冷たい雨が降る日。ふと目をあげると窓の向こうに、色づく杏の葉が見える。雨に濡れるとひときわ鮮やかさを増す色合いを楽しみながら、キャロル・クラークソンの『J.M.Coetzee:Countervoices』を読む。
クラークソンは J・M・クッツェーの研究者でケープタウン大学の教授だ。2012年12月にクッツェーが同大学で『The Childhood of Jesus』から朗読したとき、彼を「Welcome home, John!」と紹介した人である。
この本は2009年に出た。近刊書として本のタイトルを目にしたのはちょうど『鉄の時代』の解説を書いているときで、早く読みたいと思ったものだ。拙訳『鉄の時代』は2008年9月刊行だったので、結局、解説の参考にはできなかったけれど、それでもおおまかな備忘録的な意味を込めて、解説内に「カウンターヴォイス」という語を入れておいた。というわけで「カウンターヴォイス」はそれ以来ずっと宿題のようになっているのだ。
クッツェーの自伝的三部作『サマータイム、青年時代、少年時代』を訳し、自伝とフィクションをめぐる作家の立ち位置を考えながら解説も書き、本自体の出版も無事に終えたいま、あらためてクラークソンのこの本を読みなおしてみる。彼女は、クッツェーが自分を語る英語内で一人称と三人称を意識的に使い分けることについて、言語学的な背景と倫理学的な背景の両方から迫っていく。ちなみにクッツェー自身は60年代の構造主義言語学を学んだ人であり、その理論を十全に取り込み、それを超えるべく実験的作品や批評を書いてきた作家である。この本は、クッツェーのそういった試みを、作家の文章や発言を具体的にあげながら解明しようとするスリリングな著作なのだ。
以下に目次を。これを見るだけでも、興味がそそられるではないか。
Introduction
1 Not I
2 You
3 Voice
4 Voiceless
5 Name
6 Etymologies
7 Conclusion: We
Notes
Bibliography
Index
2009年刊なので、この本が扱っている自伝的作品は『少年時代』(1997)と『青年時代』(2002)までで、2009年の『サマータイム』は残念ながら出てこない。だが、彼女の議論の延長線上にこの三作目をのせて考えてみると、ぱっと視界が開ける瞬間がある。クッツェー作品には美学と倫理学のまれにみる幸福な結婚があるのだ。
Not I はベケットから。最後の結論:We までの展開は? 読者と書き手の、自伝をめぐる暗黙の了解事項をどう揺さぶるか。読者としての書き手の位置は? You と I のあいだに入る三人称。he を I で書き換えてみると見えてくるもの。
日本語は、もともと You が明確に存在しないところが厄介だ。彼我の境目もはっきりしないのはさらに厄介(「あわれ」は、あれ、と、われ、がミックスしたものか?)なんてことを考えながら読んでいく。
記憶は時間の経過とともに上書きされ、作られていくことは紛れもない事実だ。そこを明確に意識化しないと『少年時代』や『青年時代』で三人称現在が用いられている意味は理解できないかもしれない。また、語る者と語られる者がきっぱり分離して、作品内で熾烈な格闘をする『サマータイム』は容赦なく読者を試してもくる。クッツェーを読むといつも、自己検証能力がびしびし鍛えられる。そこがクッツェー作品の最大の魅力なのだ。
ちなみに、クラークソンのこの本は2013年に学術書としてはめずらしくペーパーバックになっている。多くの人に読まれている証拠だろうか。そういえば、2年ほど前に来日したデレク・アトリッジ氏が「キャロルの本は読んだ?」と聞いていたことも思い出される。
クラークソンは J・M・クッツェーの研究者でケープタウン大学の教授だ。2012年12月にクッツェーが同大学で『The Childhood of Jesus』から朗読したとき、彼を「Welcome home, John!」と紹介した人である。
この本は2009年に出た。近刊書として本のタイトルを目にしたのはちょうど『鉄の時代』の解説を書いているときで、早く読みたいと思ったものだ。拙訳『鉄の時代』は2008年9月刊行だったので、結局、解説の参考にはできなかったけれど、それでもおおまかな備忘録的な意味を込めて、解説内に「カウンターヴォイス」という語を入れておいた。というわけで「カウンターヴォイス」はそれ以来ずっと宿題のようになっているのだ。
クッツェーの自伝的三部作『サマータイム、青年時代、少年時代』を訳し、自伝とフィクションをめぐる作家の立ち位置を考えながら解説も書き、本自体の出版も無事に終えたいま、あらためてクラークソンのこの本を読みなおしてみる。彼女は、クッツェーが自分を語る英語内で一人称と三人称を意識的に使い分けることについて、言語学的な背景と倫理学的な背景の両方から迫っていく。ちなみにクッツェー自身は60年代の構造主義言語学を学んだ人であり、その理論を十全に取り込み、それを超えるべく実験的作品や批評を書いてきた作家である。この本は、クッツェーのそういった試みを、作家の文章や発言を具体的にあげながら解明しようとするスリリングな著作なのだ。
以下に目次を。これを見るだけでも、興味がそそられるではないか。
Introduction
1 Not I
2 You
3 Voice
4 Voiceless
5 Name
6 Etymologies
7 Conclusion: We
Notes
Bibliography
Index
2009年刊なので、この本が扱っている自伝的作品は『少年時代』(1997)と『青年時代』(2002)までで、2009年の『サマータイム』は残念ながら出てこない。だが、彼女の議論の延長線上にこの三作目をのせて考えてみると、ぱっと視界が開ける瞬間がある。クッツェー作品には美学と倫理学のまれにみる幸福な結婚があるのだ。
Not I はベケットから。最後の結論:We までの展開は? 読者と書き手の、自伝をめぐる暗黙の了解事項をどう揺さぶるか。読者としての書き手の位置は? You と I のあいだに入る三人称。he を I で書き換えてみると見えてくるもの。
日本語は、もともと You が明確に存在しないところが厄介だ。彼我の境目もはっきりしないのはさらに厄介(「あわれ」は、あれ、と、われ、がミックスしたものか?)なんてことを考えながら読んでいく。
記憶は時間の経過とともに上書きされ、作られていくことは紛れもない事実だ。そこを明確に意識化しないと『少年時代』や『青年時代』で三人称現在が用いられている意味は理解できないかもしれない。また、語る者と語られる者がきっぱり分離して、作品内で熾烈な格闘をする『サマータイム』は容赦なく読者を試してもくる。クッツェーを読むといつも、自己検証能力がびしびし鍛えられる。そこがクッツェー作品の最大の魅力なのだ。
ちなみに、クラークソンのこの本は2013年に学術書としてはめずらしくペーパーバックになっている。多くの人に読まれている証拠だろうか。そういえば、2年ほど前に来日したデレク・アトリッジ氏が「キャロルの本は読んだ?」と聞いていたことも思い出される。