Elizabeth Costello : I believe in what does not bother to believe in me.──J. M. Coetzee

2011/05/11

書評:ヴィヴァ!『オスカー・ワオの短く凄まじい人生』(再録)

 3.11以降、心がざわつく。落ち着いて本が読めない。でも中断していた本へもどり、時をわすれて、力あることばたちを読んだ。

 漫画、TVゲーム、SF、とあまり馴染みのないオタク文化満載、膨大な脚注なのに、読ませる。この力はなんだ? 
 ディアスは1996年に出た短編集「Drown(邦題『ハイウェイとごみため』)」でニューヨークの貧民街に住む声なき人びと=ドミニカ移民に声をあたえた。この一作でMITの教職を手に入れたことからみても、なみの才能ではない。そして事実、教職で生計を立てながら絶対に書かねばならない本を書いた。それがこの『オスカー・ワオの短く凄まじい人生』である。

 主人公のオスカーはスポーツ大嫌いのふとっちょオタクだが、まことに気弱でまじめな愛すべき男の子。しかし彼を溺愛するのは母ベリと姉ロラだけで、彼がのぼせる女の子からは総スカンを食う。ま、それもそうか、だって開口一番、TVゲームやSFの細部について語りまくるのだから。

 母の出生の物語はトルヒーヨ独裁下のドミニカ共和国の歴史と絡む。それは幼くしてニューヨークに移民したディアスの経験(直接ではないにしろ、親の世代から生々しい体験として延々と語り聞かされたはず)を写してもいる。それが半端じゃなく過酷だ。その過酷さに対抗できる手法を生み出すためディアスは十年の歳月を費やした。確かにそれだけのことはある。読むほどに作品に込められた凄まじいまでの力がひしひしと伝わってくる。
 ペルーの大物作家リョサの『チボの饗宴』(権力者を視点にすえた興味深いがシンプルな物語)に対抗し「支配する側からではなく、支配される側から見た」物語を書くためディアスはこんな手の込んだ手法を編み出したのか。語り手もオスカー、ロラ、ベリと移り、最後にオスカーのルームメイトにしてロラの元彼だったユニオールが話をまとめることになるところが、『半分のぼった黄色い太陽』のウグウをちょっと思い出した。
 
 その結果、きらきらしい引用で迷路のような奥行きをもった、猥雑きわまりない独特のスペイン語てんこもりの、まことに斬新かつリアルなアメリカ青春文学が生まれた、というのは部外者のつける理屈で、オタク文化の迷路こそアメリカの、いや近未来世界の「重層的ないま」をとらえる網の目と作者は考えたのだろう。

 それにしても、オスカーくん、二次元キャラじゃなく、いつも三次元の生身の人間を好きになり、最後まであきらめずにアタックするところが泣かせます。
 そして最後に特筆すべき点をひとつ。あれだけ頑固な母に育てられ、強烈な性格の姉といっしょに暮らしながら、主人公オスカーにミソジニー(女性嫌悪症)がかけらもない。マチスモ(男尊女卑)の濃厚なラテンアメリカ世界から出てきたディアスにも感じられない。これは特筆にあたいする。女たちの内面をじつに生き生きと描ける秘密はそこにありそうだ。訳も丁寧ですばらしい。
  
ジュノ・ディアス『オスカー・ワオの短く凄まじい人生』都甲幸治/久保尚美訳(新潮社刊 2400円)

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付記:2011年4月11日に書いたブログを今日アップしました。ここにも再録します。北海道新聞の書評(5月8日掲載)はこれを圧縮したバージョンです。