2018/12/29

アディーチェ:ネルソン・マンデラ没後5周年の基調講演

12月6日、UNISA(南アフリカ大学)で開かれたネルソン・マンデラ没後5周年記念イベントで、基調講演をするチママンダ・ンゴズィ・アディーチェの動画がありました。グラサ・マシェル(故ネルソン・マンデラ大統領夫人)さんと爆笑する写真も……。


グラサ・マシェルと
彼女が初めて南アを訪れたのは、解放後10年といってますから2004年ですね。そのときは「レインボー・ネーション」というスローガンを見て、アパルトヘイトという過去の暴力がそんなにすんなり平和に移行するのかとても疑問だったと正直に述べています。むべなるかな。
 その後もう一度訪れて、それから10数年たって今回、その間にナイジェリアと南アフリカの外交関係などあって……。
 アディーチェがおなじアフリカ大陸にある国とそこに住む人たちについて、それぞれに違いながら共通する歴史について語っています。これからどんな作品を発表していくのか、本当に楽しみ!

ジャブロ・ンデベレ、グラサ・マシェルと
この10年のアディーチェの活躍ぶりは目を見張ります。『半分のぼった黄色い太陽』がオレンジ賞を受賞したのが2006年(あれ、2007年だったかな?)。2009年に短編集『なにかが首のまわりで』を出して、2013年に『アメリカーナ』で大ヒット。2016年には We Should All Be Feminists(『男も女もみんなフェミニストでなきゃ』)でさらにブレイクでした。

  12月初旬にアディーチェが南アフリカへ行く、というニュースは知っていたのですが、あれこれ気にかかることがあって、ぼんやりしてしまい、ようやく今日リンクを貼ります。
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2019.1.7 ──この記事についてはネルソン・マンデラ・ファウンデーションに詳細な報告があります。ついでに動画も埋め込んじゃおう!



2018/12/28

日経プロムナード最終回 青年

2018年12月28日金曜日、今年最後の日経プロムナードです。

東京は木枯らしの吹くなか、それでも屋内にいると南面するガラス戸から差し込む日差しは暖かく、暖房はほとんどいらないくらいです。これから寒波が押し寄せるのでしょうか。

  青年

 来年はいったいどんな年になるのやら。暗雲は晴れませんが、このコラムに書いたような、やさしい青年が日本でもちゃんと生きていけるような社会にしたい、そう思います。

2018/12/27

Diary of a Bad Year から朗読するクッツェー

珍しい動画を発見した。Diary of a Bad Year から朗読するJ・M・クッツェーだ。出版したばかりの作品から読みます、と言っているから、録画されたのは2007年10月と思われる。

 それにしても、2018年の漢字は「災」だというから、今年にぴったりだな。



スペイン語のタイトルをわざわざ言っているのは、聴いているのがスペイン語話者だからだろうか。調べてみると、スペイン語訳は2007年10月5日に出ている。これは、なんと英語オリジナルのわずか3日後だ!
 ちょうどクッツェーが2度目の来日をしたころ──2007年12月初旬──で、11年前ということになる。なんとも声が若々しい!

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2019.1.2──追記:スクリーンの右上にCCCBとあるように、これは「バルセロナ現代文化センター」で録画された動画のようです。

2018/12/22

復刊『塩を食う女たち』とアディーチェの文学イベント

11月下旬にナイジェリアのラゴスで開かれた、パープル・ハイビスカス・トラスト(PHT)の文学イベントのようすが、チママンダ・ンゴズィ・アディーチェのfacebookにアップされていました。
 YOUTUBEでも動画は見ることができたので、ここに貼り付けます。



今年で11回目を迎えるこのワークショップは、これまでの歳月、大きな成果を生んできました。ワークショップで学んだ人たちが、つぎつぎとステージにあがって自分の体験を披露。歌ありダンスありのイベント風景が祝祭気分をもりあげています。
 シンガーが歌い、小さな子がダンスを披露し、会場の参加者がてんでに踊る風景もとてもいいです。チママンダもいっしょになって踊っています。

 そして最後の最後にかかった曲! これは胸に熱いものがこみあげてきました。

 To be young, gifted and black!


タイトルは、トニ・ケイド・バンバーラの
The Salt Eaters から
言わずと知れた、若くして才能にあふれた作家ながら、34歳という若さで逝ったロレーン・ハンズベリー(1930~1965)の同名の戯曲をもとに、ニーナ・シモンが作った歌です。

 おりしも昨夜は、60年代から70年代にかけてアメリカの黒人女性作家が奮闘して生み出した作品群を編集、翻訳した藤本和子さんの聞書集『塩を食う女たち』(1982年刊)が岩波現代文庫で復刊されたお祝いをかねた忘年会でした。
 4人の「塩と火の女たち」が熱望してきた復刊が果たせて、祝杯をあげたところだったのですが、今朝はまた、朝日新聞の書評欄で、Title の店主である辻山良雄氏が薦める「文庫新刊」にも掲載されて!


 1982年と2018年が、みごとに繋がりました!

2018/12/21

日経プロムナード24回 チママンダとリムジンで

日経プロムナード、今回はチママンダ・ンゴズィ・アディーチェが来日したときの思い出です。 

まだみんな若いな(笑)
at Waseda , 2010
     チママンダとリムジンで

『半分のぼった黄色い太陽』が出た直後のことでした。もう8年以上も前になるのか、と感慨深い年の暮れです。

 早稲田大学の講堂でアディーチェの講演があって、松たか子さんが短編「なにかが首のまわりで」を朗読したのだった。日本ではこの作品の初期バージョンが、第一短編集『アメリカにいる、きみ』のなかに入っています。
 

2018/12/16

北海道アイヌの番組


備忘録として。

2018/12/14

日経プロムナード23回 チャコールグレーの洋館

カウントダウンが始まった。日経プロムナードも、今回を入れて残すところ3回。
 記憶の旅は、土埃をあげながら走るバスに揺られて、ふたたび北海道の田舎町へ。
 
  チャコールグレーの洋館

上下に開閉する窓の例:赤煉瓦の旧北海道庁舎
たどりついた洋館のなかは細部まで覚えているが、屋根が思い出せないのだ。
 そしていまも脳裏に焼き付いている緑色の屋根の家。わたしが生まれて育った小さな家。前庭に植わっていた白樺、少し道路寄りに茂っていたポプラの木々の葉のかたち。

 それにしても子供にとっては不可思議な洋館だった。あれは...

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2018.12.18──金曜日に掲載された記事を画像アップします。



2018/12/11

冬の贈り物

 いつもの夕暮れの散歩で見つけた深紅のバラ。
 12月に咲くバラというのも、考えてみると不思議な気がするけれど、今年は季節はずれの暖かさで、植物に異変が起きているというニュースがあちこちから聞こえてくる。

 道路沿いの斜面の樹木のそばに、ひょろりと伸びた枝についていたこのバラの花、隣にはすでに花びらが散ったものがひとつ、ふたつあって、ずいぶん健気に咲いてるなあ、と散歩のたびに思っていた。たぶん、引っ越すことになった人が思案の末に、植木鉢から屋外の斜面に移植していったのだろう。

 すばらしい冬の贈り物。

 暖冬とはいえ、東京も昨日あたりから本格的な冬の訪れが濃厚となってきた。猫たちはどうしているだろう? と思っていると、こんな「猫ハウス」を見つけた。
 発泡スチロールの容器を、蓋を下にして置き、上からブロックで押さえ、側面を出入り口として開けてある。大きな猫なら2匹ほど入れば、猫ハウスは満員になってしまうかな。でも蓋を下にしたところが「コロンブスの卵」みたいに斬新だ。しげみの陰に、ひっそりと置かれている。雨の日や、雪の日のシェルター。

 寒さに負けずに生きぬいてね! というメッセージが伝わってきて、心が温まる。

 この地球上に、なんだかやけに数だけ増えて、傍若無人に森林を伐採し、毒物を垂れ流すニンゲン。でも、これはおなじ生き物である猫へのささやかな贈り物だ。エリザベス・コステロもどきは、世界中どこにだっているんだね。

 

2018/12/07

日経プロムナード22回 「ン」?

早い、早い。あっというまに12月です(といえる時期になりました 😊ふふふ)。

すっかり冬、というには不思議と暖かい日がやってきたり、油断をしていると寒風が吹きつけたり。でも、時間は情け容赦なくすぎていきます。

 プロムナードを書きはじめて5ヶ月、最後の月のはじまりは、アフリカという広い、広い大陸で使われる多くの言語に、不思議と共通する、固有名詞の特徴。「ン」や「ム」から始まる名前の読み方についてです。ほら、「ンクルマ」とか、「ムボマ」とか。最近は「ムバペ」というのもありましたね。

       「ン」?

 今月の絵柄は、ん? お歳暮の「のし」かな? 

2018/12/04

風の曲がり角──ヘンドリック・ヴィットボーイの日記(最終回)

ナミビアの首都はWindhoekと地図に書かれ、「ウィントフック」とウィキペディアには出てくる。読み方はアフリカーンス語なら「ヴィントフック」、ドイツ語も音はおなじだが表記はWindhukだ。ナミビアは独立時に公用語を英語と決めたために、頭文字のWが濁らない「ウィントフック」として定着しているのだろう。まあ、読む人のオリジンによってさまざまな音になりそうな地名だ。
 
 しかし、この地名はどこから来たのか?

ウィントフックにあるドイツ教会と、
かつて立っていた騎馬像
その土地は先住民のナマ語では「!ai-//gams(ai-gams etc.)」(クリック音などありそうで発音できません😢!)、ヘレロのあいだではOtjimuise(オキムイゼ) と呼ばれて、「温泉」を意味したという。
 風が吹き抜けるという地理的条件から「風の曲がり角/Windhoek」と呼ばれたという説が有力だ。ケープダッチ(ケープ植民地のオランダ語、のちのアフリカーンス語)でWindは風、hoek はcornerの意味。だから「風の曲がり角」。
 ほかにも、ヘンドリック・ヴィットボーイより前の時代に活躍したOrlamのトップ、ヨンカー・アフリカーナ/Jonker Afrikaner が南アフリカからこの地に渡って拠点を作ったとき、故郷にあった山の名前 Winterhoek をこの土地につけて、それがいつのまにかWindhoekになったという説もある。

 いずれにしても、その後、ここを支配したドイツ系植民者がそれをドイツ語ふうの表記 Windhukと変えた。ドイツが第一次大戦で敗戦国となり、南西アフリカは南アフリカの実行支配下に入って、またアフリカーンス語表記 Windhoekに戻した。ナミビア独立時に英語が公用語になり、この土地の名は英語読みされて「ウィントフック」となった。
 もちろんナミビアに住むドイツ語話者はドイツ語ふうに発音し、アフリカーンス語話者はアフリカーンス語ふうに読んでいるのだろう。多様な背景をもった人々が、多様な言語の音でその土地を呼ぶ。それぞれに「正しい理由」をもちながら。だから、旧植民地の土地の名前に「正しい呼称」などないと考えたほうがいい。つまり力関係がそれを左右するのだ。

 こんなふうに、土地の名前には何層にもおよぶ歴史の痕跡が隠されている。

騎馬像跡に建てられた犠牲者の記念碑
Orlamと呼ばれる集団はいくつかあって、ヘンドリック・ヴィットボーイの王国もそのひとつ。南部のナマクワランドに住んでいた牧畜・狩猟民族である褐色の肌をした先住民とオランダ系植民者の混血だ。この地に入っていったキリスト教宣教師によってオランダ語とキリスト教思想を教え込まれたヴィットボーイは、ナマ語のみならず、ケープダッチの読み書きができた。だから「日記」が残っている。
 19世紀末のドイツの植民地時代にウィントフックの中央にはドイツ教会が建てられ、その真向かいにReiterdenkmal(騎馬像)も建った。植民者の苦労を記念する像だ。しかし、1990年に独立した後は、その騎馬像が取り去られ、ドイツ軍のジェノサイドによって犠牲になった先住民系の人たちの像に、じわじわと置き換えられた。ドイツ教会のすぐそばには新たに独立記念博物館が建てられた。そのプロセスを講義で聞いた。

バルタザール・ドゥ・ビールとアナ・ルイザ
(カンネメイヤーの伝記から)
さて、ここでクッツェーがなぜ Late Essays の最後に「ヴィットボーイの日記」をめぐる章を入れたか、という話に戻ると、彼の母方の曽祖父バルタザール・ドゥ・ビール(1844~1923)が、1868年にドイツ宣教師団の一員として南アフリカへ送られ、この南西アフリカで布教活動をしているのだ。そのことはすでに書いた。モラビア出身の宣教師の娘と結婚し、数年後にアメリカへ渡って、イリノイ州のドイツ人コミュニティで布教。そのとき生まれたのがジョンの母親ヴェラ・ヴェーメイエルの母、つまりジョンの祖母ルイザ・ドゥ・ビール(1873~1928)だった。
 少年ジョンはポメラニア出身の曽祖父バルタザールはてっきりドイツ人だったと思っていたが(そう教えられた)、調べてみるとどうやらポーランド人で若いころ名前をドイツ風に変えてドイツ人宣教団に入ったことがわかった(これは今世紀に入ってから判明した事実)。

 というわけで、J・M・クッツェーにとってケープ植民地と南西アフリカの歴史は、デビュー作『ダスクランズ』の第二部「ヤコブス・クッツェーの物語」の背景として、また、『少年時代』にも出てくる彼のオリジンをさかのぼる家族の歴史・物語として、切っても切れない関係にあるのだ。
 ケープ植民地と南西アフリカの歴史は、したがってクッツェーの作家活動の起点であり、人間クッツェーの自己認識の足場を形成したものである。そこが「ケープ植民地の歴史は、ヨハネスやナタールといった土地の歴史とひとくくりにできない」とクッツェーがいう理由なのだろう。(了)

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付記:2018.12.10──ナミビア研究の専門家Sさんに、Windhoek の呼称の由来について、詳細なコメントをいただき、訂正しました。やっぱりWikiだけに頼っていては危ない、ということですね。

 

2018/12/03

シンプルで静かな文体──J・M・クッツェー

日経新聞の読書欄で、作家の小野正嗣さんの「半歩遅れの読書術」が始まった。

 第1回は、小野さんが2014年6月にノリッチで開かれた文学会議で、J・M・クッツェーと会ったときの話だ。クッツェー作品をつらぬく「シンプルで静かな文体」を言い当てていてみごと。おまけにその文体やことば遣いを、人間ジョン・クッツェーの立ち振る舞いと関連させているところも、実際に会って話をした実感がこもっていて、作家としての慧眼が光る。

「彼の作品はどれも深い文学的教養に支えられている。だが、知性に陶酔する技巧や華麗さとはほど遠く、禁欲的と呼びたくなるほど、シンプルで静かな文体なのだ。    ──中略──
 シャイな人だと聞いていたが、それだけではないだろう。書き言葉と同じように、しゃべる言葉もまた、熟慮を経て納得の行くものとならなければ発せられることはないのだ」

 これはもう徹頭徹尾、その通りですね、といいたくなる。とりわけ「シンプルで静かな文体」という、頭韻を踏む表現は覚えやすい。これからはわたしもこの表現を使おう。
 小野さんは、2014年に『ヒア・アンド・ナウ』(岩波書店刊、2014)の書評を書いてくれた。それを友人といっしょに英訳して、ジョン・クッツェーに送ったのだった。彼はとても喜んで、すぐにポールにも送る、と返事が来たことを思い出す。
 

2018/12/01

日経プロムナード 第21回 熾火は燃える


11月最後の日経プロムナードには、ヴァンクーヴァー沖のソルトスプリング島に住むカナダの友人たちが登場します。彼らが掘り起こした、炭焼き窯の跡と日系移民のお話です。

  熾火は燃える

 友人たちの発掘や調査の結果は、『Island Forest Embers/島 森 熾火』という小さな本にまとめられました。

 そのことを書いていたら、突然、わたしの母方の祖父、矢走留五郎が「俺も混ぜろ!」と声をあげて……。
 祖父は旧伊達藩の豪農の家に生まれた冒険心にあふれる男で、太平洋を渡ってメキシコへ行ったのですが、しかし...。メキシコとの境界を流れるリオグランデ川を渡ってしまい、強制送還されて!
 そうか、これは「100年前の日系移民ウェットバック」じゃないか !?

2018/11/30

ヘンドリック・ヴィットボーイの日記(2)


Dusklands 初版カバー
J・M・クッツェーが Late Essays の最終章になぜ「The Diary of Hendrik Witbooi/ヘンドリック・ヴィットボーイの日記」を入れたか?
 それを考えるために、ヴィットボーイが生きた大ナマクワという土地の歴史について再度学び直している。舞台は南西アフリカ、現在のナミビアである。

 クッツェーの初作『ダスクランズ』を訳した者として考えざるをえないのは、現在78歳のこの作家のこだわりがどこにあるかだ。というより、むしろ考えなければならないのは、「英語で発表した」最新エッセイ集、というか作家論ともいえる書評集の最後に、19世紀から20世紀にかけて南部アフリカの土地で起きた出来事をめぐる文章を置いた理由だ。
 
念のため、Late Essays の目次を書いておこう。

1. Daniel Defoe, Roxana
2. Nathaniel Hawthorne, The Scarlet Letter
3. Ford Madox Ford, The Good Soldier
4. Philip Roth's Tale of the Plague
5. Johann Wolfgang von Goethe, The Sorrows of Young Werther
6. Translating Hölderlin
7. Heinrich von Kleist: Two Stories
8. Robert Walser, The Assistant
9. Gustave Flaubert, Madame Bovary
クッツェーの最新エッセイ集
10. Irène Némirovsky,  Jewish Writer
11. Juan Ramón Jiménez, Platero and I
12. Antonio Di Benedetto, Zuma
13. Leo Tolstoy, The Death of Ivan Ilyich
14. On Zbigniew Herbert
15. The Young Samuel Beckett
16. Samuel Beckett, Watt
17. Samuel Beckett, Molloy
18. Eight Ways of Looking at Samuel Beckett
19. Late Patrick White
20. Patrick White, The Solid Mandala
21. The Poetry of Les Murray
22. Reading Gerald Murnane
23. The Diary of Hendrik Witbooi

 23以外はすべて、イギリス(デフォー、フォード)、アメリカ(ホーソーン、ロス)、ドイツ(ゲーテ、ヘルダーリン、クライスト)、スイス(ヴァルザー)、フランス(フロベール)、フランス語で書いたウクライナのユダヤ系詩人(ネミロフスキー)、スペイン(ヒメネス)、アルゼンチン(ベネディット)、ロシア(トルストイ)、ポーランド(ヘルベルト)、アイルランド出身の英語・フランス語で書いた作家(ベケット)、オーストラリアの作家(ホワイト、マーネイン)や詩人(レス・マレー)を論じる文学論である。仏語訳の序文を依頼されて書いた文章とはいえ、どう考えても最後のヴィットボーイだけが異様に際立って見えるのだ。

ペンギン版 Dusklands
『ダスクランズ』の第二部「ヤコブス・クッツェーの物語」は、前にも書いたが、作家クッツェーの出発点だった。18世紀にケープ植民地から大ナマクワランドへ象狩りにでかける「冒険」の旅を記したこのノヴェラは、ヨーロッパ人開拓者のすさまじいまでの自己中心的、暴力的行動とその心理を、これでもかという力技で書いた作品だった。その語りを「歴史文書」として扱う学者の文章をつけ、「歴史の哲学」を問う構成になっている。刊行発表は1974年、南アフリカがアパルトヘイトから解放される20年前、ナミビア独立より16年前のことだ。

 そしていま、ふたたび南部アフリカの土地を舞台にした歴史について書いた「ヴィットボーイの日記」をLate Essays の最後に置く。これは、どういうことだろう。

 ここで着目すべきキーワードは「土地」だ。

ナミビア国花:ウェルウィッチア
クッツェーという作家の、土地へのこだわりを考えていくと、避けて通れないのがケープ植民地を中心にした南部アフリカの歴史である。昨日はナミビアとして独立に至ったその土地の歴史について、Sさんの講義を聞いてきたが、これがめっちゃ面白かった。
 南西アフリカと呼ばれた土地には、まずオランダ人やイギリス人が入りこみ、19世紀末に新興ドイツが植民地にし、さらにイギリス/南アフリカの実質植民地となり、おびただしい血が流されたのち、1990年にナミビアとして独立した。解放闘争時はウランを買わないでくれ、と嘆願していたSWAPO(南西アフリカ人民機構)も独立後に政権党となるや、どんどん外資を招き入れてウランを露天掘りし、外貨を稼いでいる。労働者はウランが身体におよぼす危険性を知らされずに働いているという。

 クッツェーの母方の曽祖父バルタザール・ドゥ・ビール(ポーランド名:バルツァル・ドゥビル)が、ドイツ人宣教師となって南部アフリカへやってきて布教活動を行ったのはこの土地だった。クッツェーが光をあてようとしている土地、一筋縄でいかないナミビアの近現代の歴史については次回に!

 こうしてみると、4月末にブエノスアイレスで開かれた「南の文学:ラウンドテーブル」で語っていたことが一気に浮上してくるのだ。ヨーロッパと植民地、北と南の歴史的な関係の後遺症について。具体的には、報道や文学作品の内容をめぐって、北のメトロポリスを中心にした聴衆や読者が望むものを南が忖度して番組や作品に反映させてしまう、という力学の問題だ。それについては、クッツェーの発言を含めてあらためて論じたいと思う。(つづく

2018/11/22

ヘンドリック・ヴィットボーイの日記(1)


J・M・クッツェーの最新エッセイ集Late Essays(2017) の最後に The Diary of Hendrik Witbooi 「ヘンドリック・ヴィットボーイの日記」という1章がある。

ヘンドリック・ヴィットボーイ(1830-1905)
ダニエル・デフォーの『ロクサーヌ』、ナサニエル・ホーソーンの『緋文字』、フィリップ・ロス、ゲーテ、ヘルダーリン、クライスト、ベケット、パトリック・ホワイトなど錚々たる作家たちの名前に続いて、最後に置かれている。
 ヴィットボーイの名前が「文学者」と並ぶと、ちょっと奇異な感じがするのは、日記を残したとはいえ彼は文学者ではなく、19世紀半ばから20世紀初めにかけて生きた南西アフリカの一民族集団「オールラムOorlams」の王だからだろう。
 クッツェーがここで取りあげる日記は、ケープ・ダッチで書かれているという。ケープ植民地で使われ、部分的に簡素化されたオランダ語だ。ヴィットボーイが王となる集団は、ボーア(オランダ語で農民の意)つまりオランダ系入植者と、コイサン諸民族とのあいだに生まれた「混血」の人たちで構成されていた。『ダスクランズ』第二部「ヤコブス・クッツェーの物語」やゾーイ・ウィカム『デイヴィッドの物語』に出てくるグリクワも、ナマ、コイコイ、サンといった先住民とオランダ系白人との混血が中心となる集団で、白人入植者の奴隷だったり、集団として自立しようとしてもヨーロッパ人の統治を受けざるをえなかったことを思い出してほしい。

「ヘンドリック・ヴィットボーイの日記」は、2015年8月にケープタウン大学で行なわれた講座でクッツェーが朗読したテクストで(このブログで触れた)、初期バージョンは、Votre paix sera la mort de ma nation: Lettres d'Hendrik Witbooi (Saint-Gervais: Passager clandestin, 2011)「あなた(方)の平和はわたしの民族の死となるだろう: ヘンドリック・ヴィットボーイの手紙」への序文だったという。フランス語に訳されたヴィットボーイの日記に、J・M・クッツェーが序文を書き、それを4年後にケープタウン大学の講座で朗読音源として披露し、加筆したものを 2017年の Late Essays の最後の章に収めたということである。
 朗読が公開されてから3年後のいま、ケープタウン大学のサイトに記録は残ってはいるが、クッツェー自身の朗読は削除され、残念ながら聞くことができない。(ここからダウンロードすれば聞けます!

さて、ヴィットボーイをめぐるこの文章がクッツェーの最新エッセイ集の最後の最後に入った理由を考えてみたい。

 ヴィットボーイが生きた土地は、クッツェーのデビュー作「ヤコブス・クッツェーの物語」の舞台とそっくり重なる。『ダスクランズ』の第二部であるこの物語は、訳書解説にも書いたが、クッツェーが30代前半の米国滞在中に書きはじめ、1971年に南アフリカに帰国を余儀なくされたころには、ほぼ完成していた。第一部「ヴェトナム計画」は南アに帰国してから書き加えられた作品である。つまり、作家 J・M・クッツェーの出発点はこの「ヤコブス・クッツェーの物語」にこそあるといえる。

 その物語と強烈に響きあう「ヘンドリック・ヴィットボーイの日記」は、2018年現在、クッツェーが向き合おうとしている、土地と歴史の関係に強い光をあてるテクストといえるだろう。

「ヤコブス・クッツェーの物語」の舞台は、ケープ植民地から北西部へ向かってのびる地域だ。時代は18世紀半ば、オランダ系入植者が象狩りのために奥地を探検する話だった。この土地にドイツが侵攻しだしたのは19世紀末のことで、クッツェーの「ヘンドリック・ヴィットボーイの日記」によると1882年にドイツ人貿易商アドルフ・リューデリッツがまず交易のための拠点を築き*、2年後の1884年にドイツは南西アフリカ(現在のナミビア)を植民地にする、とビスマルクの名前で宣言した。

 第一次世界大戦の敗戦国になったドイツが手放すことになったこの植民地は、イギリスの委任統治領になり、さらにアパルトヘイト政権下で南アフリカが統治権を握ることになる。

 その南西アフリカで1904年から1907(1908?)年のあいだに実行された「ヘレロとナマの大虐殺」が20世紀最初の「ジェノサイド」と認められたのは最近のことだ。ここでドイツが行なったことは、その後のホロコーストへの序盤だったという説が有力になってきている。なぜなら、たびたび起きた先住民の抵抗をドイツ軍が武力で制圧し、最後にヴィットボーイ率いる抵抗軍を完敗させたのがドイツの将軍ローター・フォン・トロータで、彼は絶滅作戦によって北部のヘレロ(バンツー系の黒い肌の人たち)をカラハリ砂漠へ追いやり、南部のナマ(レッド・ピープルと呼ばれる褐色の肌の人たち)を悪名高いシャーク島の収容所に捕虜として隔離し、順次、計算づくで殺していったからだ。まさに、実験的に。
 そのような実践を支えた思想は何か? クッツェーは、ダーウィンから始まる進化思想だと指摘している。なにもドイツ特有というわけではないと。ここは注目したいところだ。

 2004年にドイツ政府はこのヘレロ虐殺についてナミビア国民に謝罪した。
 
 そのとき「ドイツ政府のスポークスパーソンは、ナミビア国民に向けて慎重なことばづかいでスピーチを行なったが、ドイツ人の犯罪に対して、許しを乞う"Bitte um Vergebung"(plea for forgiveness)としながら、"Enschuldigung"(apology)という語は避けた」とクッツェーは書いている。スポークスパーソンが「当時、犯された残虐行為は現在ならジェノサイド(Völkermord)と呼ばれるだろう……そして今日ならフォン・トロータ将軍は起訴され、有罪判決を下されるだろう」と述べた、とクッツェーは Late Essays (p282)の最後に記録したのだ。(つづく
 
2018.11.23 付記──ドイツ植民地政策の専門家であるSさんによれば、リューデリッツがドイツに保護を求めたのは1883年、とのこと。ほかにもいくつか事実関係の細部を訂正しました。Merci, S-san!

2018/11/16

日経プロムナード第20回 馬、名前はない

ぐんと冷え込んできた東京です。11月も後半に入りました。

猛暑の夏をすぎて、短い秋もあっというまにすぎて、いよいよ冬に近づいていく気配が強まります。

 そんな霜月、今回のプロムナードは「馬」です。

  馬、名前はない

 すらりと脚の細い競馬馬ではなく、春になると田んぼや畑で土を起こし、泥を練り、秋になると稲束を運び、俵を山のように積んだ馬車を牽いた農耕馬の話です。
 北海道で農作業に使われた馬は、一般に、なぜか「道産子」と呼ばれていました。
 
 牛、猫、山羊、馬とつづいた動物の話もこれで終わり。まあ、シーンのあいまにちらりちらりと他の動物も出てきますが。主役になるのは今回が最後です。

2018/11/14

ハイデガーとダニ:英語教育12月号

 6月9日にB&Bで行われた「クッツェー祭り」、J・M・クッツェー『モラルの話』発売記念イベントで行われた都甲幸治さんとの対談が、今日発売の「英語教育 12月号」に載りました。

 都甲さんが連載している「境界から響く声たち」の第9回です。タイトルがすごくいけてます。(笑)

  ハイデガーとダニ

 J・M・クッツェー『モラルの話』を読んだ方は、ああ、あれか、とおわかりだと思いますが、そうです、「ガラス張りの食肉処理場」に出てくるあの話です。

 ここに掲載されたのは、当日いろいろしゃべった話のごく一部ですが、よくまとめていただきました。でも、話としては全体の要といえば要だったかもしれません。編集者のKさんに感謝です。ぜひ!
 

2018/11/09

日経プロムナード第19回 電車のなかの七面相

いきなり子どもの話です。そして、いきなりおばあさんの話です(笑)。

J・M・クッツェーの『モラルの話』を訳して、エリザベス・コステロの口調、語調にくふうを凝らしているうちに、コステロばあさん、という表現がひとりで歩きはじめた。

 それと同時に、自分だって、65歳のコステロより年齢は上なんだよなあ、とあらためて思うと、堂々と「おばあさん」と自分を呼んでいいんだと思うようになった。ふん!
 
    電車のなかの七面相

 まったく、変なおばあさんの話です。ニコッと、ニヤッと、笑ってください。子どもといっしょに! いや、いっしょでなくても。ひとりでも!



2018/11/07

世界文学に抗して──『マイケル・K』の読み直し

今日、11月7日3時から、アデレード大学にあるJ・M・クッツェー・センターでとても面白そうなレクチャーが開かれる。

 Against World Literature: Photography and History in Life & Times of Michael K(世界文学に抗して──『マイケル・K』における写真術と歴史)

 講師は、ハーマン・ウィッテンバーグ。ウェスタン・ケープ大学の准教授で、クッツェーが少年時代に撮影した写真やフィルムの編集をまかされた人だ。クッツェー自身の初期作品2昨(In the Heart of the Country, Waiting for the Barbarians)のシナリオを出版した人でもある。 

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 J・M・クッツェーの『マイケル・K』(Life & Times of Michael K)がグローバルな文芸市場に華々しく参入したのは、この作品が1983年にブッカー賞を受賞したときである。南アフリカという国の狭い文脈をはるかに超えて、世界文学という、より広い文化的フィールドでこの本は読まれはじめた。『マイケル・K』を、南アフリカという原点を超えて、ヨーロッパ中心の世界文学という、さらに広いスペースの一部として読むよう後押しをしたのは、もちろん、小説の間テクスト的なオリジンであるクライストの中編小説や、カフカを連想させる一連の偽装である。そういった読み方が主流になったことは、クッツェーが初期のインタビューで「Kという文字はなにもカフカの占有物ではない。それにプラハが宇宙の中心でもない」と指摘していることからみても、クッツェー自身を困惑させたようだ。

この論文は、エミリー・アプターの研究からタイトルを借りながら、『マイケル・K』を再中心化し、さらに、安易に翻訳して世界文学に同化することのできない複雑でローカルな物語として、その作品が根ざしている特定の地域と歴史への認識を失わずに、再読しようとするものである。論文は、写真とノーザン・ケープ州の農場労働者ヤン・ピーリガの物語の影響を考慮することによって、この複雑な事情をたどることになるだろう。
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註:上の文の最後にあるヤン・ピーリガJan Pieriga とは、1980年代にノーザン・ケープ州カミースクローンで起きた殺人事件の殺人犯の名前だという。『マイケル・K』の最初のほうに出てくる「カミースクローンの殺人犯」を記憶している人はどれだけいるだろうか? 母親アンナが働いていた家のある街区が暴徒によって襲われ、暴風雨で荒れた室内をかたづけていたマイケルが発見した古新聞にのっていた写真、そこに写っていた男の射るような眼差し、殺人犯がもっていたとされる武器(棍棒などなど)。その写真を冷蔵庫に貼り付けてマイケルは作業を続けた。

ウィッテンバーグ(中央)Adelaide,2014
 これは実際にノーザン・ケープ州の農場で起きたある事件を下敷きにするものだった。クッツェーはその事件の新聞記事を切り取って参考資料として残していたことは、ランサム・センターに移ったクッツェー文書を精査してデイヴィッド・アトウェルが指摘している。
 カフカやデフォーの作品へ連想を誘う要素をちりばめたこの『マイケル・K』という作品を、もう一度、南アフリカの80年代という個別の歴史と絡めて読み直す試みがなされるというのは、とても、とても興味深い。

 なんでも「世界文学」という大風呂敷のなかに放り込んで、細部が捨象されて読まれていくとしたら、作品そのものが生み出された文脈の必然性が消えていくことになりはしないか? それは作者の望むところだろうか? それは読者のもとめるものと合致するのだろうか?──というのは、わたし自身もクッツェー作品を翻訳しながら、ずっと感じていたことだったからだ。
 とりわけ初期から中期にかけて書かれた南アフリカを舞台にした作品が翻訳されるとき、南アの歴史的事情の細部がブルトーザーでならすように訳されてしまうことに大きな不安を感じてきた。世界文学へ吸収されてしまった視点からは見えない細部こそ、じつは、辺境にある人々にとって、底辺にあって世界の目から見えない(インヴィジブルな)人々にとって、最重要な要素なのではないかと思うからだ。作家は「世界に向けて」その細部をこそ書きたいと思ったのではないかと。

付記:2020/8/24──「北と南のパラダイム」というエッセイを雑誌「すばる」(2019.6)に掲載したが、そこに引用したJ・M・クッツェーの議論にはこの「世界」をめぐる北と南の力学について鋭く論じるクッツェーがいて、この作家の現在地を鮮やかに伝えている。

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2018.11.9──クッツェーが『少年時代』から朗読するようすです。








2018/11/05

ジュリエットの歌う Les Corons

今日、知ったシャントゥーズ。ジュリエット。
フランスのシャンソンから遠く離れて──というほどのこともないけれど、とにかくこの人の歌はすばらしい。Les corons というのは炭鉱の住宅のこと。




Les corons
Nos fenêtres donnaient sur des fenêtres semblables
Et la pluie mouillait mon cartable
Et mon père en rentrant avait les yeux si bleus
Que je croyais voir le ciel bleu

J'apprenais mes leçons, la joue contre son bras
Je crois qu'il était fier de moi
Il était généreux comme ceux du pays
Et je lui dois ce que je suis

Au nord, c'étaient les corons
La terre c'était le charbon
Le ciel c'était l'horizon
Les hommes des mineurs de fond

Et c'était mon enfance, et elle était heureuse
Dans la fumée des lessiveuses
Et j'avais des terrils à défaut de montagnes
D'en haut je voyais la campagne

Mon père était "gueule noire" comme l'étaient ses parents
Ma mère avait les cheveux blancs
Ils étaient de la fosse, comme on est d'un pays
Grâce à eux je sais qui je suis

Au nord, c'étaient les corons
La terre c'était le charbon
Le ciel c'était l'horizon
Les hommes des mineurs de fond

Y avait à la mairie le jour de la kermesse
Une photo de Jean Jaurès
Et chaque verre de vin était un diamant rose
Posé sur fond de silicose

Ils parlaient de 36 et des coups de grisou
Des accidents du fond du trou
Ils aimaient leur métier comme on aime un pays
C'est avec eux que j'ai compris

Au nord, c'étaient les corons
La terre c'était le charbon
Le ciel c'était l'horizon
Les hommes des mineurs de fond

Le ciel c'était l'horizon
Les hommes des mineurs de fond

ソングライター: Jean-Pierre Lang / Pierre Andre Bachelet
Les corons 歌詞 © Universal Music Publishing Group

*terill =ボタ山

(北海道の赤平、歌志内、夕張、炭鉱のあった町を身近に育ったわたしは、この歌を涙なしには聞けない。ボタ山にも登ったよ、歌志内の歌鉱のボタ山。歌志内のちょっと手前の駅で文殊というところに母の実家があったんだ。)

2018/11/02

日経プロムナード第18回 ペペスープとジョロフライス

今回の日経プロムナードは、食欲の秋にふさわしく(?!)西アフリカの食べ物のお話です。
      ペペスープとジョロフライス

吉祥寺「アフリカ大陸」のペペスープ
ペペスープもジョロフライスも、チママンダ・ンゴズィ・アディーチェの『半分のぼった黄色い太陽』に出てきた料理で、とりわけジョロフライスは登場人物のウグウが何度も失敗しながら、だんだん腕をあげていく料理でした。
 吉祥寺の「アフリカ大陸」というレストランでペペスープを初めて食べました。辛くて美味しかった!

(写真はネットから拝借しました!)

2018/11/01

シカゴ大学でのクッツェーのレクチャー

10月9日にシカゴ大学で行われたJ・M・クッツェーのレクチャー「Growing Up with The Children's Encyclopedia」が昨日からYOUTUBEで「期間限定」で公開されています。
 とても面白い内容のレクチャーなのでぜひ!

2018/10/26

日経プロムナード第17回 シャコタン

 木々が色づいて秋も深まっていきます。遠目に、あれ、花かな、と思って近づくと、鮮やかに色づいた木の葉だったり。

   シャコタン

 日経プロムナード第17回目は、シャコタンという海辺の土地について。北海道で自分が生まれて育った場所以外で、もっとも懐かしい場所のひとつです。


2018/10/24

J・M・クッツェーの母方の曽祖父はポーランド系

このところ「英語」という言語が世界を覆う勢いについて極めて批判的な態度を表明しつづけているクッツェーだが、今朝いちばんに飛び込んできたニュースもまた、クッツェーのそんな姿勢が強く感じられる内容だ(10月23日付)。


シレジア大学で名誉博士号を授与されるJM・クッツェー。壇上にはデイヴィッド・アトウェルとデレク・アトリッジの姿も見える。これから3人でアウシュビッツへ向かうのだろう。クッツェーのスピーチは49:40ころから8分ほど。

 ポーランド、カトヴィツェにあるシレジア大学で名誉博士号を授与されたことを伝えるこの記事(原文はポーランド語、読んだのはGoogle英訳)によると、クッツェーの母方の曽祖父バルタザール・ドゥ・ビールはそれまでドイツ人だと思われていたが、生まれたのはチャルヌィラスCzarnylas(「黒い森」の意)という村で両親はポーランド人、村の学校ではポーランド語で授業が行われていたことが突き止められたそうだ。

 突き止めたのはシレジア大学の研究者ズビグニエフ・ビアワス教授Zbigniew Białas。バルタザール・ドゥ・ビールの第一言語はポーランド語であると。(動画のなかでは、ズビグニエフ・ビアワスが2004年6月13日(日曜日!)にクッツェーから突然メールがきて、彼の曽祖父が「Balcer Dubylバルツァル・ドゥビル」という名でポーランドで生まれていたが、詳細を調べてほしいと依頼されたそうだ。)(追記:その結果についてのエピソードを今回、披露しているが、その事実はデイヴィッド・アトウェルの評伝にあったし、そこにはクッツェーがポーランドにあるドゥビルの親戚の墓を訪ねる写真も添えられていた。)

 カトリックのポーランド人として生まれたバルタザール(バルツァル)(1844~1923)は、10歳のころの宗教的な体験によってプロテスタントになることに決め、ドイツ人になって宣教師協会の宣教師として1868年に南アフリカへ送られ、南部アフリカで布教した。結婚した相手がモラビア出身の女性アンナ・ルイザ・ブレヒャー。その娘が、父親が宣教で渡米中にイリノイ州で生まれたルイザ(1873~1928)、つまり母方の祖母だ。このルイザが子供たち全員を英語で育てたために、ジョンの母ヴェラもまた英語で自分の子供を育てることになった。

左がズビグニエフ・ビアワス
 ポーランド生まれのバルタザール・ドゥ・ビールの姿は、『少年時代』ではちょっと狂人じみた宣教師の姿として描かれていて、少年ジョンの大叔母アニーが父親の書いた本をドイツ語からアフリカーンス語へ翻訳して印刷製本して売り歩く姿が出てくる。ドイツ語から、つまり、宣教師バルタザールは、当時、自分の第一言語のポーランド語ではなく布教活動のために獲得した言語、ドイツ語で書いたわけだ。それを南アフリカでアフリカーンス語に翻訳することに一生を費やしたのが「アニーおばさん」、ジョンにとっては大叔母さんだった。
(こうして新事実がわかることで、『少年時代』もまた、結果として、フィクション性の強い作品であることが明らかになっていく……。)
 動画はシレジア大学のサイトにもアップされている。

2018/10/20

日経プロムナード第16回 高橋悠治のピアノ

日経プロムナード第16回、書きました。1970年代半ばからずうっと断続的に「聴いている音楽」について。

  高橋悠治のピアノ

 飽きることなく、しかし逆に、夢中になっておっかけて、もういいや、と区切りをつけて遠ざかるのではなく、「断続的に」(←ここが特徴)、これまで生きてきた山あり谷ありの時間、ずっと聴いてきた音楽。これからも、多分、変わらず聴きつづける音楽。それがグレン・グールドと高橋悠治のピアノなのだ。

2018/10/18

J・M・クッツェーが第1回マヒンドラ賞を受賞

 現地時間の10月17日(水曜日)午後、ハーヴァード大学サンダーズ劇場で、第1回マヒンドラ賞の授賞式が行われた。受賞者はJ・M・クッツェー。

アナンド・G・マヒンドラと彼の妻アヌラドハ・マヒンドラの名にちなんで設けられたこの賞は、 Mahindra Award for the Humanities とあるように、人文学と芸術に多大な貢献をした人にあたえられる賞だ。今年創設され、隔年に授与される。
 授賞式では、マヒンドラ人文学センターのディレクターとしてホミ・バーバがまず紹介のことばとして、クッツェーを「今世紀のfoundationalな作家だ」と呼び、その「理由はわれわれの基礎foundations を揺さぶったからだ」と述べた。バーバは、クッツェーの「じりじりと燃え立たせるモラル上の勇気」を強調しながら、この作家の仕事を「古典」と呼んだ。

 正賞である彫刻(写真で透明なケースに入っている金色の彫刻)はサー・アニシュ・M・カプーアが彫った、多くの頂と谷をもつ峻険な峰をかたどったもので、受賞者のたどった生涯にわたる旅をあらわしている、とバーバは述べた。長く危険なトレックを経たのち山頂からの眺めに到達するのだと。

 それでありありと思い出すのは、クッツェーの自伝的三部作の第一部『少年時代』にでてくるヴスター小学校の帽子の紀章のことだ。「紀章には山頂を星が取り巻くようにラテン語で”困難を経て星へ( ペル・アスペラ・アド・アストラ)”と書かれている」(p68/インスクリプト版)──この「自己犠牲」的な努力については、シカゴ大で行ったレクチャーでも、自分にとって現在進行形のテーマとしてあると彼は述べていた。

 クッツェーは受賞スピーチで、シカゴ大学でのレクチャーに続いて、子供時代を通して英国で編集出版された『子供百科』を読むことの影響について述べ、聴衆にこう問いかけた。「母語をもつとはどういう意味か? 母のいない人たちはいるだろうか?」クッツェーはまだ、英語を自分の母語と呼べないと述べた。

ラウンドテーブル
それを受けたラウンドテーブルで、バーバがクッツェーの提起した問題を11人の参加者それぞれに投げかけた。舞台には英語や英文学の教授陣がならび、なかにはジャメイカ・キンケイドの姿も見える。
 パネリストはクッツェーの3つのお気に入り:自転車、バッハ、ロジェ類語辞典の長所と相互の関係について語った。
 キンケイドは、自分は類語辞典なんか使わない、ときっぱりいって類語辞典を使う他の作家たちとぶつかったが、このイベントのために8冊ほど購入したことを認めたとか──ふうん、面白い。

 詳細は、ハーヴァード・クリムゾンのニュースへ。 
 
 

2018/10/12

日経プロムナード第15回 わたしお母さんだったけど

曇り空からぱらぱら雫が落ちてきたり、急に冷たい風が吹いてきたり、秋は確実にやってきています。

 日経プロムナード第15回がアップされました。

 わたしお母さんだったけど

 少し前に「あたしおかあさんだから」という歌が流れたことがありました。お母さんだから諦める……みたいな。それに対して、「あたしおかあさんだけど」、でも諦めない、とさわやかに、こ気味よく、応答する若い女性たちのことばがとても印象に残ったので、それについて書きました。
 自分の場合はどうだったか、とあれこれ思い出しながら書いていると、行き着くところはいつも……ここなのよね、というオチもついて。

2018/10/05

日経プロムナード第14回  ジョンとポール

半年の予定の日経プロムナードも折り返し点をすぎて、4ヶ月目に入りました。10月最初の回は:

  ジョンとポール

 言わずと知れたビートルズのあのコンビです。でも!
 ジョンもポールも、もとはといえば聖書に由来する名前。使徒ヨハネとパウロ。そして話は途中から、もう一組のジョンとポールへ移っていって……。
 

2018/10/03

Nina cried Power



今日はもうひとつ! この曲、サイコーに好き! ニーナってもちろんニーナ・シモンよね。
映画:Cry Freedom (1987)を思い出す。南アのアパルトヘイト時代に拷問で殺されたスティーブ・ビコが主人公の映画。日本では「遠い夜明け」なんて変なタイトルになってしまったけど、全然、夜明けは遠くなかった!

Nina Cried Power

[Verse 1: Hozier]
It's not the waking, it's the rising
It is the grounding of a foot uncompromising
It's not forgoing of the lie
It's not the opening of eyes
It's not the waking, it's the rising

[Verse 2: Hozier]
It's not the shade, we should be past it
It's the light, and it's the obstacle that casts it
It's the heat that drives the light
It's the fire it ignites
It's not the waking, it's the rising

[Verse 3: Hozier]
It's not the song, it is the singing
It's the hearing of a human spirit ringing
It is the bringing of the line
It is the baring of the rhyme
It's not the waking, it's the rising

[Chorus: Mavis Staples and Hozier]
And I could cry power (power)
Power (power)
Power
Nina cried power
Billie cried power
Mais cried power

And I could cry power
Power (power)
Power (power)
Power
Curtis cried power
Patti cried power
Nina cried power

[Verse 2: Hozier]
It's not the wall but what's behind it

The fear of fellow men, his mere assignment
And everything that we're denied
By keeping the divide
It's not the waking, it's the rising

[Chorus: Hozier and Mavis Staples]
And I could cry power (power)
Power (power)
Oh, power
Nina cried power
Lennon cried power
James Brown cried power
And I could cry power
Power (power)
Power (power)
Power, lord
B.B. cried power
Joni cried power
Nina cried power

[Bridge: Mavis Staples]
And I could cry power
Power has been cried by those stronger than me
Straight into the face that tells you
To rattle your chains if you love being free

[Chorus: Hozier and Mavis Staples]
I could cry power (power)
And power is my love when my love reaches to me
James Brown cried power
Seeger cried power
Marvin cried power

Yeah ah, power
James cried power
Lennon cried power
Patti cried power
Billie, power
Dylan, power
Woody, power
Nina cried power

ママとわたし(とクッツェー) by セリドリン・ドヴィ

Mommy and Me (and Coetzee)

セリドリン・ドヴィ Ceridwen Doveyの興味深いエッセイです。

 現在30代の作家であるセリドリン・ドヴィは、1980年に南アフリカで生まれて──Waiting for the Barbarians が出版された年──幼少時に家族とオーストラリアへ移住し、現在もオーストラリアに住んでいます。その母親テレサ・ドヴィTeresa Dovey はラカンの理論を用いて、世界で初めてJ・M・クッツェーの作品をまとめて論じ、南アフリカの知る人ぞ知る出版社、アド・ドンカーから出版した人でした。
 
Teresa Dovey : The Novels of J M Coetzee: Lacanian Allegories: Johannesburg: Ad Donker. 1988.

 幼少時からJ・M・クッツェーの作品が身近にあって、母親からこの作家と作品の話を聞いて育ち、自分もまた作家になったセリドリンにとって、クッツェー作品はまるで「母乳のよう」なものだと語っています。食卓にさらりと置いてあったクッツェー作品のカヴァーが、幼いセリドリンに強烈な印象を残したようです。白人の男が切断された黒人女性の足を洗っている光景、とあるのはペンギン版のWaiting for the Barbarians ですね──とにかく、なかなか面白いエッセイです。

 たぶんこれは、もうすぐKindle で発売されるJ.M.Coetzee: Writers on Writers の出だしの部分だと思われます。女性が母親になりながらクッツェーを読むことについて、とても興味深い「体験」が書かれています。

 母親テレサの本は古書でしか手に入りませんが、、、、英文学研究者の方々は各国の大学の図書館に入っているのを参照できるはずです。残念ながらわたしは入手法がまだ発見できません😭。

 ちなみに、デイヴィッド・アトウェルがテレサ・ドヴィの1988年の本について手厳しい書評を書いていることも付記しておきます(Research in African Literatures Vol.20, No.3:1989)。ラカンだけでクッツェーのそれまでの作品(『ダスクランズ』から『フォー』までですが)を論じることはとてもできない、と。南アフリカの歴史と社会に軸足を置いたもっと深い洞察と読みが必要だと、具体的に例をあげて論じています。そのあとですね、『Doubling the Point』が構想されたのは。
 いずれにしても、80年代末の南アフリカでクッツェーという作家と作品をめぐって、とても熱く激しい文学的、歴史的、哲学的議論がやりとりされていたことがわかります。

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2018.10.8──付記:Dovey の読みを「ドヴェイ」から「ドヴィ」に変更しました。1990年代にアフリカの文学に詳しい英文学者が「ドヴェイ」と発音していたので、その表記に従ってきましたが、テレサは南アフリカで英語の達者なオランダ系植民者を父や祖父に生まれた人だそうなので、オランダ語やアフリカーンス語の発音に近い「ドヴィ」とします。

2018/09/29

『モラルの話』──ル・モンドに載った書評


9月7日付の「ル・モンド」に Obscure clarté de la finitude というタイトルでJ.M.クッツェーの『モラルの話』(L'Abattoir de verre)の書評が載りました。「作家とその分身」を主眼にしてクッツェー作品を論じる、なかなか読ませる内容です。評者はCamille Laurens カミーユ・ロランス。

 ネット上にPDFとしてアップされていました。リンク先でクリアに読めます!


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付記:フランス語の記事には、今回もそうですが、必ずといっていいほど、南アフリカの作家JMクッツェー、という表現が出てきます。どこにもオーストラリア在住とは書いていません。この辺がスペイン語の記事とちょっと違いますね。
 そうはいっても、80年代から90年代まで、つまり、クッツェーがノーベル賞を受賞するまで、フランス語の訳者の一人はJMのMをマイケルと勘違いしていたようですから、あまり確かなことは言えませんが。「彼ら(註・フランスのジャーナリストたち)はジャン・マリー・クッツェーとまで言ったんです」と初対面のとき、ジョン・クッツェーは語気を強めて言ったことさえありました。急に思い出してしまった。

2018/09/28

日経プロムナード第13回 真冬の水葬

9月最終回の金曜日。日経プロムナードに、むかし家で飼われていた山羊の話を書きました。

   真冬の水葬

 真冬にネズミ捕りの毒団子を食べてしまった山羊。猛吹雪のなか、死んだ山羊を馬橇にのせて、石狩川にかかった橋まで行く短い旅が、記憶のなかで長い尾をひく。


2018/09/25

サンティアゴでJ・M・クッツェーがスピーチ

9月24日、チリのサンティアゴでJ・M・クッツェーの名前を冠した短編賞の授賞式が行われた。 「都市とことば」がテーマで、応募資格は18歳まで。そのためか、会場は若い聴衆でぎっしりだ。

 授賞式のようす

 最終受賞者はフェルナンド・シルバ、18歳だけれど、その発表の前に次点、佳作などなど、何人もの応募者の名前をあげて奨励しているところが、とても印象的だ。

 クッツェーのスピーチは「小さな汽車」という作文で7歳のときに初めてもらった賞のこと、ノーベル文学賞をスウェーデン国王から手渡されたときのこと、さらにチリの2人のノーベル文学賞受賞者、ガブリエラ・ミストラル(受賞1945)とパブロ・ネルーダ(受賞1971)について語ったと伝えられる。

”自分がオーストラリアのアデレードからやってきたのは、ガブリエラ・ミストラルとパブロ・ネルーダというチリの2人の作家について語るためで、ネルーダもミストラルも、詩人になることを運命づけられた自分たちの創造力と信念を疑うことがなかった。

 ミストラルはチリ紙幣にもなっている女性詩人で、彼女が死んだときは国葬になり、政府は3日間の喪に服するとしたが、一方のネルーダが受賞したときこの詩人は政府から敵とみなされていたため国葬はなかった”

 そして最後にクッツェーは若い聴衆に向かって、忘れずにこう付け加えた。

──この2人の詩人はともに、地方に住む、裕福ではない家族の出身だった。

 いかにもジョン・クッツェーらしいコメントです。
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付記:9.25.23:37──ジョン・クッツェーが若い人に笑いかける表情がとてもいいな。元気そうだし。

 チリを訪れるのはこれで7回目だとか。
 今回は終始、笑顔ですね。


 (ここに書いたことはリンク先のスペイン語の記事をGoogle英訳したものに基づいています。)