Elizabeth Costello : I believe in what does not bother to believe in me.──J. M. Coetzee

2018/10/03

ママとわたし(とクッツェー) by セリドリン・ドヴィ

Mommy and Me (and Coetzee)

セリドリン・ドヴィ Ceridwen Doveyの興味深いエッセイです。

 現在30代の作家であるセリドリン・ドヴィは、1980年に南アフリカで生まれて──Waiting for the Barbarians が出版された年──幼少時に家族とオーストラリアへ移住し、現在もオーストラリアに住んでいます。その母親テレサ・ドヴィTeresa Dovey はラカンの理論を用いて、世界で初めてJ・M・クッツェーの作品をまとめて論じ、南アフリカの知る人ぞ知る出版社、アド・ドンカーから出版した人でした。
 
Teresa Dovey : The Novels of J M Coetzee: Lacanian Allegories: Johannesburg: Ad Donker. 1988.

 幼少時からJ・M・クッツェーの作品が身近にあって、母親からこの作家と作品の話を聞いて育ち、自分もまた作家になったセリドリンにとって、クッツェー作品はまるで「母乳のよう」なものだと語っています。食卓にさらりと置いてあったクッツェー作品のカヴァーが、幼いセリドリンに強烈な印象を残したようです。白人の男が切断された黒人女性の足を洗っている光景、とあるのはペンギン版のWaiting for the Barbarians ですね──とにかく、なかなか面白いエッセイです。

 たぶんこれは、もうすぐKindle で発売されるJ.M.Coetzee: Writers on Writers の出だしの部分だと思われます。女性が母親になりながらクッツェーを読むことについて、とても興味深い「体験」が書かれています。

 母親テレサの本は古書でしか手に入りませんが、、、、英文学研究者の方々は各国の大学の図書館に入っているのを参照できるはずです。残念ながらわたしは入手法がまだ発見できません😭。

 ちなみに、デイヴィッド・アトウェルがテレサ・ドヴィの1988年の本について手厳しい書評を書いていることも付記しておきます(Research in African Literatures Vol.20, No.3:1989)。ラカンだけでクッツェーのそれまでの作品(『ダスクランズ』から『フォー』までですが)を論じることはとてもできない、と。南アフリカの歴史と社会に軸足を置いたもっと深い洞察と読みが必要だと、具体的に例をあげて論じています。そのあとですね、『Doubling the Point』が構想されたのは。
 いずれにしても、80年代末の南アフリカでクッツェーという作家と作品をめぐって、とても熱く激しい文学的、歴史的、哲学的議論がやりとりされていたことがわかります。

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2018.10.8──付記:Dovey の読みを「ドヴェイ」から「ドヴィ」に変更しました。1990年代にアフリカの文学に詳しい英文学者が「ドヴェイ」と発音していたので、その表記に従ってきましたが、テレサは南アフリカで英語の達者なオランダ系植民者を父や祖父に生まれた人だそうなので、オランダ語やアフリカーンス語の発音に近い「ドヴィ」とします。