Elizabeth Costello : I believe in what does not bother to believe in me.──J. M. Coetzee

2009/10/08

フィクションの枠内で虚実のあわいを漂う”クッツェー”

J・M・クッツェーは発表する作品ごとに奇抜な手法を使って、読者を驚かせたり楽しませたりしてきた作家だ。8月にHarvill Secker から出た『サマータイム/Summertime』は1997年の『少年時代』、2002年の『青年時代』につづく自伝的作品の最終巻で、その斬新な手法にまたしても誰もがあっけにとられた。

「自伝的作品」とするのは『少年時代』も『青年時代』も3人称現在形でフィクションとして書かれているからだ。作家の少年期、青年期の横顔を彷彿とさせるエピソードには、きらりと光る真実がチップのように埋め込まれている。
 このような書き方の根底には、過去の自分をその当時の自分とは異なる存在が書いている事実をあいまいにしない、という意識的な姿勢がある。記憶や思い出を現在から見て都合よく変形しながら、1人称過去形で物語る従来の「自伝」という概念に対して、クッツェーは根底的な疑問をつきつけてきたといえるだろう。

 今回の『サマータイム』ではさらに、手法の劇的変換が見られる。これがまたすこぶる刺激的で、端正な文体はじつに軽やか。
 全体は7章に分かれ、第1章と最終章が作家の残したメモと断章で、まず第1章で米国から帰国した独身のジョンが、やもめの父親と廃屋のような家に暮らしていることが分かる。(実際は当時クッツェーには妻も子もいたし母親も健在、その事実は作品内から完全に消去されている。)
 ところが第2章からは一変してインタビュー形式となり、ヴィンセントなる若い伝記作家が登場する。そして読者はいきなり作家ジョン・クッツェーがすでに死んでいることを知らされるのだ。

 伝記作家は生前のクッツェーとは面識がなく、『ダスクランズ』を書きはじめたころから第二作目『その国の奥で』を仕上げていた時期(1972〜77年)に焦点をあて、彼と親交のあった5人の人物にインタビューを試みる。その5人とは、帰国したばかりのジョンの情人となる人妻ジュリア、カルーの農場でジョンが唯一心を開くことのできたいとこのマルゴ、ジョンが一方的にのぼせあがったブラジル人ダンサーのアドリアーナ、ケープタウン大学時代の同僚マーティン、10歳年下のやはり同僚でジョンといっしょにアフリカ文学の講座を教えるフランス人、ソフィーだ。
 とにかく女性たちの語り口がすごい。当時のジョンに対して情け容赦ないことばをあびせるのだ。そこに浮かび上がるのは、ヒッピーのように髭を生やして詩を書いている不器用な本の虫、他人に自分を開いて見せることができず、一族のあいだでも徹底的な変人として扱われる人物である。

 フィクションという枠内で、虚実のあわいを漂いながら、あくまで外側から突き放したように自画像を描こうとする物語は、ときに可笑しく、ときに哀切で、痛々しいまでに苛烈だ。「他者に語らせる自伝」という形式によって初めて、30代半ばという「朱夏のとき」を書くことができるとクッツェーは考えたのだろうか。長いあいだ温めてきたプロジェクトだと、作家自身は語っていた。
 研ぎ澄まされたことばと、行間にちりばめられた貴石のような沈黙が、心にしみる作品である。

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付記:J.M.クッツェーが3度目のブッカー賞を受賞したら、ある全国紙に掲載される予定で書いたものです。残念ながらブッカー賞ハットトリックならずで、ここに載せることにしました。
 2012.5.13/少し補筆しました。