2009/04/09

故郷のなかの異国にて──『安東次男全詩全句集』より

故郷のなかの異国にて

 おお そうか そうなのか
 きみらなのか
 あのあかしおのふくれたつている
 ひようたんようにくびれたところ
 ときおり茫漠とした光りが
 かすめていたのは
 うさぎの目のような
 よわいうすあかい視線を
 天のいくかくにはなつて
 ゆきどころかえりどころのない
 ニヒルにくわれていたのは
 機雷のしずめてある伝説の鬼が島の入口を
 どこからともなくただよつてきて
 隅田川の川口から白ひげ橋のあたりまで
 何万というむれをなして
 死臭をはなつて
 ぶわぶわとながれこんできた
 きみら
 きみら熱帯魚の魚族たち
 その憂愁にけむつた
 びいどろのような
 うすあかい網膜に
 きみらはなにを灼きつけたのか
 埒もない人間どもの生殖をか
 それの原子爆弾による間引きをか
 そしてまことしやかなそれの理由づけをか
 きみらそのとき
 いきどおる力はなくて
 たつてきたとおい時代の
 暗黒のふるさとのことをかんがえていたのか
 それでぶわぶわと
 青天に死臭をはなつて
 天の一角に
 びいどろのように霞んで
 充血したすが目をなげていたのか

 きみらではなかつたのか
 ニューギニヤの焼けただれた土に
 穂先にまだ緑のいろをとどめている
 一本の雑草を
 はずみのようにつかんでいた
 ひとつの手首を見たのは
 地面のところどころに飴のように凝固した血の膜面に
 あたらしい砂がねばりつき
 つかんだ指のあたりには
 立秋の生きた色を
 のこしていたが

 きみらではなかつたのか
 ブーゲンビル沖の
 昼の二十五ミリの曳光弾が
 びつしり四重に折れかさなつた人肉の背に
 一筋の ももいろの
 火箭のようにつつ立つているのを見たのは
 海へころがり落ちぬためには
 人間の堤防を築いてうちかさなる以外に何ができたか
 せめてまえを下にして寝るのが
 最後の人類への抗議ではなかつたのか
 それを見たのは
 きみらではなかつたか

 それをまたいま
 きみらは
 ぶわぶわとながれこんできて
 死臭をはなつて
 あのびいどろのような憂愁をふくんだすが目で
 天の一角をながめていようというのか
 神のように ながめていようというか!

六月のみどりの夜は 定本──『安東次男全詩全句集』(思潮社、2008刊)

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晴れ晴れとした、さわやかな微風のふく今日は、7年前に詩人、安東次男が逝った日。今日もまた、ぱらりと開いた本のページをここに写す。

「ニューギニヤ」の名の見える詩を、ここに写したのは、昨年暮れに西江雅之氏の「パプア・ニューギニアの話」を聞いたこととも重なる。西江氏はそのとき最後に語った。「草は泣いている」と。
 旧日本軍の戦車の残骸、司令本部として使われた洞穴などが、そのまま残っている南の土地に、遺骨を拾いに行く家族はいても、それを書籍にあらわす人はいても、そこに、現地の人たちのことを語ることばは、ない。「草は泣いている」というのは、そのことを指している。そこにいても、見えない人たち。まさに「Invisible Man」、いや「Invisible People」というべきか。

 安東次男のこの詩は、2009年のいま、わたしが初めて読んだ1960年代末とはまったく違った、思いがけない衝撃をもって迫ってくるものがある。
 さて、数年ぶりにお墓参りに行ってこようかな。