ジンバブエの若手作家ペティナ・ガッパが1月16日付けガーディアン紙に、一昨年ケイン賞を受賞したオソンドゥの短編集「Voice of America」の書評を書いていた。これがなかなか面白かった。
西欧諸国で作品を出版するアフリカ人作家はリプリゼンテーション(代弁)について二重の重荷を負っている。西側の批評家や読者はアフリカ人作家の声や物語を彼/彼女の民族や国民を代弁するものとして読むが、作家自身の国の批評家や読者は、西欧人によって選ばれて本を出版できる作家というのは特権的地位にあるのだから、自国の人間がよしとする形で代弁し、物語は「ポジティブ」でなければならない、と考えるのだという。
これでは作家は国民の意思を代弁する政治家か、アフリカ大陸がいま切実に求めているポジティブな印象を打ち出すための広報係として、この大陸を「ブランド再生」させなければいけないみたいだ、とガッパはちょっと不満そう。作家はあくまで個性的な想像力をもった1人の人間にすぎないのに、という彼女の指摘はもっともで、この自由な感性に新しい世代の声の響きが感じられる。
それとは別に、言語や民族を超える世界文学を読み解くには、作品をあくまで1人の作家のものとして読みながらも、植民地化によって各大陸に散らばった英語、フランス語、スペイン語といった帝国言語が、独立した国々で現地語と共存しながらどのように使われてきたかにも思いをはせることが必要かもしれない。たとえばガッパの作品内には、ジンバブエの民族言語のひとつであるショナ語がたくさん出てくる。自分は英語とショナ語が混じった「ショニングリッシュ」で書く、とガッパはいう。
1月末にインドのジャイプールで5日間にわたって開かれた文学祭では、この帝国言語の問題について活発な議論がなされた。南アフリカ出身でオーストラリア在住のJ・M・クッツェーも参加し、マザー・タング(母語)内の内密な言語空間について語ったという。
第一言語である英語を十全に駆使するクッツェーにして「英語で書くのは他者の母語で書いているようだ」というのだからこの問題は奥が深い。彼はオランダ人植民者の家系に生まれ、家では英語、親戚とはアフリカーンス語で会話したという。そのためか、英語にもアフリカーンス語にも深い疎外感を抱いて生きてきた。
「言語や民族を超える」作家が不可避的に直面する人間関係への不安と不確かさ。そこから卓越した文学が生まれるのは紛れもない事実ではあるけれど、考えてみると、言語と作家の関係はまことに因果なものでもある。
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付記:2011年2月8日北海道新聞夕刊「世界文学・文化 アラカルト」に書いた記事に加筆しました。
今日、2月9日はジョン・クッツェーの誕生日!