2013/01/30

クッツェーの『サマータイム』訳了、『少年時代』へ

 昨日ようやく『サマータイム』の訳了にこぎつけた。

 今日からは『少年時代』の改訳作業だ。13年も前に訳したものを読み直すのは不思議な体験だ。ただし利点もある。2011年11月にケープタウンと、内陸の町ヴスターを訪ねたことが大きい。

 初訳時には Google による検索手段なかったから、なかなか理解するのが難しかった細かな地理が、いまは難なくわかる。読んでいると、訪れたヴスターの町がありありと、細部まで思い出される。自転車に乗って町を走っている少年の姿まで、目に浮かんでくるようだ。

もちろん、当時といまとは随分ようすが違うことは知っている。少年の住んでいた「ポプラ通り12番」という番地はあったけれど、作家にその写真を送ると、当時はまったく緑がなかった、という返事が返ってきた。そのことは作品内にも書かれている。

 わたしが訪れた季節は初夏で、ちょうど薄紫色のジャカランダの花が咲いていた。道も当然のことながら舗装されていた。でも駅近くのユーカリの並木道は、たしかに、人気がなくて荒涼とした感じがしたし、路上には土埃が吹きだまり厚い層を成していた。

 あと一月ほどで、作家が来日するまでに、さて、作業がどれだけ進むか。

 上の写真のように、いまも「ポプラ通り」の標識がある。中段の写真は、ヴスター駅。下の写真は、ポプラ通り12番の家の正面を背にして、反対側の山をながめた風景だ。

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付記:2013.1.31  なんといっても13年前とちがうところは、実際にケープタウンやヴスターへ行ったことだけではなく、Kannemeyer の伝記「J. M. Coetzee: A Life in Writing」が出て、それを読了したあとに見直していることだろうか。
 このカンネメイヤーの伝記には、クッツェー自身が「事実を書くこと」という条件のもとにカンネメイヤーがほとんどすべてのペーパー類にアクセスしているだけあって、驚くような事実関係が、豊富に、詳細に、書き込まれている。だから、どこまでが事実であり、どこまでがフィクションか、それが今回見直しをしていると手に取るようにわかる。作家が書いている机のそばに座って、彼の頭の中をのぞいているような感じがするときさえあるのだ。これはなんともスリリング!

2013/01/28

円山動物園のレッサーパンダ

もう、サイコー! 1980年代半ばのわが家の子どもたちみたいだ。あのころは東京の多摩にも、ずいぶん雪が降って積もったものだった。

2013/01/26

SANDIYA ── マリの音楽

注文していたCDが届いた。さっそく聴いている。バラフォンの音色がすごくいい。マリの音楽。少し前に、フランスがこの国へ軍を投入したというニュースが流れた。


 あの、マリーズ・コンデが魅せられたマンディンカの人たちがすむ土地でもある。コンデには『セグー』というベストセラー作品がある。

 西アフリカの政治に私は詳しくはないし、アフリカの政治に詳しいわけでもない。ひとりの日本語の翻訳者が、それでもできることは、こうしてかの地の生んだ音楽に耳をかたむけて、そこに住む人たちがいまなにを思い、どうやって日々を暮らしているか、おぼつかない情報をもとに、ひたすら想像することだ。

 わからないところから出発する。簡単にわかろうとしないこと。かすかな入口として、わたしはいま、このCDを聴くことにした。いくばくかのことは想像できる。こんな音楽をつくるひともいる、ということはわかる。これは間違いなく「わかる」。

 いまは尺八のような音色の笛が聞こえている。すてきだ。

 朝日新聞の記者、江木慎吾さんがマリのバマコ近くで書いた25日付の記事にこうある。

 窓の外を眺めると、ところどころ、タマリンドのダイダイ色の花が見える。村を通ると、臼に入れたミレットを両頭の杵(きね)で突いている少女がいる。水道管を埋設するのか、たくさんの人が手作業で溝を掘っている。
 ここには、大地に根を張った人々の暮らしがある。ここが紛争地であろうがなかろうが、退避勧告が出るような状態であろうが、変わらぬ日常を踏みしめている。

 わたしはこういう報道が好きだ。

2013/01/25

クッツェーとオールダマストン



これは貴重な映像だ!

 いま翻訳中のクッツェーの自伝的トリロジー第二部『青年時代』には、彼が1961年暮れにケープタウンから船に乗り、翌年の初頭にロンドンの土を踏み、友人のアパートに身を寄せながら職探しをした話が出てくる。
 まず新聞の募集欄を頼りにいくつか面接を受け、最終的にはIBMで働くことになった。それから数年後に、このオールダマストンでコンピュータを用いた当時最先端をいく核兵器戦略のプログラミングをするのだ。しかし、ケンブリッジやオクスフォード出のエリートたちとはまったく異なる処遇を受ける。いわば属国である南アフリカ出身の彼と、インド出身の人物だけが、24時間監視がつき、トイレのブースまで見張られたのだ。
 
 1960年代、アパルトヘイトが高揚期に入る南アフリカから出国し(それが可能なのは当然、ある恵まれた条件の人だけだったが)、彼は「数学」の学士号を使って、とにもかくにも食いつなぐための職を得ながら、片方で修士論文の準備をしていた。『青年時代』には出てこないが、じつは1963年に彼はケープタウンにもどっている。そこで修論をしあげ(このとき最初の結婚をした)、ふたたび渡英してから就いたのがオールダマストンの仕事だった。あとから考えると「wrong」の側の仕事をした、と彼は『青年時代』で書いている。
 
 ポール・オースターとの『書簡集』では、この東西冷戦がなかったらアパルトヘイト体制はもっと早く終焉を迎えていたはずだ、とも書いている。1959年にこんなに大きなマーチが行われていたことを、彼は知っていただろうか? 

 そして1965年に、彼は文学研究の道へもどるべく、テキサス大学へ向かう。多くの大学に手紙を書き、片手ほどの返事をもらったなかで、テキサス大学がもっとも寛容な条件で彼を博士課程(講師の義務あり)に入学させてくれたからだ。だから、彼のペーパー類がすべてテキサス大学のランサム・センターへ移ったことは、いってみれば自然な成り行き。つまりこの大学に彼は恩義を感じているのだ。
 また、このセンターほど物理的条件に恵まれ、かつ、優秀な運営スタッフがそろっている場所もないのだろう。南アフリカ国内の施設では、残念ながら、とてもたちうちできそうもない。

もうすぐ73歳になるクッツェーさん。わたしも早く新しい訳書を出さなければ! 日々、ひたすら奮闘中です。頭が「クッツェー漬け」になっていく!

2013/01/18

One Letter is Enough ── クッツェーが読む

J・M・クッツェーが、獄中にあるノーベル平和賞受賞作家、劉暁波/Liu Xhiabo の詩「One letter is Enough」を読みます



One Letter is Enough
for Xia
one letter is enough
for me to transcend and face
you to speak
as the wind blows past
the night
uses its own blood
to write a secret verse
that reminds me each
word is the last word
the ice in your body
melts into a myth of fire
in the eyes of the executioner
fury turns to stone
two sets of iron rails
unexpectedly overlap
moths flap toward lamp
light, an eternal sign
that traces your shadow


もうひとつ、"Statement"を読むクッツェー。




Statement

I am serving my sentence in a tangible prison, while you wait in the intangible prison of the heart. Your love is the sunlight that leaps over high walls and penetrates the iron bars of my prison window, stroking every inch of my skin, warming every cell of my body, allowing me to always keep peace, openness, and brightness in my heart, and filling every minute of my time in prison with meaning. My love for you, on the other hand, is so full of remorse and regret that it at times makes me stagger under its weight. I am an insensate stone in the wilderness, whipped by fierce wind and torrential rain, so cold that no one dares touch me. But my love is solid and sharp, capable of piercing through any obstacle. Even if I were crushed into powder, I would still use my ashes to embrace you.

(わたしは有形の監獄で刑に服しているが、きみは心という無形の監獄で待っている。きみの愛は陽の光であり、高い壁を飛び越え、監獄の窓の鉄格子を突き抜け、わたしの皮膚を少しずつ撫で、わたしの肉体の細胞をひとつひとつ温め、わたしの心にいつも平和と、開放と、輝きをもたらし、獄中にある時間を意味で満たしてくれる。なのに、きみのためのわたしの愛は、良心の呵責と後悔で満ち、ときにその重さでわたしをふらつかせる。わたしは感覚をなくした荒野のなかの一個の石、激しい風と豪雨に打たれてこんなにも冷たく、誰も手を触れようとはしない。しかしわたしの愛は堅固で鋭く、どんな障碍をも突き通せる。たとえわたしが押し潰されて粉々になったとしても、わたしはこの骨灰を使ってでも、きみを抱擁するだろう。)

ほかにもサルマン・ルシュデイやポール・オースター、シェイマス・ヒーニー、ジリアン・スロボなどがこのキャンペーンに参加していて、YOUTUBE にアップされています。

2013/01/13

1月13日「毎日新聞/今週の本棚」に「この3冊」!

今日の毎日新聞「今週の本棚」に「この3冊」を書きました。和田誠氏の似顔絵が載るコーナーです。
 
「いま行ってみたいパリ」がテーマで、とりあげたのはつぎの3冊。

 1)『エキゾチック・パリ案内』清岡智比古著/平凡社新書
 2)『郊外少年マリク』マブルーク・ラシュディ著、中島さおり訳/集英社
 3)『浦からマグノリアの庭へ』小野正嗣著/白水社



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イラストに、なんと家の猫が登場しました〜!

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すでに毎日のウェブ版にアップされてるのでリンクします。



2013/01/12

「翻訳という怪物」── いくつか考えたこと

昨年の11月19日、六本木のミッドタウンタワー7Fにあるスルガ銀行の d-labo というスペースで、すっごく刺激的なイベント「翻訳という怪物」が行われた。
 柴田元幸、ジェフリー・アングルス、管啓次郎という面々が、翻訳について熱く語る2時間だった。エミリー・ディキンソンの短い詩を、三人が個別に訳してきたのを比べていろいろ論じる趣向もあって、面白かったなあ〜〜〜 それを契機に考えたことがいくつかある。

まずひとつめ。管啓次郎さんがなにげなく発した、ヨーロッパ言語ではごく日常的なことばが、そのまま哲学や思想のことばであるのに対して、日本では近代において西欧の書物が日本語に翻訳される過程で、大和言葉とは歴然と区別される(それ以前の輸入言語である)漢語をベースにして創作された用語に訳されてきた、という指摘。こうしてわたしが書いたことばは、管さんの実際の発言をかなり主観的に聞き取り、書き換えたものであり、必ずしも管さんのことばそのものではないけれど、まあ、発言の趣旨はそんな感じだったと思う。この指摘は、ずう〜〜っと以前から気になってきたことでもあり、現在の日本の政治の場面で語られることばのぼろぼろ感、社会の「なかったことにする、見なかったことにする」どん底状態を考えるときに、大きなヒントになると思ったのだ。

 書物のなかのみの観念用語と、日常用語が歴然と分かれている、別に日本語だけに限ったことではないかもしれないが、よくもわるくも、それが現代の日本語なのだ。よい点はなかなか思いつかないが、悪い点ならいくつも思いつく。思想が現実に組み込まれえないため、困難な状況に立ち至ったとき役に立たない。「組み込まれえない」というところに、観念用語と生活用語の分離がたちはだかる、と考えることはできないか。

 また、ことばの意味そのものではなく、その裏の政治力学を読み取ろうとする「芸」の日常化、つまり「空気を読むこと」が「大人になること」だったり。これは「議論すること」の根底を危うくもしている。議論は、ことばに対する信頼がなければありえない。つまり字義上の意味そのものが、そのまま伝わることを前提としなければ議論にはならない。
 そして、現実に対して力をもたない観念用語の占有化──「生活」ときっぱり分離しているゆえの・・・。たてまえと本音。噓と頽廃。倫理観の欠如。大ざっぱすぎるのは重々承知で、まあ、そんなことを考えてしまった。

 八百屋のおばさんにも分かることばで書いてよ、とかつてわたしはある東京の大学教授に、半分冗談で、半分本気で言っていたことがあった。でも、その人は軽く「八百屋のおばさんは読まないよ」とのたもうたのだった。ふ〜ん。まあ、そうだけど。
 
 もうひとつは、ジェフリーさんが述べた「翻訳家=ストーカー説」。これには、はたと膝をたたいた。翻訳は面白いからやる、そこに快楽があるからやる、深く調べるのは対象を愛しているからで(完全な片思いだ!)、テクストの裏をどこまでも知りたいと思うところがストーカーみたいだ、と。ちょっと笑える、ちょっと切ない。でも言い得ているわ、ジェフリーさん。

 そして柴田さんの、好きなテクストしか訳さない、そのテクストの奥から声が聞こえてくるようなテクストしか訳さない、訳さないほうがいい、という正論。まあ、駆け出しのときはそうとばかりは言っていられないけれど(と具体例をジェフリーさんや管さんは出してはいたが)、こと文学作品についていえば、これはもう、まったくもってその通りだと思う。クッツェーの翻訳論にもあるように。

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しばらく前に書いたものだけれど、中島さおりさんのブログでこの催しについて書かれているのを発見! 遅ればせながらわたしもアップしました。
 

2013/01/06

クッツェー自身の翻訳論(3)── meanjin

2005年にメルボルン大学から出た雑誌「meanjin volume 64.4」の翻訳特集号に、J・M・クッツェーが寄せた文章の最後のところをここで紹介する。すでに引用しながら書いたものは、(1)(2)で読める。

『The Master of Petersburg/ペテルブルグの文豪』がロシア語に翻訳されたときタイトルが『Autumn in Petersburg/ペテルブルグの秋』になり、イタリア語版『Dusklands/ダスクランズ』では男が木箱を開けるのに鳥/crow を使っている(作者は crow を crowbar/バールの意味で使った)のを発見したエピソードから書き出して、クッツェーは「フランス、ドイツ、スウェーデン、ドイツ、セルビア、クロアチアの翻訳者たちは通常、翻訳に際していつも質問をくれるが、トルコや日本の翻訳者は連絡をくれない。トルコ語と英語、日本語と英語との言語構造や文化的背景の違いを考慮すると、ヨーロッパの言語間の翻訳よりわたしのテクストははるかに厄介なものだろうと思っていた。あるいはひょっとすると連絡をくれないのは politeness によるものかもしれない(p141)」と書いている。これを読んだときは正直いって、どっきりした。

読んだのは、すでに2006年に初来日したクッツェー氏と『鉄の時代』の翻訳について、こまめにやりとりしていた時期だったけれど、そうか、彼は自分の作品の翻訳についてはとても気にしているのだということをあらためて知った・・・まあ、考えたらあたりまえだけれど・・・たぶん、クッツェー氏自身が翻訳をする作家なので、具体的なことが頭に浮かんできていろいろ考えるのかもしれない。
 
 翻訳について彼が書いたこの文章の結論部分を読み返して、これはやはり紹介したほうがいいかと思い、ここに引用する。

There is a legitimate branch of aesthetics called the theory of literature.  But I doubt very much that there is or can be such a thing as a theory of translation ── not one, at any rate, from which practitioners of translation will have much to learn.  Translation seems to me a craft in a way that cabinet-making is a craft.  There is no substantial theory of cabinet-making, and no philosophy of cabinet-making except the ideal of a good cabinetmaker, plus a few precepts relating to tools and to types of wood.  For the rest, what there is to be learned must be learned by observation and practice.  The only book on cabinet-making I can imagine that might be of use to the practitioner would be a humble handbook. (p151)

 美学には正規の一部門として文学理論と呼ばれるるものがある。しかし翻訳理論などというものがあるのか、ありうるのか──少なくとも、翻訳の実務者が大いに学ぶべきものがある理論となると──大変疑問である。翻訳というのはわたしには手工芸に思える。それはキャビネット作りが手工芸であるというのに近い。キャビネット作りの基本理論とか、キャビネット作りの哲学があるわけではなく、あるのは良きキャビネットの作り手とはどういうものかという理想と、道具と木材のタイプに関する二、三の見極めだけだ。そのほかは、学ぶべきことは観察力と実務によって学ぶしかない。キャビネット作りについて書かれた、実務者にとって役に立つ本としてわたしに想像できるのは、ささやかな一冊のハンドブックのみである。


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2019.8.27──付記:翻訳については以前、あるイベントの感想として、

「翻訳という怪物」── いくつか考えたこと


でも触れたので、よかったら!

2013/01/02

水牛のように──詩を書きました

2013年はいったいどんな年になるのか。五里霧中の手探りながら、なぜか決まって一年の最初の日は陽の光がまぶしい。空も澄み切っている。
 「なぜか」なんていってみたけれど、なんのことはない、都内、都下を移動する車の数が少ないからだ。

 今年は、きっと、21年ぶりに詩集をまとめる。こうして書いたのだから、逃げずに、やる。
水牛のように」に、また新たに詩を一編。1963年に撮影された JMC の写真から想をえたものです。

 今夜は年に一度、旧家族が集まる日。成人し、家を離れた子どもたちがやってくる日だ。親はふたりして、昨日までの仕事の手を休め、朝から、料理やら掃除やら、ささやかな準備にかかる。

 *写真は、カナダBC州のSaltspring島に住む Brian Smallshaw さんの撮影。
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「水牛のように」で発見した、文句なしの賛同句──「温泉町にあったらいいな翻訳村」by 大久保ゆう

2013/01/01

賀正 ── 今年もどうぞよろしく!

明けましておめでとうございます!

 今年は、まず3月初めにジョン・クッツェーが来日する。(付記:詳細はこちらへ!

 それまでに彼の自伝的三部作『Scenes from Provincial Life』をしあげて刊行できたらいいのだけれど、とても間に合いそうもない。でも、それが終わったら、ポール・オースターとの往復書簡集『Here and Now』も手がけることになっているので、今年はクッツェー三昧の日々になりそう!

 でも、でも、アディーチェの新作『Americanah』もまた5月には出る予定なのだ。まことに嬉しい悲鳴。分身の術で3人くらいに分かれて仕事をしたい。がんばります。(それにしてもこのタイトル『Americanah』だが、ドン・デ・リーロの第一作目とまったくおなじなのが気になるなあ!)

 今年は少しは良い年になりますように。福島や被爆地の子どもたち、ごめんなさい、大人としてやるべきことがやれていない。本当になさけないし、恥ずかしい。

 しかし、結局は精一杯、自分にやれることをやるしかないのだと思い直す。日本という狭い場所から、首ひとつ水面に出してあたりを見渡したい。たとえ現物の国境線を越えなくても、越える方法はいくつもあるのだから。越えて、共感共苦できる人たちと繋がること。そのとき、ことばが人と人を繋ぐかどうか、本来の意味で役に立つかどうか、根底から問われることになるのだろう。

 みなさん、今年もどうぞよろしくお願いします!