Elizabeth Costello : I believe in what does not bother to believe in me.──J. M. Coetzee

2017/08/16

渇いた耳にしみるセザリアの声

思っていたよりずっと渇いていたらしい。耳という感覚が。このアルバムを、本当にひさしぶりに聴いて、ほとんど泣きそうになっている自分を発見したのだ。

 CESARIA EVORA の SÃO VICENTE DI LONGE

このブログで初めてセザリア・エヴォラのことを書いたのは、2010年5月9日だ。まだセザリアも健在、3.11も起きていない。こんな歌手がいるよ、とカーボベルデの歌姫、セザリア・エヴォラのことを教えてくれたのは、長年のつきあいの編集者O氏だった。わたしにとって初めて聴いたセザリア・エヴォラ、それがこのアルバムで、たぶん2002年か2003年だった。
 とりわけ最後から二番目の曲、CREPUSCULAR SOLIDÃO が好きで、何度も何度も聴いた。あ、またしても「薄明」だ。クレプスキュル、クレプスクラル。ダスク。


 ここ1年、JMクッツェーの『ダスクランズ』の新訳にかかりきってきた。途中チママンダ・ンゴズィ・アディーチェの『男も女もみんなフェミニストでなきゃ』も出したけれど、原著が出版されてまもなく神奈川大学評論に訳してあったので、今回は見直しをして解説を書いただけ。

 長さからいっても、内容の濃さ、重さ、迫力からいっても、圧倒的にクッツェーの『ダスクランズ』の新訳が仕事の中心を占めてきた1年あまり。その作業からほぼ解放されて迎えた旧盆のお休み。セザリアの歌声を聴いて、つくづく思うのだ。感覚の表面が渇ききっていたと。いま耳から、砂漠に雨が降るように、といいたくなるような、そんな気分で、セザリアの歌声がしみる、しみる。