2019/09/23

札幌北1条教会とヴスターのオランダ改革派教会

3日間の札幌への旅を終えて帰京したら、また台風の余波で、なんという湿気。札幌は気温が20度前後、湿度が50%を切るという快適な季節。ああ、こういう気候のなかでわたしは自己形成したのだと再確認する旅になった。その事実は動かしがたい。東京で感じる気管支の苦しさも否定しがたく目の前にある。

現在の札幌北1条教会
1919年生まれの母が15歳か16歳のときに洗礼を受けたという札幌北1条教会の写真を撮ってきた。洗礼を受けたのは、彼女が北海道大学医学部付属看護学校に入学したころだ。もちろん教会の建物は建て替えられただろうが、とんがった部分を見ながら、植民地に教会を建てる人たちのあこがれは、やっぱり「天」だったんだと思う(いや尖塔をもつ教会は世界中にあるけど……)。

「天にまします我らの神よ、願わくば……」で始まる主の祈りを、何度も聞かされながら、10歳まで通った滝川の教会には十字架はあってもトンガリはなかったような……。そこでふと浮かんできたのは、南アフリカのヴスターで撮った写真だ。

 内陸の町ヴスターのオランダ改革派教会の写真と、札幌北1条教会の写真をならべてみる。光と影の具合が不思議と似ているのだ。空気が乾いているせいか、とにかく空が青い。そして空に向かう建物が白い。ふむ。どちらも、からっとした空気のせいで光がとても美しい。

少年ジョンが8-10歳を過ごしたヴスターの教会
建築様式も違うし、建った時代も違うけれど、「決して人が住んでいなかったわけではない土地」を「無主の地」とみなして、先住の人たちを征服、支配するという、世界の植民地化を下支えした思想のひとつだった「キリスト教」に思いをはせる。

 イギリスからアメリカ経由で北海道へ入っていったプロテスタントのイギリス国教会長老派。やけに先鋭化して純化されたアメリカ開拓精神に「精神一到何事かならざらん」的な武士道がミックスされて、「北の大地」で勢いをつけたキリスト教の会派。

北1条教会の近くで摘んだオンコの実

 Boys, be ambitious. 
 少年たちよ野心的であれ。

(「少年よ、大志を抱け」は当時、近代国家形成をひた走る日本が「開拓」精神との合体を狙った意図的誤訳ですね。そう語ったと言われるクラーク博士は農学ではなく化学が専門で、札幌に滞在したのはわずか1年足らずだったそうだ。その彼の滞在が北海道帝国大学の存在基盤に大きな影響を残した。戦前は理系しかなかったというのも、いかにも、である。)
 
北1条教会の庭には母の好きだったダリアが
プロテスタント思想に染まった母は、というか、むしろ母は浄土真宗の寺が多い開拓村や一攫千金をめざす流れ者が集まる炭鉱の、すさまじい男尊女卑社会で売り買いされるモノに近い存在だった「女」であることを拒否して、「人間として」生き延びるための思想をキリスト教思想の最良の部分から吸収していったのだ。しかし、1930年代後半の日本の医学、医療の現場にいたため、当然ながら、優生学的なものの見方を批判する力はなかったし、宗教においてもまた宗派性から無縁ではなかった。

 カトリックは免罪符なんてのをこしらえて金儲けをした堕落したキリスト教だと教えられたらしく、娘のわたしも母からそう教えられた。イエズス会など権力への野心を積極的に具現化して植民地征服に強烈な力を発揮したカトリックは、しかし、思想的には妙に、とんがってない世俗を抱き込むふところの深さがあったと見ることも可能だ。人間の愚かさをも抱き込むように、ガス抜き手法として「告解」という制度を作ったカトリック……なんて考えられるようになったのはずいぶん後だったけれど。

11月刊のオランダ語版『イエスの死』
ヴスターのオランダ改革派教会の建物は広場に面して屹立する尖塔をいただいていた。少年ジョンの家族は教会には行かない人たちだったとはいえ、J・M・クッツェーはカルヴァン派の支配する政教一致の当時の南アフリカで教育を受けて育った。全人口の13%にすぎない白人が、神から選ばれた者として、有色の「人種」より優れていることを1994年まで是とした社会のなかで、長いあいだ暮らしたのだ。
 だから、作家生活の締めに彼が選んだテーマが「イエス」であることはとても興味深い。ユダヤ・キリスト教文化の選民思想の染み付いた教育環境、生育環境で自己形成したことを自省的に検証しながら作品を書いているのだろう。
 クッツェーにとって宗教、思想、哲学、文学、教育のすべてが、このイエスの三部作に凝縮しているのはまちがいない。その事実は否定しがたく目の前にある。