2018/11/22

ヘンドリック・ヴィットボーイの日記(1)


J・M・クッツェーの最新エッセイ集Late Essays(2017) の最後に The Diary of Hendrik Witbooi 「ヘンドリック・ヴィットボーイの日記」という1章がある。

ヘンドリック・ヴィットボーイ(1830-1905)
ダニエル・デフォーの『ロクサーヌ』、ナサニエル・ホーソーンの『緋文字』、フィリップ・ロス、ゲーテ、ヘルダーリン、クライスト、ベケット、パトリック・ホワイトなど錚々たる作家たちの名前に続いて、最後に置かれている。
 ヴィットボーイの名前が「文学者」と並ぶと、ちょっと奇異な感じがするのは、日記を残したとはいえ彼は文学者ではなく、19世紀半ばから20世紀初めにかけて生きた南西アフリカの一民族集団「オールラムOorlams」の王だからだろう。
 クッツェーがここで取りあげる日記は、ケープ・ダッチで書かれているという。ケープ植民地で使われ、部分的に簡素化されたオランダ語だ。ヴィットボーイが王となる集団は、ボーア(オランダ語で農民の意)つまりオランダ系入植者と、コイサン諸民族とのあいだに生まれた「混血」の人たちで構成されていた。『ダスクランズ』第二部「ヤコブス・クッツェーの物語」やゾーイ・ウィカム『デイヴィッドの物語』に出てくるグリクワも、ナマ、コイコイ、サンといった先住民とオランダ系白人との混血が中心となる集団で、白人入植者の奴隷だったり、集団として自立しようとしてもヨーロッパ人の統治を受けざるをえなかったことを思い出してほしい。

「ヘンドリック・ヴィットボーイの日記」は、2015年8月にケープタウン大学で行なわれた講座でクッツェーが朗読したテクストで(このブログで触れた)、初期バージョンは、Votre paix sera la mort de ma nation: Lettres d'Hendrik Witbooi (Saint-Gervais: Passager clandestin, 2011)「あなた(方)の平和はわたしの民族の死となるだろう: ヘンドリック・ヴィットボーイの手紙」への序文だったという。フランス語に訳されたヴィットボーイの日記に、J・M・クッツェーが序文を書き、それを4年後にケープタウン大学の講座で朗読音源として披露し、加筆したものを 2017年の Late Essays の最後の章に収めたということである。
 朗読が公開されてから3年後のいま、ケープタウン大学のサイトに記録は残ってはいるが、クッツェー自身の朗読は削除され、残念ながら聞くことができない。(ここからダウンロードすれば聞けます!

さて、ヴィットボーイをめぐるこの文章がクッツェーの最新エッセイ集の最後の最後に入った理由を考えてみたい。

 ヴィットボーイが生きた土地は、クッツェーのデビュー作「ヤコブス・クッツェーの物語」の舞台とそっくり重なる。『ダスクランズ』の第二部であるこの物語は、訳書解説にも書いたが、クッツェーが30代前半の米国滞在中に書きはじめ、1971年に南アフリカに帰国を余儀なくされたころには、ほぼ完成していた。第一部「ヴェトナム計画」は南アに帰国してから書き加えられた作品である。つまり、作家 J・M・クッツェーの出発点はこの「ヤコブス・クッツェーの物語」にこそあるといえる。

 その物語と強烈に響きあう「ヘンドリック・ヴィットボーイの日記」は、2018年現在、クッツェーが向き合おうとしている、土地と歴史の関係に強い光をあてるテクストといえるだろう。

「ヤコブス・クッツェーの物語」の舞台は、ケープ植民地から北西部へ向かってのびる地域だ。時代は18世紀半ば、オランダ系入植者が象狩りのために奥地を探検する話だった。この土地にドイツが侵攻しだしたのは19世紀末のことで、クッツェーの「ヘンドリック・ヴィットボーイの日記」によると1882年にドイツ人貿易商アドルフ・リューデリッツがまず交易のための拠点を築き*、2年後の1884年にドイツは南西アフリカ(現在のナミビア)を植民地にする、とビスマルクの名前で宣言した。

 第一次世界大戦の敗戦国になったドイツが手放すことになったこの植民地は、イギリスの委任統治領になり、さらにアパルトヘイト政権下で南アフリカが統治権を握ることになる。

 その南西アフリカで1904年から1907(1908?)年のあいだに実行された「ヘレロとナマの大虐殺」が20世紀最初の「ジェノサイド」と認められたのは最近のことだ。ここでドイツが行なったことは、その後のホロコーストへの序盤だったという説が有力になってきている。なぜなら、たびたび起きた先住民の抵抗をドイツ軍が武力で制圧し、最後にヴィットボーイ率いる抵抗軍を完敗させたのがドイツの将軍ローター・フォン・トロータで、彼は絶滅作戦によって北部のヘレロ(バンツー系の黒い肌の人たち)をカラハリ砂漠へ追いやり、南部のナマ(レッド・ピープルと呼ばれる褐色の肌の人たち)を悪名高いシャーク島の収容所に捕虜として隔離し、順次、計算づくで殺していったからだ。まさに、実験的に。
 そのような実践を支えた思想は何か? クッツェーは、ダーウィンから始まる進化思想だと指摘している。なにもドイツ特有というわけではないと。ここは注目したいところだ。

 2004年にドイツ政府はこのヘレロ虐殺についてナミビア国民に謝罪した。
 
 そのとき「ドイツ政府のスポークスパーソンは、ナミビア国民に向けて慎重なことばづかいでスピーチを行なったが、ドイツ人の犯罪に対して、許しを乞う"Bitte um Vergebung"(plea for forgiveness)としながら、"Enschuldigung"(apology)という語は避けた」とクッツェーは書いている。スポークスパーソンが「当時、犯された残虐行為は現在ならジェノサイド(Völkermord)と呼ばれるだろう……そして今日ならフォン・トロータ将軍は起訴され、有罪判決を下されるだろう」と述べた、とクッツェーは Late Essays (p282)の最後に記録したのだ。(つづく
 
2018.11.23 付記──ドイツ植民地政策の専門家であるSさんによれば、リューデリッツがドイツに保護を求めたのは1883年、とのこと。ほかにもいくつか事実関係の細部を訂正しました。Merci, S-san!