2009/05/21

J・M・クッツェーを読むということ

「あること」を書きながらその「あること以外」の存在を、それとなく、しかし確実に感知させるように書く、それがクッツェーだ。だから読者は作中人物にぴったり自分を重ねて読むことができない。ざらりとした感触が残る。最初は違和感が強い。しかし、クッツェーの作品はつい読ませてしまう、読んでしまう。何冊か読むうちに、もう1冊、もう1冊、と読みたくなる。そしていつしか、クッツェー文学のとりこになる。
 このパターン。なんだろう、これは。そう、珈琲とか、ビールとか、ワインとか。一種のアディクトに似ていなくもない。ほとんど中毒のようになっていくところが。

 それは読み手のなかに、それまで気づかなかったなにかの存在を喚起するからだ。名づけえないもの。でも、気になる。一度、気がつくや、もう無視できないなにか。そのような存在との出会いが、クッツェーを読むという行為のなかに含まれているように思えてならない。
 それは間違いなく、新しい世界観への扉となる。風通しのあまりよくない部屋にいるとき、光と、風をほおに感じたいとき、窓をあけて、首を少しだけ上に向けてみる、そんな行為にも似ている、なにか。


photo ©Bert Nienhuis