのイメージがゆさゆさ揺れて、そこかしこに風通しのよい穴があき、崩れる。そして新たなイメージで「フランスという国家」をながめやる目が養われる。西江さんの話はいつも聴き終わったあとが爽快で、気持ちよい。
最初のジャズの話は懇親会で聴いたもの。前日、ツトム・ヤマシタとのコラボレーションのため京都へ行っていたそうだから、その流れから出てきたものかもし れない。それを聴いて、ありありと思い出したことがある。それは1970年前後の日本の、いわゆる「ジャズ・シーン」をめぐる熱い語りにみられた、ある傾 向のことだ。
当時、情報は、なんでもかんでも米国発のものが勢いをもっていた。というより、いま以上に、憧れを もって肯定的に語られていたというべきか。ヒッピー、フォーク、ロック(ときどきブリティッシュ)、文学だって、やれケルアックだ、ギンズバーグだ、サリ ンジャーだ、と圧倒的に「アメリカもの」で、さまざまなものが入り込む余地があまりなかった。見えていなかった。つまみ食いのようにして少しは読んだけれ ど、米国発の文学で興味を引かれるものは、ブローティガンが紹介されるまで、ほとんどなかった。でも、音楽は別、ジャズは別だった。
あの当時のジャズ聴きたちは「ジャズ=黒人/アフリカ人の音楽」という固定観念から離れられなかったように思う。だから、ヨーロッパのジャズは二級扱いさ れ、極端な人は、白人プレーヤーのジャズは「白人だからダメ」とまでいう始末。いったい、どんな耳をしていたのやら。いや、どんな頭をというべきか──私 も含めて。
ジャズを演奏する人たちのなかにもまた「黒人のように」演奏すること、より「黒い」音楽を演奏すること、さらには「黒人のよう になること」にまで(そんなこと不可能なのは分かりきっているのに)究極の目標を細めていく人もあらわれ、それを肯定する左派めいた論客もまた、人気を博 していたように思う。それは「黒っぽいフィーリング」があるかないか、というふうに論じられた。
なんか変だと思いながらもきっぱり反論で きなくて、嘘くさいその手のライナーノーツや解説なるものを読まなくなったのは、そのせいだったのかもしれない、といまになると理由をつけることもできる ──だって、じゃあ、なんで日本人がジャズをやるの、なんでロックをやるの、ということになるでしょ? 60年代後半って、そういう時代でもあったのだ。
音楽も、文学も、人種と不可分に結びつくものなんかない。結局、それは「文化」なのだから。文化は「創り出すもの」で、アフリカン・アメリカンと呼ばれる 人たちは、白人文化が命じる器のなかで、アフリカ起源のものをベースに、手近にある、さまざまな道具、アイディアを混入させながら、独自のものを創り出し ていった。彼らの創造性はそこにある。それは黒人でなければできないものではない。ただ、間違いなく彼らがやったことなのだ。そこのところを同一視する と、すごく間違う。その流れでいくと、日本人でなければ日本(語)文学は書けないという考えに(そう信じている人はある年齢層以上に、いまだって間違いな く、いる)反駁できない。
日本人のすばらしいジャズメンはたくさんいるし、黒人でなければジャズができないなん て、いまじゃ誰も思わない。白人たちはジャズまで奪っていった、という黒人サイドの発言も聞いたことがあるけれど、それは見方を変えるなら、彼ら/彼女た ちの「文化」が白人文化を凌駕したということにもなる。文化も、伝統も、きわめて創造的な、つまりは、恣意的なものなのだ。西江さんの話を聴くとすっきり するのは、その辺と大いに関係がある。自分を縛ってきたしがらみや不安から、解き放たれたような気持ちになるのだ。☆
西江さんの名著、『花のある遠景』を読んだのは80年代末のことだった。ケニアの場末に住み着いて売春婦のおねえさん、おばさんたちとの暮らしの光景をすばらしい文章で描いていく本だった。目を見張った。わたしのアフリカ入門の重要な部分は西江さんの考え方からもらったような気がする。ちっとも活かせていないけれど。感謝、
深謝! 心からご冥福をお祈りします。なんか、本当にさびしい。
以前このブログにも書いた西江さんのお話のことを再掲します。2009.4.27とあるから、もう6年も前のことだったのか!
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ジャズはアフリカ起源の音楽だ、なんてのは違う。ぼくは何年か前に数人の学者とその議論をして論破した──と語るのは、言語学と文化人類学を専門とするマチョ・イネこと西江雅之さんだ。
昨夜は三鷹の「文鳥舎」で「世界中に散るフランスという国」なるトークショーを楽しんだ。西江さんの話しっぷりは、本当に面白い。噺家のようなのだ。「フ ランス語が話されている世界の地域」のことではなくて「フランスという国そのものが、ヨーロッパ本国と、マルチニック、グアドループ、レユニオン、フラン ス・ギアナといった海外県と、カナダの大西洋側にあるサンピエール・エ・ミクロン、インド洋のマヨットといった特別自治体と、さらには、ニューカレドニ ア、フランス・ポリネシア、ワリス・フトゥナ、南極の一部といったフランス領をすべて含めた、世界中に散在する国、として成り立っている」というお話だっ た。
頭のなかでかたまっている「フランス」というステロタイプのイメージがゆさゆさ揺れて、そこかしこに風通しのよい穴があき、崩れる。そして新たなイメージで「フランスという国家」をながめやる目が養われる。西江さんの話はいつも聴き終わったあとが爽快で、気持ちよい。
最初のジャズの話は懇親会で聴いたもの。前日、ツトム・ヤマシタとのコラボレーションのため京都へ行っていたそうだから、その流れから出てきたものかもし れない。それを聴いて、ありありと思い出したことがある。それは1970年前後の日本の、いわゆる「ジャズ・シーン」をめぐる熱い語りにみられた、ある傾 向のことだ。
当時、情報は、なんでもかんでも米国発のものが勢いをもっていた。というより、いま以上に、憧れを もって肯定的に語られていたというべきか。ヒッピー、フォーク、ロック(ときどきブリティッシュ)、文学だって、やれケルアックだ、ギンズバーグだ、サリ ンジャーだ、と圧倒的に「アメリカもの」で、さまざまなものが入り込む余地があまりなかった。見えていなかった。つまみ食いのようにして少しは読んだけれ ど、米国発の文学で興味を引かれるものは、ブローティガンが紹介されるまで、ほとんどなかった。でも、音楽は別、ジャズは別だった。
あの当時のジャズ聴きたちは「ジャズ=黒人/アフリカ人の音楽」という固定観念から離れられなかったように思う。だから、ヨーロッパのジャズは二級扱いさ れ、極端な人は、白人プレーヤーのジャズは「白人だからダメ」とまでいう始末。いったい、どんな耳をしていたのやら。いや、どんな頭をというべきか──私 も含めて。
ジャズを演奏する人たちのなかにもまた「黒人のように」演奏すること、より「黒い」音楽を演奏すること、さらには「黒人のよう になること」にまで(そんなこと不可能なのは分かりきっているのに)究極の目標を細めていく人もあらわれ、それを肯定する左派めいた論客もまた、人気を博 していたように思う。それは「黒っぽいフィーリング」があるかないか、というふうに論じられた。
なんか変だと思いながらもきっぱり反論で きなくて、嘘くさいその手のライナーノーツや解説なるものを読まなくなったのは、そのせいだったのかもしれない、といまになると理由をつけることもできる ──だって、じゃあ、なんで日本人がジャズをやるの、なんでロックをやるの、ということになるでしょ? 60年代後半って、そういう時代でもあったのだ。
音楽も、文学も、人種と不可分に結びつくものなんかない。結局、それは「文化」なのだから。文化は「創り出すもの」で、アフリカン・アメリカンと呼ばれる 人たちは、白人文化が命じる器のなかで、アフリカ起源のものをベースに、手近にある、さまざまな道具、アイディアを混入させながら、独自のものを創り出し ていった。彼らの創造性はそこにある。それは黒人でなければできないものではない。ただ、間違いなく彼らがやったことなのだ。そこのところを同一視する と、すごく間違う。その流れでいくと、日本人でなければ日本(語)文学は書けないという考えに(そう信じている人はある年齢層以上に、いまだって間違いな く、いる)反駁できない。
日本人のすばらしいジャズメンはたくさんいるし、黒人でなければジャズができないなん て、いまじゃ誰も思わない。白人たちはジャズまで奪っていった、という黒人サイドの発言も聞いたことがあるけれど、それは見方を変えるなら、彼ら/彼女た ちの「文化」が白人文化を凌駕したということにもなる。文化も、伝統も、きわめて創造的な、つまりは、恣意的なものなのだ。西江さんの話を聴くとすっきり するのは、その辺と大いに関係がある。自分を縛ってきたしがらみや不安から、解き放たれたような気持ちになるのだ。☆