E. Costello : I believe in what does not need to believe in me.──J. M. Coetzee

2013/10/05

管啓次郎『時制論』朗読会へ行ってきた

 仕事も一段落したところで、下北沢にある本屋さん「B&B」のイヴェントに行ってきた。午後3時開始のマティネーで、出し物は、管啓次郎の第四詩集『時制論』(左右社刊)の朗読会。以下にその極私的感想を。
 
管啓次郎の詩を読むことは、ほとんど、なにも持たずに荒野に出ていくことに似ている。突然、ヒグマが襲ってきたり、唐突に時間の裂け目が広がったり、思いがけない風景のなかに置かれて足場をすくわれたりする。
 だから、読むのはたいがい曇り空の朝、頭がまだ冴え渡るときにかぎると決めていた。だが、それはあくまで能動的に読むときであって、今日は詩人みずからが朗読してくれるのだから、もっぱら受け身に徹して楽しめばいいのだ、と思って出かけた。

 これまで彼は2010年9月に出た『Agend'Ars』を皮切りに、『島の水、島の火』『海に降る雨』と毎年詩集を1冊、それもおなじ形式で出すと決めて、本当にそれを実行してきた。今回の詩集『時制論』はこのシリーズ最後のもので、これまでの3冊とやや趣を異にしている。それは1ページ目からわかる。1行1行が完全に独立していて、それも過去形と現在形が交互に折り重なるように展開されているのだ。日本語の過去形はたいがい「○○た」で終わり、現在形は動詞なら「u」、形容詞なら「i」の音などで終わるので、最終音が耳に一定のリズムを残す結果になる。

 朗読を聞いているうちに、詩行特有のシンタックスに耳が慣れてきて、頭上30センチほどのところに意識が集中するようになった。ところが、次に複数の声が聞こえてきた。メキシコ文学研究者の南映子、写真/美術評論家の倉石信乃をまじえて交互にテクストが読まれていったのだ。このとき、聞いている耳に奇妙な揺れが起きた。過去と未来の行を支える声が入れ替わることで、ある「ずれ」が生じたのだ。地上30センチのところで浮遊していた感覚の足場のようなものが、完全に崩れて、つぎはどうなる? という覚醒へ向かって耳が研ぎ澄まされていく。この感覚は面白かった。朗読と朗読のあいまに演出家の高山明とのトークが入った。
 
 何度か彼の作品朗読を聞いてきて、ことばの砂嵐を全身にあびる覚悟で行ったのだけれど、今回はときおり笑いを誘う詩行があったり、ナンセンスめいた組み合わせがあったり。まるで、やわらかな温かい雨が頭上に降ってくるような感じで、意外なほどの心地よさだった。外は秋の始まりの小雨。すぐ下の階の店で食べた、こんがり焼けたローストチキンがまた美味であった。

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付記:ちなみに表紙の写真に写っているのは、蝙蝠、かな?