J・M・クッツェー研究ではこの人の右に出る人はいないといわれるデイヴィッド・アトウェルの著書『JM Coetzee and the Life of Writing ──face to face with Time』がアラン・ペイトン賞の最終候補になっている。そのアトウェルのインタビューが Books Live に載った。気になったところを少しだけ訳してみる。
──この本を書いた動機は?
DA:エヴァ・コッセ(クッツェーのオランダの版元)から8年前に、短い伝記を書いてみないか、といわれたんです。クッツェーの自伝的作品の第3部にあたる『サマータイム』が出るのにあわせてね。その仕事に僕が向いているかどうか、ちょっと自信がなかった。最終的にはジョン・カンネメイヤーがじつに浩瀚な伝記を書いたわけですが、エヴァと僕はその後も連絡を取り合った。クッツェーの原稿類がテキサス大学で読めるようになったとき、僕は自分が書くべき本のことがわかった──それはクッツェーの創作過程の研究だったんです。
──クッツェーが南アフリカにいないことは、彼の作品に影響しているでしょうか?
DA:ええ、影響していると思います。南アフリカはわれわれを倫理的な面で非常に苦悩させますし、想像性もです。クッツェーはその不快感を利用して、読み手を引き込む、美しい小説を創造することができた。彼は奇妙にも一度、『白鯨』のハーマン・メルヴィルと『ゴドーを待ちながら』で名高いサミュエル・ベケットを比較しました。クッツェーは、ベケットに欠けているのは鯨だ、といったんです。その意味するところは、自分は精神的にはベケットに近いけれど、クッツェーは、とにかく自分には鯨がいるというのです。鯨とは危機の状態にあること、あるいは、歴史を爪の下に直に感じている、ということなんです。オーストラリアでの彼は、自分自身ともっと和解していて、そんな危機感はなくなりました。
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付記:「ベケットに欠けているのは鯨だ」とクッツェーがいったのは、ほかでもない、2006年9月末に彼が初来日したときの講演でのことだった。この講演は『ベケットを見る八つの方法』(水声社)に田尻芳樹さんの訳で入っている。
「鯨」が危機の状態のことだ、というのは2006年ではなく、2016年のいま、幸か不幸か、もっと現実味をもって理解できるようになったかもしれない。原発メルトダウン後にあらわになった、われわれの住み暮らす土地の危機として。
「鯨」が危機の状態のことだ、というのは2006年ではなく、2016年のいま、幸か不幸か、もっと現実味をもって理解できるようになったかもしれない。原発メルトダウン後にあらわになった、われわれの住み暮らす土地の危機として。