2013/06/23

夏至の翌日、笹久保伸のギターを聴きにいった

 昨夜は初台へでかけた。

 お目当ては笹久保伸の「高橋悠治ギター作品リサイタル」。いやあ、よかった、面白かった。このところコンサートから遠ざかっていただけでなく、なぜか仕事部屋でも「音楽をかけることが減ってきたなあ」と思っていたところだったので、そんな渇いた耳にギターの音色はとても心地よく響いた。
 演奏されたのが1968年から2013年までの高橋悠治の曲、というのもしみじみだった。だって、この数字があらわす45年という時間は、ちょうどわたしが田舎から東京へ出てきて過ごしてきた時間に重なるのだから、「しみじみ」という表現も許されるのではないかと思うのだ。

 勝手な思い込みで聴きにいく者にとっては、勝手な思い込みを書いてもいいのだ、音楽評論家でもなんでもないのだし、と言い訳めいたことを自分に言い聞かせてみる。
 曲目は以下の通り。

前半
 1. Rastros(2009)重ね書き
 2. The Pain of the Wandering Wind(1982)さまよう風の痛み
 3. Metatheses 2(1968)メタテーシス 2
 4. John Dowland Returns(1974)ジョン・ダウランド還る

後半
 1. Caminante, no hay camino(2011)道行く人よ、道はない
 2. Chained Hands in Prayer(1976)しばられた手の祈り
 3. Guitarra(2013)ギター 
 
 そして最後にアンコールとして、このCD「Quince」に入っている曲を一曲。南米、とりわけペルー(日本語になると「ペ」にアクセントをおいて発音されるけれど、昨日の悠治さんの発音では「ルー」が強く、そうか、そうだったな、とあらためて思い出された)のトラディショナル曲風のメロディーを耳が拾うときは一瞬、心が溶ける。多少なりとも馴染んでいるせいだろうか。
 そこでまた「馴染む」ということの意味をあらたえめて考える。逆にいうと、何年たっても「馴染めない」 ということの内実をも、つい考えてしまう。だれにとって、なにに対して。
 
 CDのジャケットを家人に見せて「ほら、この絵、だれかわかる?」ときくと、あ、これは「アワズキヨシ」と洗濯の手を留めながら彼はいった。今日は晴れ。
 とても楽しめるCDである。ただ流れるだけの心地よい音楽ではなく、ちょっと立ち止まり、寄り添いながら聴ける音楽。心に、ひたひたとくるメロディラインをもった曲もある。スペイン語のタイトルのついた曲のなかに、秩父のトラディッショナルをひろった日本語タイトルの曲が三つ。さらに10番目の曲はなぜかフランス語のタイトルがついていて、このスローな、バラードみたいな曲がわたしは好きだ。2番目の「泣く」曲も。

 それにしても、昨日はオペラシティというところに初めて足を踏み入れたのだけれど、ここがまた空港のような造りで、つるつるの床をどこまでも歩いて、あれ、ここさっき来たっけ? とワンダーランドに迷い込んだアリスみたいな気持ちになるところだった。笑ってしまった。
 なんだかんだで帰宅したのが12時近く。夏至ではなかったけれど、夏至の翌日、生き物たちが活発に動きまわる季節にふさわしい夕べの過ごし方だったように思う。