Elizabeth Costello : I believe in what does not bother to believe in me.──J. M. Coetzee

2015/11/08

2014年8月にクッツェーがコロンビアの中央大学を訪れたときの動画

昨年、2014年8月にコロンビアを訪れた J・M・クッツェーが、個人ライブラリーをアルゼンチンの出版社から出すことについて語っている動画です。スペイン語の通訳がついています。昨年のブログはこちら、そしてこちらで



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付記:2015.11.10──忘れないうちに書いておこう。
 クッツェーは最初にボルヘスの二つのライブラリー計画について述べながら、今回の自分のライブラリーがそれとはまったく異なることを説明する。(彼自身はアルゼンチンの出版社からこの企画の申し出を受けて12冊の個人ライブラリーを出すことになったそうだ。)
 クッツェーの個人ライブラリー12冊に名前のあがる作家はすべて、クッツェーがみずからの作家形成する過程で基礎となった作家の作品であり、完全にこの作家個人の好みで選ばれている。そこにはダンテもドストエフスキーもプルーストもいない。ドンキホーテもユリシーズもない。選ばれた作品はどれも、あまり広く知られているとはいえないもので、トルストイでいえば『戦争と平和』ではなく『イヴァン・イリイチの死』』だ。理由は自分の場合もそうだったように、読む人の「思想」に痕跡を残すよりもむしろ「考え方」に、さらには「書き方」に痕跡を残す作品を選んだからだとか。

 こうしてクッツェーは第1巻から第3巻まで、クライスト、ヴァルザー、そしてデフォーについて注目すべき点をあげていく。
 真っ先にあがるクライストはドイツ語で書く作家で、彼の文章の特質はエネルギー。クライストの文章には読者を有無を言わさずどこかへ連れ去る力があると。
 また、ロベルト・ヴァルザーはスイスのドイツ語で書く作家だが、スイスに生まれたというマイナー性から逃れようと一旦はドイツに向かうけれど、またスイスに戻って以来、ずっとスイスで書いた作家。この位置的、言語的辺境性と、ヴァルザー作品の主人公たちのマイナー性や、分割可能な作品構成にクッツェーは焦点をあてる。ここは非常に面白い分析だ。彼の書き方は自伝的であるが感傷的ではないとクッツェーは述べる。また、狂気は書くことの助けにはならないとも。
 最後にデフォー、彼は英語文学のカノンに入る作家ではなく、むしろアマチア作家といえる人である。ある時期に集中して作品を書いているが、その書き方は決して構成力や文章力を鍛えあげた書き方とはいえないが、実践的な才能をもち、社会生活をさまざまな面で具体的に経験していたゆえに、複雑な状況や人間関係の機微をすくいあげて言語化できる稀に見る知性の持ち主だった。結果として彼は作家として適切な時代に生まれたと。

 この調子で、カフカやベケットなども語ってほしかったけれど、残念ながら時間切れ。また、このライブラリーにはカミュやフォークナーも入れたかったが、著作権がクリアできずに入れることができなかったそうだ。ということは、カミュやフォークナーもクッツェーという作家の「書き方」に影響をあたえた作家だということだ。そういえば、彼のエッセイ集『Inner Workings』にはフォークナーの自伝について書かれた書評も載っていた。あれは面白かった。
 さらに12巻目に注目! これは詩のアンソロジーになる予定で、南アフリカとオーストラリアの、有名無名の若い詩人の作品から選ばれる予定だそうだ。そうか、ここで「南」の文学が、現在形でくっきりと示されることになるのか、と納得した。