Elizabeth Costello : I believe in what does not bother to believe in me.──J. M. Coetzee

2009/07/12

わたしのジャズ修行(5)──アート・ペッパー/チェット・ベイカー

1969年ころに聴いて良い、面白い、すごい、と思ったジャズは、結果として、まず黒い肌のアメリカ人が演奏する音楽が多かった。そういう音楽として最初に認識したからなのかもしれない。おおいに偏見が入っていたことは、いまとなっては明らかだが、この偏見は一考にあたいするかもしれない、とも思うのだ。なぜなら、音楽そのものに埋め込まれた「切れ」が違うから。その「切れ」の違いを識別できる耳を育てよう、自分の感覚として獲得しよう、とあの当時はっきりと意志したのを覚えている。以来、ジャズ批評のたぐいはいっさい読まなかった。

その結果なのかどうか、とにかく、ああ、いいなあ、と思うのはニューヨークなど東海岸のアーティストのものが多かった。西海岸から発信される音楽、とりわけハリウッド近くから出てくる音楽は、好みではなかった。なぜだろう? 

最近、とある新聞記事(2016.2後記:辺見庸のコラム)のなかで触れられていた「チェット・ベイカー」とはどんなミュージシャンか、と家人に問われて、説明できなかったので(知人の推薦するアルバムを)1枚だけ買ってみた。「Chet Baker sings」だ。1950年代半ばの、ロスとハリウッドの録音、ベイカーはまだ20代後半の若さだ。このトランペッター、確かに、あまくて柔らかい素晴らしい音を出すのだけれど、私がアルバムを一枚ももっていない理由も、これを聴いてよく分かった。あますぎるのだ。(思い出すことば──甘さと権力!──笑)
 全曲歌が入っている。
 こんなふうに歌うのは3曲くらいで十分、あとは楽器だけでいいのに、と家人とも意見が一致した。自己憐憫、いや自己惑溺寸前の、過剰な退廃的雰囲気が濃厚で、それを臆面もなく前面にだしてくるところが、まことに鬱陶しい。

しかし、この時代の西海岸のジャズで、私が唯一例外的にもっているアルバムがある。「The Rreturn of Art Pepper」。このサックス奏者、音色はあまいが、切れはかなりよい。LPで聴いていたものを80年代にCDで買い直した。
 いずれにしても、麻薬、アルコール、セックス、退廃の極みのような米国の男中心の文化が咲かせた花である。

 あの時代、ジャズ音楽で身を立てることは、黒人男には立身出世になるけれど、白人男にとってはメインストリームから完全にはずれていく「落伍者」のイメージだったのだろう。おなじ音楽をやっても、まったく社会的意味合いが違ったことになる。ビリー・ホリディが歌う「Body and Soul」や「My Man」は臓腑にしみるすごさがあった。その理由を、いま、改めて考える。私たちの手元には、すでにトニ・モリスンの作品群があるのだ。

(ちなみに、50年代末から60年代初めに録音されたものを聴きたいという方には、スイング感あふれる、レッド・ガーランドをお薦めします!)

 やがて生演奏をやるジャズスポットへ通うようになってからは、もっぱら日本人の演奏する生の演奏を聴いた。彼らの出したアルバムは、買ったとしても部屋で聴くことはまれで、現場で聴くジャズと、部屋で聴くジャズは、わたしの場合、はっきり分かれていたように思う。