ポール・オースターとの往復書簡が「手紙」という形式のやりとりだったのに対して、これはメールを使ったのだろうか、クッツェーがあるテーマについて問題提起すると、即座にそれにカーツが反応する、といった構成になっている。問題がテーマごとに、深く、詳しく、探求されていって、そこに開ける予想外の風景へと読者は誘われていく。
ここには、2009年の『サマータイム』で、三部からなる一連の「自伝」的物語にけりをつけた作家が、では自分の生涯を素材にした物語を書くとき、いったいなにが真実なのか、という究極の問題をさらにつきつめようとする姿勢が見られる。作品を書くときの作家の意識そのものに光をあてようとするのだ。
アラベラ・カーツ |
セラピーの分野で扱われる「良い物語」とは、その人(患者)にとって都合の良い物語、患者の主観からのみ光をあてた物語になってしまわないか、という疑問がクッツェーにはあるようだ。それは作品行為を一種のセラピーと見立ててきた彼自身の「書く現場」に、徹底した疑問をつきつけることでもあるだろう。作品を書くとき、それを「書く」あるいは「語る」自分にとって、「真実/事実」とはなにか? 主観的な真実を超えることは、どこまで可能か? この文学的/哲学的問いはすぐれて倫理的問いへ向かわざるをえないだろう。
これはまた、日本語のなかに住む者にきわめて大きな問いを突きつけもするだろう。ことばをめぐる現況の、ある決定的欠落を照らし出し、鋭く迫ってくるものがあるのだ。その構造が見えるか、見えないか、それは彼が書いた最後の自伝的物語『サマータイム』という作品と、どこまで腹を据えて向き合えるかということとも関連してくるかもしれない。
「ことば」の針で自分自身の内部をどこまで探ることができるか。究極の自己対象化能力を研ぎすます、文学と心理学の絶妙な絡み合いがここにはありそうだ。心をいやす物語について、比類なく明晰なことばの向こうに見えてくるのは、いったいどんな・・・これはただ「孤独」といったことばで逃げをうつことはできない問いだ。
J・M・クッツェー |
ちなみにこの本になったものの一部は Salmagundi という雑誌(Spring 2010)に最初は掲載され、そのタイトルが「Nevertheless, my sympathies are with the Karamazovs/それでも、わたしの共感はカラマーゾフたちとともにある」だったというから、これもまた面白い。
始まりはこんな感じだ。
***************************
JMC──良い(信頼できそうな、説得力さえある)物語の性質とは何でしょうか? 他人にわたしの人生の物語を語るとき──そしてさらに重要なのは自分にわたしの人生の物語を語るとき──それを、何も起きない時期を飛ばして、多くのことが起きた時期をドラマとして強調しながら、ナラティヴに形をあたえ、予感と懸念を創り出し、均整のとれた工芸品にするよう努力すべきなのでしょうか? それとも逆に、中立的で、客観的で、法廷の基準に合致するたぐいの真実──この場合の真実とは、偽りのない真実、事実のみということですが──を述べるよう奮闘すべきなのでしょうか?
自分のライフヒストリーとわたしはどのような関係にあるのか? わたしはその意識的な作者なのか、それとも自分を、わたし自身の内部から湧きあがることばの流れをできるかぎり邪魔をせずに呟く、たんなる声と考えるべきなのか? とりわけ、記憶のなかに蓄えられた豊富な素材、一生涯という素材をあたえられて、フロイトの警告──何も考えずに(意識的に思考せずに)省く内容にこそわたしに関するもっとも深い真実を解く鍵があるかもしれない──を心に留めながら、何を除外すべきであり、除外しなければならないのか? とはいえ、考えないまま自分が除外しているものを、どうすれば論理的に知ることができるのでしょうか?
AK──もっとも深い真実を述べようとすることが心理分析者に課せられた仕事だとわたしは思っています。あるいはもっと謙虚に、もっと精確にいえば、、、、、、、
**********************