Elizabeth Costello : I believe in what does not bother to believe in me.──J. M. Coetzee

2010/09/12

『半分のぼった黄色い太陽』──「あとがき」に書かなかったこと(2)

「わかる」「わからない」を分けるものってなんだろう?

 たとえば、日本とはくらべものにならないほど広大なアフリカについていうなら、地域によって差はあるとしても、世界のメディアのなかでしめる割合、あるいは情報内容の偏りはまことに著しい。なかでも、アフリカ各地に実際に住む人たちにとって、もっとも困惑させられるのが「アフリカというのは◯◯」とか「アフリカ人というのは◯◯」といった固定観念で外側から決めつけられることではないか、と今回あらためて思った。
 アディーチェは米国に渡るまで、自分が「アフリカ人」だとは思ったことはなかった、と語っている。イボ人、ナイジェリア人だと思っていた、と。これは一考にあたいする発言だ。

 ファンタジックにフィクション化されて書かれたルポや小説をそのままリアルな「アフリカ」、リアルな「アフリカ人」と受け取り、その情報を細かく検証する手段や姿勢を、残念ながら、私たちはあまりもたなかった。ある意味、これは無理もないのだ。だってある年齢以上の人たちは、学校でアフリカのことを「暗黒大陸」と教わったんだから。ヨーロッパによる植民地化の内実は棚上げにして、未開で、非知性的で、学ぶべきものなどほとんどない地域だと教わったのだ。

 もう少しなにかあるだろう、と思って読んだ本は、もともと英語やフランス語で書かれていて、書き方も文体もじつにエキゾチックな魅力にあふれていて、そのため読者は、アフリカをファンタジックに見る視点をたっぷりと養ってしまった。なんといってもエキゾチズムは外の世界を見るとき、とても魅力的な衣裳だし、「観光」のかなめだからね。

「ファンタジックにフィクション化されて書かれたルポや小説」というのは、とても面白い。でもこのファンタジーが曲者なんだ。楽しむだけなら直接ひどい害はないかもしれない。でも、それがファンタジーだと気づかないまま、そのような視点から<しか>、現に生きている人たちを見ることができなくなっているとしたら、それはとても困った問題だ。現実の暮らしのなかで人と人は誤解しあい、永遠にすれちがう。
 そして、アディーチェがいう「シングル・ストーリーの危険性」の穴に落ちてしまう。(つづく)