2019/12/29

そのうちサルバドールが

虫色の目をしたサルバドールは、
くせ毛の髪にふぞろいの歯をしたサルバドールは、
先生に名前をおぼえてもらえないサルバドールは、
友だちがひとりもいない男の子。

っていくのは、どこかよくわからないけど、
景気がいいとはとてもいえない家並みのあたり。
粗削りの木材で作ったドアの奥で、
毎日、朝もまだ薄暗いうちに、
眠たそうな弟たちを揺りおこして、
靴のひもを結んで、
髪に水をつけてとかしてやって、
ブリキのカップにミルクとコーンフレークを入れて食べさせてやる。

のうちサルバドールが、遅かれ早かれ、
したくのできた弟たちと数珠つなぎになってやってくる。
赤ん坊のことで忙しいママの代わりに、
セシリオとアルトゥリトの腕を引っぱり、
ほら急いでっていってる。
だって今日は、昨日もだけど、
アルトゥリトがクレヨンの入った葉巻の箱を落っことして、
あたりに赤や緑や黄色や青のクレヨンや、
ちっちゃい黒い棒まで散乱して、
アスファルトの水たまりの向こうまで飛んでしまったので、
横断歩道のところで、交通安全のおばさんが、
サルバドールがクレヨンを拾い終わるまで
車の通行を止めてくれてる。

わくちゃのシャツを着たサルバドール。
喉もとから声を出してなにかいうとき、いつも
咳払いをしなくちゃならなくて、そのたびに、
すいません、というサルバドール。
体重18キロの少年の体に、
地図のような傷痕をつけて、
傷めつけられた歴史を背負って、
羽とぼろ布がつまったような腕と脚
をしたサルバドールは、目のところで、
心臓のところで、
両こぶしをあてるとドキンドキン
といってる鳥かごのようなその胸のなかで、
サルバドールだけが知ってることを感じている。

せの100個の風船と悲しみのギターをひとつ入れておくには
ちいさすぎる体をしたサルバドールは、
教室のドアから出ていくほかの少年とちっとも変わりがないのに、
校庭の門のあたりで待ってろよといっておいた弟たち、
セシリオとアルトゥリトの手をとって、
色とりどりの生徒の服や持ち物のあいだをぬって、
肘と手首を交叉させたバツ印をくぐりぬけて、
走りまわる靴をいくつもかわしながら、
急ぎ足で帰っていく。
みるみるちいさくなる姿が、
まぶしい地平線にとけていく。
ちらちら揺れながら消えていく凧の
残像のように。



****

<一年の終わりに>
23年ぶりに復刊したサンドラ・シスネロス『サンアントニオの青い月』(白水Uブックス)から、水彩画のようなタッチの、散文詩のような掌篇を。ここでは試みに、行分けにしてみました。

みなさま、どうぞよいお年をお迎えください!

2019/12/26

TORUS にインタビューが載りました

「物語」が「イズム」を超えるとき


 秋の日の昼下がり、まだ緑の木の葉が揺れる川の近くの公園で写真を撮って、それからカフェで数時間、話がはずみました。さあ、そろそろ、と腰をあげるとき、外はもう暗くなっていて......。

 アフリカとか、フェミニズムとか、移民とか、今年文庫になったチママンダ・ンゴズィ・アディーチェの『なにかが首のまわりに』と『アメリカーナ』を中心に話をすると、どうしても「アフリカ」「アメリカ」「ヨーロッパ」という三つの地点が視野に入ってくる。わたしにとって翻訳という仕事を始めたのは、南アフリカにかかわりだしたときで、最初に出たのがJ・M・クッツェーの『マイケル・K』でしたから、もう30年以上むかしのことになります。

 これまでクッツェー8冊、アディーチェ7冊、訳してきました。年齢は親子ほども、いやそれ以上ことなるアディーチェとクッツェーですが、訳者にとっては、アフリカ大陸で生まれ、そのこととまっすぐに向き合って書いてきた作家として、補完しあう関係にある、そんな話をしました。これまでの仕事をふりかえる大変よい機会をいただきました。Merci!

 あっちこっちに飛んでしまう話者の話を、きちんとまとめて記事にしてくださったKさんとSさんに感謝します。

2019/12/23

東京新聞「土曜訪問」に

東京新聞(中日新聞)の夕刊(2019.12.21)に記事を書いていただきました。facebook でも twitter でもシェアしたけれど、備忘録のためにここにも貼り付けておきます。

「土曜訪問」──最も深い読者になる


クッツェーの翻訳者として話を聞かせてください──という依頼で、あれこれ話しました。わたしが翻訳に向かった動機や、初めての訳書『マイケル・K』など、これまで訳したものについて。
 とても熱心に質問して、中身の濃い記事にまとめてくださった記者のMさん、どうもありがとうございました。

2019/12/19

サンアントニオの青い月:サンドラ・シスネロス

窓のむこうには、12月の曇り空に包まれて、鮮やかな黄色の葉を残す緋寒桜の木がいっぽん。

🎉🎉 白水Uブックスになったサンドラ・シスネロスの2冊 🎉🎉
ちょうど26年前のクリスマスイヴに、生まれて初めてアメリカ大陸の土を踏んだ私たち。私たちというのは、まだ小学生と中学生だった2人の娘とわたしのことだ。

 飛行機を降り立ったアルバクウェルケ(アルバカーキ)空港では、娘たちに大人気のダニーさんがトナカイの角をあしらったハットを被って出迎えてくれた。(Thank you so much, Dany!  We'll never forget your kindness.)

 左手にリオグランデを見ながら車で一路サンタフェへ。

 サンドラ・シスネロスの作品2冊を翻訳することは決まっていたのだけれど、そのまえにやらなければならない仕事があって、結局、晶文社からシスネロスの翻訳が出たのは1996年だった。ほぼ4半世紀という時をはさんで、まず『マンゴー通り、ときどきさよなら』が昨年、そして『サンアントニオの青い月』が今年、白水Uブックスから復刊された。感無量だ。

 カバーには今回もまた、テックスメックスのさまざまなモチーフを鮮やかな色合いで描いてくれた、沢田としきさんの作品を使わせていただいた。解説は金原瑞人さん。クリスマス・イヴには書店にならぶはずだ。プレゼントにぜひ!
 
🌺🌺🌺 原著とならんで 🌺🌺🌺
マンゴー通り、ときどきさよなら』では、女性をとりまくさまざまな問題がまだストレートなことばにならなかったので、10代の少女の声を借りて描いたけれど、この『サンアントニオの青い月』(原題は「女が叫ぶクリーク」)ではやっと女たち自身のことばで語ることができた、と作者シスネロスが語っていたのを思い出す。22篇の短編を読み進むと、その意味がじんじんと伝わってくる。
 原作が扱う時代は1980年代末から90年代にかけて。アメリカとメキシコの国境地帯のいまとメキシコ革命の時代だ。

 この作品が発表された当時から、シスネロスは自分のことを「戦闘的フェミニスト作家と呼ぶなら呼んでいいわよ」といっていた。でも、残念なことに、初訳が出た1996年の日本では、やっぱり「フェミニズム」とか「フェミニスト」という語を表に出して使うことがためらわれた。つい最近までそうだったわけだけれど。

 小説や詩や、いわゆる「文学」がフェミニズムやフェミニストという語と関連させることを忌避した時代は、本当に、長かった。でもじつは、女たちの生と性の底流では、いつだってずっと、その見えざるたたかいが続いてきたのだ。やっとそれが表に出てきた、つまり主流の文学のなかに堂々と認められるようになってきたのだ。それがここ数年の大きな変化だ。

 もう後戻りはできない。🎉🎉🎉

Photo by Keith Dannemiller
フェミニズムの勢いが伝えられるメキシコや、チリや、アルゼンチンといったラテンアメリカで書かれている女性たちの文学がもっと訳されるといいなと思う!
 
 こうしてシスネロスの作品が復刊されて思うのは、いまならサンドラ・シスネロスを「フェミニスト作家」と誇りをもって呼べるということだ。「フェミニスト」や「フェミニズム」が概念としてごわごわした分厚いコートのように感じられた時代は去り、ふわふわした薄着も柔らかな編み込みセーターも、真っ赤なルージュもそれはそれでみんなフェミよと、あっけらかんといえる時代になったのだ。
 ここまでくるのに、どれほど多くの人たちの苦しみと奮闘と、被害者というレッテルを剥がして人間として誇りを取り戻すための、逆転の力学がたたかいとられてきたことか。

 もう後戻りはできない。🌺🌺🌺


****
夜に。サンドラ・シスネロス『サンアントニオの青い月』(白水Uブックス)のみほんがとどいた今日、ミッドナイトプレスの岡田幸文さんの訃報を知る。1990年代初めに、シスネロスの詩の翻訳をいちはやく、彼が刊行する詩誌に掲載して応援してくれたのが、岡田幸文さんだった。ご冥福を心からお祈りします。

2019/11/30

河出文庫『アメリカーナ』上下巻──みほんがとどいた!

ピンポーン! 🎉🎉🎉🎉🎉 ‼️

宅配便の人が押すボタンといっしょにとどきました。
河出文庫に変身したチママンダ・ンゴズィ・アディーチェの
『アメリカーナ』上下巻! 12月6日の発売です。



午前中にとどくはずが、なかなかこない。待っていたのです。夜になってようやくやってきました。ほっとして、今日はもうその安堵と嬉しさだけで十分!
帯のことばが、なんだかまぶしい。そして怪しい。



2019/11/02

J・M・クッツェー『続・世界文学論集』

J・M・クッツェー『続・世界文学論集』(田尻芳樹訳・みすず書房刊)がとどいた。

     🎉🎉🎉🎉🎉 ‼️

「モラルの物語を紡いできた作家は最高の読み手でもある」という帯のことばがいい。
 
 とにかくクッツェー歴30年の身としては、クッツェーの本が日本語で出ることが嬉しい。おまけにこれはより抜きのエッセイ・アンソロジーだから、クッツェーという作家が小説の書き手であるだけではなく「読み」の名手であることも堪能できる。

 これまでのクッツェーが書いた文学論、書評は『ダブリング・ザ・ポイント』を入れると、Stranger Shores、Inner Workings、Late Essays と4冊あって、今回出たのは後半の2冊から選ばれたものだ。

 なかでも文人とはまったくいいがたいヘンドリック・ヴィットボーイが書いた「ヴィットボーイの日記」が入っているのが嬉しい。去年のいまごろこのブログでも3回に分けて論じたけれど、『ダスクランズ』で作家デビューしたクッツェーが晩年のエッセイ集にこの文章を入れた理由は、作家クッツェーの仕事を考える上で不可欠だ。

 先日もメキシコ自治大学で述べたように、植民地主義の歴史的な暴力とそれによる後遺症が、いまも世界のあちこちで血を流している現実と、作家クッツェーは書くことで向き合おうとしてきたことがわかる。ヨーロッパ人はそのguilty とどう向き合うか、精神分析医、アラベラ・カーツとの往復書簡集でも扱ったが、と語っていた。

 そして、つい最近第3巻『イエスの死』が出て完結した三部作について、作品についてあれこれ述べるのはひかえて本自体に語らせようと思うとしながらも、第1巻をタイトルなしで出して読者が最後のページを読み終わったあとにJesus という語が目に入るようにしたかったこと、若いころからマタイの福音書をもとに映画化されたパゾリーニの「奇跡の丘」をくりかえし観てきたこと、キリスト教徒としてではなくワイルドなイエスという若者に興味があると述べた。暴力と暴力の連鎖を断ち切るために必要なのは、self-sacrifice と関連があるとも。

 とにもかくにも、非常に幅広く、深く「思考してきた人」ならではの文章が、正・続ならぶと壮観です。

追記:ここまで書いて、ラグビーのワールドカップで南アフリカが3度目の優勝をしたことを知った。🎉🎉🎉 ひさしぶりに「コシシケレリ・アフリカ」を聞いた。😂

2019/10/27

都会の擁護者こそ野蛮人──J・M・クッツェー

  メキシコ国立自治大学でのセッションは、ここ数年のJ・M・クッツェーの著作と幅広い活動の総まとめのような感じだった。

2018年4月末にアルゼンチンの大学で実施された「南の文学」講座のラウンドテーブルで、北のヘゲモニーを批判するクッツェーのことばを聞いて、「すばる 6月号/2019」にこう書いた。

「この作家が1974年に初作『ダスクランズ』を出すために、まずイギリスやアメリカのエージェントに何度も働きかけていたことを思い出す。すべて不首尾に終わって、ようやく南アフリカの小さな出版社から出すことができたのだ。そして『夷狄を待ちながら』でブレイクして世界的な作家になった。北で認められたいという野心をもって書いてきたと、2018年5月末にマドリッドでクッツェー自身が語っている。だからこれは自分の体験を批判、検証することによって見えてきたものなのだろう。ここでもまた批判の対象は作家である自分自身となる」
       ──「北と南のパラダイム──J・M・クッツェーのレジスタンス」

 これは今回のセルールの質問に対するクッツェーの答えと思いっきり重なるが、クッツェーはその当時の自分を「彼」として突き放し、精緻かつ簡潔なことばで表現していく。『ダスクランズ』を出したころの自分への分析にはさらに磨きがかかり、ロンドンやニューヨークの出版社から本を出すことをめざしていた自分は、北の大都会こそが「リアル・ワールド」だと考えていた、と述べる。青年ジョンの頭のなかには「本物世界」とは「北」だという思い込みがあったのだ。(東京へ出ることを北海道の片田舎でひたすら目論んでいた60年代半ばの自分をつい思い出す...)

 そして62歳でアデレードへ移り住んだジョン・クッツェーは、来年2月で80歳になろうとしている。UNAMでのセッション前日に公開された映画「Waiting for the Barbarians」のテーマについて問われたクッツェーは、北と南、都会と田舎、の関係を類比的に見透しながら、「大都会を擁護する者こそ本当の野蛮人なのかもしれない」と述べる。クッツェー自身の現在の立ち位置と、その世界観をきっぱりとあらわすところだ。
 これは田舎者が都会人になった「ふりをする」ことへの、根底的批判なのだろうか。それともなれなかったことを足場に考え抜いた結論だろうか。(なんだかアディーチェの『アメリカーナ』で、アメリカへ渡ったイフェメルが本来の自分にもどるためにラゴスへもどるところとも重なるな。
 しかし同時に、ジェンダーの視点からすると田舎の地縁血縁の容赦ない縛りからいったん逃れるためには、都市の暮らしは必要悪でもあるのだけれど...)

 だが、クッツェーの憧れは、自分の育った環境には複雑なアイデンティティーのあいまいさがあって、幼いころからThe Children's Encyclopedia という事典──これは2つの大戦間にイギリスで編集された、アングロサクソンを最優秀な人種とする、非常に差別的なプロパガンダだった──をすみずみまで見て、読んだこによる深い影響と不可分だったと語る。(この子供百科について述べたシカゴ講演は来年、雑誌に訳出します。)

 このセッションでは、『サマータイム、青年時代、少年時代』でくりかえし語られる「都会と田舎」の関係が、都会生活と田園生活といった対立&補完の構造を超えて、旧ヨーロッパ宗主国と植民地との関係がもたらした「現在」をベースに、いま「世界」の中心である欧米とそれ以外の地域との関係として語られるようになっていく。
 この自伝的三部作には、1997年に出た初巻『少年時代』から一貫して「Scenes from Provincial Life」という副題がついていた。3巻を1冊にまとめたとき、それが正タイトルとなった。ものごとの全体を類比的に考え抜こうとするJ・M・クッツェーの面目躍如といえるだろう。

 5年ほど前に、3巻まとめて出したとき、タイトルをどうするか、とても悩んだ。原タイトルの「Scenes from Provincial Life」をそのまま訳しても、訳書タイトルにはおさまりが悪い。いっそ一案として訳者が出した『とことん田舎者』とすべきだったんじゃないかといまでも思うのだ。

 ──クッツェーでそこまで崩していいんですか? 

と言われてあのときは引っ込めたけれど、じつは、この『とことん田舎者』というタイトルは結構気に入っているのだ。クッツェーが自分は「ダーク・コメディ」を書いてきたつもり……という、倫理性に込められた諧謔に満ちた「ひねり」が、じわじわと伝わるようになったいまは、それもありだったかなあと思う。惜しかったな😆。

 ちなみに2018年「すばる 5月号」には、作家から送られてきた「英語のヘゲモニーに抗う」という文章が引用されていたが、クッツェーの立ち位置を明言する、詩と言語をめぐるその文章が、今回のUNAMのステージでそっくり朗読されています。Please listen!

2019/10/26

英語版の動画がアップ!

メキシコ国立自治大学でのJ. M. クッツェーとラケル・セルールとの英語版のやりとりがアップされました。



2人とも、とてもゆっくりと話を進めるので、英語が学習言語の人にも聞き取りやすいやりとりです。さて、その内容が興味深いかどうか、ということになるとクッツェー作品を読んでいる人とそうではない人に多少分かれるかもしれません。でも、とにかく誰もが理解できる英語をクッツェーは話すよう心がけているのが感じられます。

 質問は多岐に渡りますが、最後のほうで「難民」について問われたクッツェーが、難民が押し寄せることを解決すべき問題としてとらえるのではなく、気候変動などによる人の移動をまず事実として受け止めて、それがわれわれの生活であると認め、それと共存することを考えるようにしてはどうか、と語るところで拍手が起きました。印象的な場面です。

2019/10/25

メキシコ国立自治大学でのJ・M・クッツェー

2019年10月24日、メキシコ国立自治大学でJ・M・クッツェーとラケル・スルールの対話が行われた。

動画もアップされたが、スペイン語の同時通訳がかぶさって英語が聞き取りにくいので、英語バージョンがアップされたらあらためて。ここには記録のために、何枚かの写真を拾っておく。


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SOCALOの記事より:(10/26追記)
24日のUNAMでのセッションを伝える記事。Waiting for the Barbarians の映画化にふれて、原作のタイトルはカヴァフィスの詩から採られたが「都市擁護者こそ本当の野蛮人」とクッツェーは述べたらしい。「とことん田舎者=provincial」であろうとする「世界的」作家クッツェーの面目躍如のところだ。

このセッションに先立って行われた3つの討論会のようすはこの記事の後半に出てきます。

https://monicamaristain.com/me-resisto-a-que-el-ingles-sea-el-idioma-universal-j-m-coetzee/?utm_source=rss&utm_medium=rss&utm_campaign=me-resisto-a-que-el-ingles-sea-el-idioma-universal-j-m-coetzee

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ラケル・スルールとJ・M・クッツェー


サイン会で若い学生たちに破顔の笑みを見せるジョン・クッツェー。
子供たちのなかに希望を見ているのがわかります。



サインを求めるファンの列

2019/10/23

ラテンアメリカの J・M・クッツェー

 今日はひさしぶりに青空がひろがって、東京は気持ちの良い秋晴れです。北半球は秋ですが、南半球は春の訪れが聞こえてくるころでしょうか。

HarvilSecker版
J・M・クッツェーはこの季節になると毎年のようにラテンアメリカを訪れます。今年はまず短編賞の授賞式にチリへ、そしていまはメキシコでしょう。10月24日にメキシコ国立自治大学でクッツェーを囲んだセッションが行われるというニュースが流れました。

 テーマは三つ:「メキシコの作家のあいだのクッツェー」「クッツェーの作家活動」「クッツェーと現代の危機」←スペイン語の記事をグーグル英訳したものを、さらに日本語にしているので、かなり輪郭がぼやけたタイトルになってる可能性がありますが、あしからず。メキシコの作家たちがクッツェーをどう読んできたか、これはなかなか面白い視点です。

 この記事のなかで、おそらく、こういうことをいってるなと思われる心にしみる箇所があったので、わたしが理解した範囲で記録すると:
Viking版

「J・M・クッツェーの文学は読者の心の内奥にとどく手法をもっていて、まるで世界の異なる土地にいる多くの人たちの記憶を共震させるかのように訴えかけてくる」

 最新作『イエスの死/The Death of Jesus』はアメリカでもViking社から来年5月に発売されるようです。スペイン語版が出てちょうど1年後ですね。

 そうそう、最近はよく忘れ物をするので、この写真も記録としてアップしておこうかな。先日メルボルンの出版社から本を買ったら(『鉄の時代』と『マイケル・K』)、キャンペーン中だとかで無料のトートバッグが送られてきたんです。ロブスターやら、バラの花やら、時計やらがついてる袋ね(笑)。裏には「Incredible!」の文字が。。。

2019/10/18

最近のチママンダ・ンゴズィ・アディーチェの動画

マンチェスターで10月5日に行われたチママンダ・ンゴズィ・アディーチェのトークの実況中継。OPEN FUTURE FESTIVAL.


以下に大雑把な内容を。(あくまで粗い聞き取りですので引用はお控えください。)

 まずアイデンティティについて質問された彼女:アイデンティティというのは外部からの要求によって変わる、たとえば、最近もUSAの空港でプレミアの列にならんでいたら、あなたはあっちだと指差されたのはエコノミーのほうだった。これは肌の色で判断したからで、ナイジェリアではありえない。ナイジェリアでは、エスニシティか、ジェンダーによって分けられる。だからアイデンティティというのは外部からの問いによって、いくつにも変わりうるのだ、と述べている。だから自分としてはそれをたったひとつに狭めることはできない。

ストーリーテリングについて、作家として、と問われると:もっといろんな声がでてくることが必要だと強く思う。文学作品を読むということは、可能性として、自分の体ではない体から発せられる声を聞くことだと思う。書くというのは、自分の体ではない体から発せられる声を書くことでもある。どんな声であれ、わたしを呼んでいるならその声を物語に響かせていきたいと。

 これまでアフリカ、アジア、ラテンアメリカの物語は長いあいだ、そこの出身の人たちによって語られてこなかった。だから、ロンドンの書店に行っても、本がコロニアルなテイストでならんでいることが多い。もちろんそれは大事よ、だってイングランドはナイジェリアを植民地化してきたんだし、歴史としては……中略……でも、数日前の香港を見てもわかるように、世界中の土地は過去にずっと取り憑かれつづけている。

 それから、『アメリカーナ』について、かなり突っ込んだ質問がきて、アディーチェも非常にクリアに答えている。もう少しニュアンスをつけて、と編集者からいわれたが、それは、もう少し正直さ=あからさまにいうことを控えて、ということだった。

 なんでも比較的率直に語る英語社会で、「もう少しニュアンスを」といわれたとしたら、このニュアンスだらけで空気を読めとかいわれる日本語社会では、どうなるんだ😅?なんて思いながら最後まで見ましたが、最後のほうでオーディアンスから質問が出て、それに真っ向から答えるチママンダ、そして白熱の議論が展開されるようにもっていく司会のジャーナリストもなかなか。

 あとは動画をじかに見てください。

 もしも日本にチママンダを呼ぶなら、同時通訳があいだにはさまるとしても、これくらいの丁々発止のやりとりができるステージになるといいなあ、と思います。
 

デレク・アトリッジ氏の最新情報:「クッツェーによる南」

あちこちでシェアしながら、ここでお知らせするのをすっかり忘れていました。

The South According to Coetzee

 来月初めに再来日するデレク・アトリッジ氏がとても、とても興味深い文章を書いているサイトをお知らせします。英語版よりいちはやくスペイン語版で La muerte de Jesus を読んでいることが、彼の文章からうかがえます。


タイトルのThe South According to Coetzeeは、つい「クッツェーによれば南は」と訳してみたい誘惑に駆られます。

 駒場で開かれる講演でも、この文章に書かれた内容について言及されることになるはずですが、クッツェーの最新作 The Death of Jesus の読書会に出る方には必読でしょう。

2019/10/11

デレク・アトリッジ教授が再来日します

2012年5月に初来日して、J・C・カンネメイヤーが書いたJ・M・クッツェーの伝記と作家自身の自伝的三部作『サマータイム、青年時代、少年時代』の最終巻『サマータイム』とを比較しながら、すばらしいお話を聞かせてくれたデレク・アトリッジ教授がまた来日します。

 来日中の講演と読書会のお知らせをここに!



 講演会は「翻訳、世界文学、マイナー言語の問題」について。まるでここ数年、英語版より先にスペイン語版で自作を出してきたJ・M・クッツェーの問題意識を解き明かしてくれるようなテーマ設定ですよね。
 読書会は11月12日にメルボルンの出版社から出たばかりの英語版The Death of Jesus を読むそうですよ〜〜。面白そう! わくわく。

 

2019/10/07

『文藝』に斎藤真理子さんとの対談が

今日発売の雑誌『文藝』(2019 冬号)に斎藤真理子さんとの対談が掲載されています。
 8月25日にB&Bで行なわれたイベント「今日も眼鏡をふいている──翻訳・移民・フェミニズム」を起こしてまとめたものです。対談のタイトルは:

 新たな視野をひらくアディーチェの文学

「ジャンピング・フェミ・トーク」になるかも、との予測どおり、当日はあれこれ話が飛んで、これは終わりそうもないわ、とわれながら感じていました。
 あがってきた文字原稿を見ると、アディーチェをめぐる話になっていました。さすが! そりゃそうですよね。チママンダ・ンゴズィ・アディーチェの2冊の本『イジェアウェレへ フェミニスト宣言、15の提案』と文庫『なにかが首のまわりに』のW刊行記念なんですから。😆

 そうはいっても、こうして読むと、ちょうど10年の年齢差のある2人が体験した80年代の話が圧倒的なリアリティをもっている、とあらためて感じます。「潮干狩り」の話なんかとてもシンボリックで、しかもリアル。
 翻訳をめぐる話では、クッツェーのことはすでにブログに書きましたが、歴史的な出来事を作品化するハン・ガンとかアディーチェなど、若手の作家たちの話もしたんだった。
 当日、会場へいらっしゃれなかった方も、いらっしゃった方も、ぜひ!

2019/10/04

ちいさな月桂樹を移植

 9月8日夜半の突風で倒れた月桂樹、根元から伸びていたちいさな若木を植木鉢に移植してみた。来年の春まで待って、もう一度、地面におろしてやろうと思う。うまく活着してね、ローレルくん!

 右の写真は、16年で大樹に育ったローレルが、どうと地面に倒れた姿。どうやら、表層は柔らかい土だけれど、すぐ下に硬い粘土質の土が広がっていたため、根の張り方が浅くて、激しい突風で根こそぎ浮いてしまったらしい。

 根は半分ほどついているので、今日もまだ葉っぱは青々としてるのだけれど。

2019/10/03

JMクッツェー『イエスの死』読了

今日は、J・M・クッツェーのイエスの三部作最終巻『The Death of Jesus/イエスの死』を、朝から夕方までずっと読んでいた。午後5時過ぎに読了。
 記録として書き記しておく。内容についてはあらためて。しかし、親として早い時期に子供を亡くすということは。。。と書いていると、読んだという知人からメールがきて、感想が書いてあったので、こちらも手短にこう返した。

*****
「いや、感動的という表現でいいのかと思いながら、ときどきグサッとこちらに刺さってくる表現があって、涙ぐみそうになりました。
 つい、作家の実人生と重ねて読めてしまう細部があるから、ということもありますが、書き方がね、世界に対してもうこれ以上ないほど自分を削って差し出しながら書いてる感じがして。終わり方が、図書館の本への子供たちの感想コメントというのもうまいなあと。読書会、楽しみです」

2019/10/01

J・M・クッツェー"The Death of Jesus"がとどく

10月1日発売の本が、ぴたりとその日の朝にとどいた。メルボルンの出版社からエアメールで。

 J・M・クッツェー著、The Death of Jesus(Text Publishing)

イエスの三部作最終巻だ。全197ページ。さっそく読みはじめる。机上には分厚いゲラがどさりと載っているのに……。まあ、あっというまに読み終えるだろうけど。
 とりあえず記録のために今日、10月1日の日付がついた写真をアップしておく。

2019/09/23

札幌北1条教会とヴスターのオランダ改革派教会

3日間の札幌への旅を終えて帰京したら、また台風の余波で、なんという湿気。札幌は気温が20度前後、湿度が50%を切るという快適な季節。ああ、こういう気候のなかでわたしは自己形成したのだと再確認する旅になった。その事実は動かしがたい。東京で感じる気管支の苦しさも否定しがたく目の前にある。

現在の札幌北1条教会
1919年生まれの母が15歳か16歳のときに洗礼を受けたという札幌北1条教会の写真を撮ってきた。洗礼を受けたのは、彼女が北海道大学医学部付属看護学校に入学したころだ。もちろん教会の建物は建て替えられただろうが、とんがった部分を見ながら、植民地に教会を建てる人たちのあこがれは、やっぱり「天」だったんだと思う(いや尖塔をもつ教会は世界中にあるけど……)。

「天にまします我らの神よ、願わくば……」で始まる主の祈りを、何度も聞かされながら、10歳まで通った滝川の教会には十字架はあってもトンガリはなかったような……。そこでふと浮かんできたのは、南アフリカのヴスターで撮った写真だ。

 内陸の町ヴスターのオランダ改革派教会の写真と、札幌北1条教会の写真をならべてみる。光と影の具合が不思議と似ているのだ。空気が乾いているせいか、とにかく空が青い。そして空に向かう建物が白い。ふむ。どちらも、からっとした空気のせいで光がとても美しい。

少年ジョンが8-10歳を過ごしたヴスターの教会
建築様式も違うし、建った時代も違うけれど、「決して人が住んでいなかったわけではない土地」を「無主の地」とみなして、先住の人たちを征服、支配するという、世界の植民地化を下支えした思想のひとつだった「キリスト教」に思いをはせる。

 イギリスからアメリカ経由で北海道へ入っていったプロテスタントのイギリス国教会長老派。やけに先鋭化して純化されたアメリカ開拓精神に「精神一到何事かならざらん」的な武士道がミックスされて、「北の大地」で勢いをつけたキリスト教の会派。

北1条教会の近くで摘んだオンコの実

 Boys, be ambitious. 
 少年たちよ野心的であれ。

(「少年よ、大志を抱け」は当時、近代国家形成をひた走る日本が「開拓」精神との合体を狙った意図的誤訳ですね。そう語ったと言われるクラーク博士は農学ではなく化学が専門で、札幌に滞在したのはわずか1年足らずだったそうだ。その彼の滞在が北海道帝国大学の存在基盤に大きな影響を残した。戦前は理系しかなかったというのも、いかにも、である。)
 
北1条教会の庭には母の好きだったダリアが
プロテスタント思想に染まった母は、というか、むしろ母は浄土真宗の寺が多い開拓村や一攫千金をめざす流れ者が集まる炭鉱の、すさまじい男尊女卑社会で売り買いされるモノに近い存在だった「女」であることを拒否して、「人間として」生き延びるための思想をキリスト教思想の最良の部分から吸収していったのだ。しかし、1930年代後半の日本の医学、医療の現場にいたため、当然ながら、優生学的なものの見方を批判する力はなかったし、宗教においてもまた宗派性から無縁ではなかった。

 カトリックは免罪符なんてのをこしらえて金儲けをした堕落したキリスト教だと教えられたらしく、娘のわたしも母からそう教えられた。イエズス会など権力への野心を積極的に具現化して植民地征服に強烈な力を発揮したカトリックは、しかし、思想的には妙に、とんがってない世俗を抱き込むふところの深さがあったと見ることも可能だ。人間の愚かさをも抱き込むように、ガス抜き手法として「告解」という制度を作ったカトリック……なんて考えられるようになったのはずいぶん後だったけれど。

11月刊のオランダ語版『イエスの死』
ヴスターのオランダ改革派教会の建物は広場に面して屹立する尖塔をいただいていた。少年ジョンの家族は教会には行かない人たちだったとはいえ、J・M・クッツェーはカルヴァン派の支配する政教一致の当時の南アフリカで教育を受けて育った。全人口の13%にすぎない白人が、神から選ばれた者として、有色の「人種」より優れていることを1994年まで是とした社会のなかで、長いあいだ暮らしたのだ。
 だから、作家生活の締めに彼が選んだテーマが「イエス」であることはとても興味深い。ユダヤ・キリスト教文化の選民思想の染み付いた教育環境、生育環境で自己形成したことを自省的に検証しながら作品を書いているのだろう。
 クッツェーにとって宗教、思想、哲学、文学、教育のすべてが、このイエスの三部作に凝縮しているのはまちがいない。その事実は否定しがたく目の前にある。

2019/09/16

トニ・モリスン『他者の起源』より

今年8月5日に88歳で他界したアフリカン・アメリカンの作家、トニ・モリスンが2016年にハーヴァード大学で6回にわたって行った講義の記録、『The Origin of Others/他者の起源』(2017)を読んでいる。

 キーワードは「Other/他者」、「Stranger/よそ者」、「Foreigner/異邦人」、「Outsider/アウトサイダー」といったいくつかの語で示されているが、なかでも「アフリカ」や「ブラック」「ニガー」という語が抽象的な意味合いで文学作品にあらわれるとき、それは作者のどのような心理を照らし出しているかを分析するモリスンの舌鋒は鋭く、たいへん興味深い。興味深いだけではなく、『白さと想像力』(1992)からしばらくご無沙汰していたせいか、ここまで明確に言語化されるようになったかと、感慨深いものがある。

 昨日42歳になったナイジェリア出身の作家、チママンダ・ンゴズィ・アディーチェ(お誕生日おめでとう、チママンダ!)は『アメリカーナ』のなかで主人公イフェメルに、自分はアメリカに渡って「人種」を発見したといわせたが、そんな若手の作品を訳したあとで、モリスンの分析を読むと、モリスンが描いてきた作品の風景がまったく異なったものとして立ち上がってくるのだ。

 とりわけ『The Origin of Others/他者の起源』の最終章に、次のような文章が出てきたときは、書き写さずにいられなかった。記録として、ここに引用しておく。


 With one or two exceptions, literary Africa was an inexhaustible playground for tourists and foreigners. In the works of Joseph Conrad, Isak Dinesen, Saul Bellow, and Ernest Hemingway, whether imbued with or struggling against conventional Western views of a benighted Africa, their protagonists found the world’s second largest continent to be as empty ...... The Origin of Others by Toni Morrison (2017)

 ひとつふたつの例外はあっても、文学作品に出てくるアフリカは、旅人やよそ者にとって無尽蔵の活動の場だった。ジョゼフ・コンラッド、イサク・ディネセン、ソウル・ベロウ、アーネスト・ヘミングウェイの作品のなかで、未開のアフリカという型通りの西欧的視点に染まっていようが、それに抗い奮闘していようが、主人公たちは世界第二の巨大な大陸をからっぽと見なした......
                                          『他者の起源』、トニ・モリスン(2017)

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 読みながら、かれこれ11年も前にJMクッツェーの『鉄の時代』を訳していたとき、メモを取ったことを思い出した。アフリカ大陸に対する文学者たちの「からっぽ」という認識は、クッツェーが南アフリカの白人文学について書いたエッセイホワイト・ライティング/White Writingで、明確に論じられていたことでもあったのだ。1988年にイェール大学出版局から出た本だ。

 クッツェーは、1652年にアフリカ大陸南端の喜望峰にヨーロッパ人がはじめて植民地をつくってから、ヨーロッパ系植民者がどのような視点から文学を紡ぎだしてきたか、それを詩や、農場を舞台にした小説を具体的に論じながら解明した。そして、植民者たちがどのような人間的退廃をたどっていったかを明らかにしたのだ。

2019/09/10

ジョル大佐のサングラス── Waiting for the Barbarians

映画の「Barbarians」は「夷狄」でいいのかな?

映画 Waiting for the Barbarians
 ずいぶん前になるが、年末の2日間を費やしてJ・M・クッツェーの出世作 Waiting for the Barbarians(『夷狄を待ちながら』)を再読したことがある。最初に読んだのはキングペンギン版のペーパーバックで Life & Times of Michael K(『マイケル・K』)と2冊まとめて読んだときだったから、1980年代の後半だ。ほぼ20年ぶりの再読だった。
 作品は「帝国」と「夷狄/蛮族」という二項対立で語られることが多いが、それだけではない。あらためて通読していくつかの発見があった。主人公である初老の執政官の、男としての性的欲望の描かれ方のリアリティもそのひとつだ。この作品のほぼ20年後に出た Disgrace(『恥辱』)の初老の主人公の場合のそれと、重なったりずれていたり。そうか、70年代後半(作家は30代後半)に書かれた作品ではこうだったものが、90年代後半(作家は50代後半)ではああなるのか、と興味深く読んだ。もちろん舞台設定が一方は架空の帝国およびその植民地、他方はポストアパルトヘイトの南アフリカで、この違いは大きい。
 再読のきっかけは、わたしより5歳ほど年上の作家から「最後の章は要らないんじゃない?」という問いを受けたことだ。日本語で書いてきた男性の作家である。そのときは返すことばに詰まった。質問の内容を作品に照らして具体的に考え、反証するための情報が頭のなかになかったからだ。いくら好きで読んできた作家だとはいえ、20年前に読んだ作品の細部までは覚えていない。再読して気づいたのは、最終章は要らないどころか物語全体にくっきりとしたパースペクティヴをあたえるために不可欠ということだった。それが確認できたのは大きな収穫だ。なぜ「要らない」とその作家が考えるかもおよそ見当がついた。作品がクライマックスで終わるのを好むからだろう。
 
KingPenguin版
 物語の概要はこうだ。架空の帝国が支配権をもつ辺境の植民地で執政官を長年つとめる主人公(名前はない)のところへ、夷狄の襲来を懸念する帝国の第三局(ロシアの秘密警察を想起させる)からジョル大佐という人物が派遣される。そして夷狄狩りが始まる。ジョル大佐率いる部隊に連行されてきた夷狄の人たちは、人間以下の扱いを受け、尋問され、拷問を受ける。
 父親を殺され、自分も両足を潰され、視野も狂って、仲間に置き去りにされて、物乞いをするしか生き延びる手段のない夷狄の娘を執政官は街から拾ってくる。そして自分の本来の職務は法と正義を行なうことにあるはずだ──と、ジョルの行為や自分の立場をあがなうかのように、娘の足に油を塗り、撫でさすり、寝床をともにする。しかし性交に至ることがない。これまで女をつぎつぎと渡り歩いてきてなんの疑問も持たなかった執政官はそこで、自分の性的欲望について熟考することになる。

 旅籠屋の女たちに対してはなんの問題も生じない。女を「欲望することは彼女を掻き抱き彼女のなかに入ることを意味する、彼女の表面に穴を穿ち、その内部の静まりを掻き混ぜて恍惚の嵐を起こすこと、それから退き、終息し、欲望がふたたび結集するのを待つ。ところが、この女はまるで内部などないかのようで…」(p43)と男の性的欲望が詳らかに言語化される。これはそっくり、新しい土地(日本語では「処女地」などという差別的表現が使われてきたが)に対して帝国が抱く野望や欲望と重なるもので、ある種のアナロジーと読める。これはデビュー作『ダスクランズ』で描かれたあからさまな男の欲望のややソフィスティケイトされた形と読めるだろう。

 クッツェーはこの作品を書くためにモンゴル帝国の歴史を調べあげたといわれているが、確かに、季節の移り変わりと月の関係から、舞台は北半球を想定しているようだ。だが、主人公にも、褐色の肌の夷狄の女にも、名前があたえられることはなく、作中で名前があるのはわずかに3人。ジョル大佐、青い目のマンデル准尉(夷狄の娘をその仲間に返してきた主人公を逮捕して拷問する)、そして旅籠屋の料理女メイである。
 この料理女が不思議な存在なのだ。作品中で最初に登場したときは名前がない。その息子が獄舎に入れられた執政官に食事を運んでくる場面はあるが、その母親に名前があたえられるのは物語が終盤に入ってからだ。これは読んでいて奇妙な感じがする。それまで影のような、顔のなかった人物が突然、固有の名前と表情をもった人物となって、主人公の前にあらわれるのだから。

集英社文庫版
 このメイは、しかし、最終章できわめて大きな役割をはたす。主人公の語りを「聞く相手」──相対化の視点を運び込む役──として、さらに、主人公にはついに聞き取れなかった「夷狄の娘のことば」を聞き取ってきた者として、それを主人公に伝える存在として登場するからだ。唐突に名前をもった人物となる瞬間と、執政官の心理的変化があいまって、物語は一気に眺望が開けてくるのだ。

 物語の流れは、夷狄をめぐる嵐のような一年の出来事を追って描かれる。具体的にはジョルの到来、夷狄の捕獲、夷狄の娘を仲間に返還する旅、主人公の逮捕、さらなる夷狄狩り、拷問、ゲリラ戦で消耗した軍の破滅、大挙して逃げ出す住民たちのエグゾダス、残された少数の人びととの暮らし──といったプロセスをたどり、それまではおもに主人公の内面で生起することば(幻想/妄想も含む)によって展開されてきた物語に、この最終章で、その時間の経過を相対化する視点が入る。それによって主人公の経験と、その結果彼の内面に起きた変化が、ひとつのパースペクティヴのなかにくっきり浮かぶようになる。

 したがって、終章はエピローグとして機能し、物語はクライマックスで終わることなく、頂点を冷静に見つめる視点で終わる。そして視界は一気に見通しがよくなる。これはクッツェーのすべての作品に見られる、きわめて重要な特徴である。この章を読んでひとつのレッスンを修了し、クッツェー作品を読む醍醐味を味わうことができる流れなのだ。
 作品のタイトルWaiting for the Barbarians は、クッツェー自身が明かしているように、カヴァフィスの詩から採られている。コンタンティノス・P・カヴァフィスは1863年にエジプトのアレキサンドリアで裕福なギリシア人貿易商の家に生まれているが、一家の根拠地はコンスタンティノープルだった。それで思い出すのは、ランサム・センターに移されたクッツェーの草稿である。じつはクッツェーは第三作目をコンスタンティノープルを舞台にした世紀末的な暗いラブストーリーとして書きはじめた。しかし当時、南アフリカで起きたスティーブ・ビコの拷問死事件のためか、それを破棄してあらたに書かれたのがこの作品だった。その経緯はデイヴィッド・アトウェルの研究などで詳細が明らかになっている。

ジョンとジョナサン,アデレードで,2014
 作家自身のこの作品への言及は『ダブリング・ザ・ポイント』のインタビューにも見られ、当時の南アの監獄で起きていることに対する、病理学的応答として書いた作品だったと述べている。
 さらに2019年3月末に、オーストリア北部のハイデンライヒシュタインという町でクッツェーをフィーチャーした文学祭「霧のなかの文学」が開かれたとき、クッツェーは「この作品は現在とパラレルなのだ」と述べ、いわゆる野蛮に抗する側が野蛮になっていく、と現代の対テロ戦争を批判した。

 じつはこの作品の日本語タイトルは翻訳上の問題を抱えている。「barbariansをどう訳すかだ。英語のbarbarianの語源はギリシア語の「バルバロイ」、「わけのわからないことばをしゃべる者たち」という意味だが、手元にあるOED(オクスフォード英語辞典簡略版)を引いてみると「(古代に)(ギリシア・ローマ人やキリスト教徒を中心とした)偉大な都市文明に属さない人たち」とある。つまり「野蛮人」。日本語タイトルに使われた「夷狄」を辞書で引くと、古代中国で漢民族を中心にした「東の未開国を夷、北のそれを狄」と呼んだことが始まりとある。

 ここで、14年11月にアデレード大学で開かれた「トラヴァース・世界のなかのJ・M・クッツェー」の初日に、非常に興味深い問題提起がなされたことをお伝えしたい。基調講演でステージに立ったのはシカゴ大学の哲学教授ジョナサン・リアで、そこで扱われたのがこの Waiting for the Barbarians だった。
 ジョナサン・リアは、シカゴ大学社会思想委員会のメンバーだったクッツェーがノーベル賞受賞の知らせを受けたときいっしょにいた長年の友人で、彼はまずそのときのエピソードに触れて場内をなごませた。ノーベル財団がクッツェーに連絡を取ろうとしたが、本人はそのときケープタウン大学ではなく、シカゴ大学で教えていた。財団から連絡を受けたシカゴ大学の誰かがリア教授の電話番号を教えてしまったので、突如として彼の電話がひっきりなしに鳴りはじめた。前夜、リア夫妻はジョンとドロシーと4人でディナーをともにしたところだった──といったエピソードはシンポジウム参加者の大方が知っていたが、重要なのはそこではなくて作品をめぐる彼の問題提起である。
初期2作のシナリオ, 2014刊
 この作品は一般に、架空の土地を舞台にした、時代も不特定の小説として読まれることが多いが、それは違う、とリア教授はいうのだ。「注意深く読む」と、冒頭にちゃんと年代が書き込まれている、決め手は第三局からやってきたジョル大佐がかけていた眼鏡なのだと。この作品の書き出しを見てみよう。

I have never seen anything like it: two little discs of glass suspended in front of his eyes in loops of wire. Is he blind? I could understand it if he wanted to hide blind eyes.  But he is not blind. The discs are dark, they look opaque from the outside, but he can see through them.  He tells me they are a new invention.

「そんなものは見たことがなかった。彼の両眼のすぐ前で、2つの小さなガラスのディスクが、環にした針金のなかに浮いている。彼は目が見えないのか? 見えない目を隠したいというならわかる。だが彼は盲目ではない。ディスクは黒っぽく、はたから見れば不透明だが、彼からはそれを透してものが見える。新発明なんだそうだ。」

 これはもちろんサングラスのことだが、サングラスという語は使われていない。執政官はジョル大佐から「新発明」との説明を受ける、と書かれているところに注目すべきだとリアは語った。サングラスが発明されたのは20世紀に入ってからだ。だから、じつはこの物語にはしっかり時代が書き込まれている、つまり時代はわれわれの2代、3代ほど前にすぎないと。もうひとつ、この作品は「夢のよう dreamlike」と言われることが多いが、「夢 dreamではなくあくまで「夢のような dreamlike」であり、「夢のように」場所や時間が特定しにくいことが重要なのだと。なぜか?

 考えてみると、この作品が発表された1980年、南アフリカには厳しい検閲制度があり、検閲官がちくいちテクストを読み、発禁にするかどうかを決めていた。前作の『In the Heart of the Country/その国の奥で』が、通常なら一人の検閲官が審査するところを3人の検閲官によって詳細に検閲された事実が、今世紀になって明らかになっている。どのように書けば発禁にならずにすむか、作家自身も頭をひねりながら書いていた時代だ。検閲官が容易に判定できる語の明記を避け、架空の帝国と植民地、時代は特定できない作品と思わせながらじつは作者は、最初のページに時代をしっかり忍び込ませていたのだ。
 リア教授の基調講演を聴きながら、ある疑問がふつふつとわいてきた。日本語訳のタイトルで「夷狄」と訳したのは、はたして適切だったのか。「夷狄」とは19世紀までの中国で、漢民族を中心とした中央勢力から見た外部民族への蔑称である。したがって「夷狄」と銘打たれた小説を読む者は、否応なく19世紀以前の時代へと導かれ、物語の舞台として東アジアのある特定地域を思い浮かべる。つまり過去の物語を読んでいることになる。
 リアの指摘に沿って時代を考えるなら、それでいいのかという問いが浮かんでくる。クッツェー自身も「現代とパラレル」と発言している。古典の翻案ではなく、同時代を生きる作家の作品の翻訳である。Barbarians は不特定な「蛮族」と訳すべきだったのかもしれない。
 しかし邦訳の出た91年、あるいはノーベル賞受賞後に文庫化された03年、日本語読者は「夷狄」という聞き慣れない語に、耳をそばだて関心を持ったという事実もまた否定できない。すぐに東アジアと理解できる人たちにとっては聞き慣れた語だからだ。したがってこれはひどく悩ましい問題にならざるをえない。しかしノーベル文学賞受賞後は、3度の来日もあって、クッツェーの名前は一般にも知られるようになり、作品についても詳細に論じられるようになった。同時代をともに生きる作家の意図をあたうるかぎり伝えることが訳者、編者に求められる姿勢だとするなら、「夷狄」という訳語はこのままでいいのかといういう問いは残る。悩ましい。

 ちなみに、この作品はコロンビアの映画監督シーロ・ゲーラによって映画化され、2019年9月にヴェネチア映画祭で上映された。ロケ地はモロッコの砂漠、イタリア、チリで、執政官をマーク・ライアンス、ジョル大佐をジョニー・デップ、マンデル准尉をロバート・パティンソンが演じている。重要なのなシナリオをクッツェー自身が書いていることだ。日本公開も楽しみだが、ちょっと気がかりなのは日本語のタイトルだ。モロッコやチリを舞台にしてヨーロッパ系の俳優たちが演じる物語に「夷狄」は無理だろう。18年に出版された池澤夏樹訳『カヴァフィス全詩』(書肆山田刊)でも、この詩は「蛮族を待ちながら」と訳されている。映画はやっぱり「蛮族を待ちながら」がいいんじゃないかと思うのだが、どうだろう。

***
クッツェー自身がこの作品の冒頭部分を朗読している動画を最後に埋め込んでおく。

2019/09/09

台風15号の突風でローレルが倒れた

昨夜の風はすごかった。雨はたいしたことはなかったけれど、風が、とりわけ突風が、ものすごい勢いで吹きつける。ものが飛ぶ。ひっくりかえる音が騒がしい。

 夜半、空気に臭気がまじってきた。工場地帯の煙突からたちのぼる黄色い煙を思わせるような異臭だ。窓のすきまから室内に容赦なく侵入する。これがめっぽう苦しい。胸をかきむしりたくなるほど、痛がゆく、苦しい。「切羽のカナリア」の身は異変をいち早く察知して、窓とドアをきっちり閉めて、扇風機を弱風にしながら、空気清浄機のフィルターを新しくしてフルパワー運転にする。

 一夜あけて、陽の光が差し込む窓の外を見ると、なんと、愛するダフネが倒れている。昨夜の突風であおられたせいで、月桂樹が、斜めにおよそ45度の角度に身を傾けて、根っこを陽にさらしているのだ。あんなに背が伸びた樹木の根も、こんなに浅かったのかと驚く。


 秋に引っ越しをしたので、移植するなら春がいいという助言にしたがい、翌年の春を待って1メートルほどの若木を植えた。それがみごとに葉と枝を繁らせて、毎年4月中旬になるとかわいらしい小花を咲かせ、夏には直径1センチほどの硬くて丸い実をつけるようになっていたのだ。その木が、昨夜の嵐で倒れた。移植されてから15年と5カ月か、とまるで亡くした子の年齢を数える親のように、指を折る。
 
 寒波、熱波、山火事。グリーンランドの氷が溶けて、南アメリカのアマゾンでも大規模な山火事が起きて。熱波以外は、まだまだ遠くで起きていることのように思えたが、どうと倒れた樹木の根を目前にすると、なにやら迫ってくるものがある。