他の2点(2)天路(リービ英雄著、講談社)(3)断絶(リン・マー著、藤井光訳)との関連もしっかり押さえられていて。。。
2021年12月25日朝刊の読書欄で、これは嬉しいクリスマス・プレゼントだった。備忘のためにこちらにも書いておく。
他の2点(2)天路(リービ英雄著、講談社)(3)断絶(リン・マー著、藤井光訳)との関連もしっかり押さえられていて。。。
2021年12月25日朝刊の読書欄で、これは嬉しいクリスマス・プレゼントだった。備忘のためにこちらにも書いておく。
風土の記憶、自分への目覚め
西日本新聞2021年12月25日朝刊に、あの大竹昭子さんが『山羊と水葬』(書肆侃侃房)の書評を書いてくれました。同世代で、あの時代を(「あの」がやたら多くてすみません!)東京で経験した人ならではの視点から、深い記憶の水の底へ、鋭いビームを投じるように読み解いて伝えてくれた大竹さん、ありがとうございました。
たとえば、「大学時代はジャズに夢中になり、東京中のジャズ喫茶を(当時は女独りで入れるような雰囲気ではなかったにもかかわらず!)独りで巡って……」というところなどは、あのころの社会標準としての空気を知らない人には、なかなか想像できないことかもしれません。この部分の読み解きはとても嬉しい。わたしの生まれた「家」は、当時の村の基準でいうと、農業を主業としている「農家」とはいえないかもしれないけれど(父は勤め人をしながら、母は子育てをしながら、小さな田畑を作っていた)、田舎と都会の距離などについて、現在から投じる光の当て方はきわめて的確です。
2021年のクリスマスに、なにより嬉しいプレゼントをいただきました。
Merci beaucoup!
2021年も残り少なくなりました。今年は、コロナウィルスが世界に蔓延して2年目、8月には猛暑の東京で、1年遅れのオリンピック、パラリンピックが開催されるという悪夢のような出来事もありました。しかし、過ぎ去ってしまえばすでに遠い、という感じが否めない。
でも、今年2021年はわたしにとって、なんといっても10月に3冊の著書、訳書を出せたことが大きな出来事でした。『J・M・クッツェーと真実』『少年時代の写真』(ともに白水社)『山羊と水葬』(書肆侃侃房)です。
そして今日の東京新聞に、今年の最後を飾るかのように、『J・M・クッツェーと真実』の書評が載りました。評者は、中村和恵さんです。「多様性のルーツに肉薄」というタイトルの文章で、外部から見れば「謎めいた」ように見えるクッツェーの姿を立体的に、核心をついた表現で伝えてくれました。
「J・M・クッツェーについて詳細に、同時にわかりやすく書く、という離れ業を本書はやってのける」と始まり、「現在はオーストラリア在住だが、やはり彼は南アの作家なのだ」と指摘する中村さんは、長年オーストラリアの先住民について調べてきた人です。
最後に、わたしが訳してきたアフリカ大陸出身の作家の名をあげながら、「あの大陸にはまだまだ、語られるべき物語、読まれるべき話がある」と結ぶ。この評者ならではのことばのシャベルで、時間と空間を掘り起こす視点が光ります。
Merci beaucoup!
12月14日の東京新聞夕刊「海外文学の森へ 21」に、グアダルーペ・ネッテル『赤い魚の夫婦』(宇野和美訳 現代書館刊)について書きました。
読んだのは、あの、暑い、オリパラの8月でしたが(もうほとんど忘れかけている夏)、この本を読んだときの新鮮な驚きはいまもありありと蘇ります。
2021年のノーベル文学賞はザンジバル出身の英語で書く作家、アブドゥルラザク・グルナが受賞しました。名前の通りグルナはアラブ系です。
他にもアフリカ出身の作家、アフリカ系の作家が今年の名だたる文学賞を総なめにした感がありました。そんな年の最後を飾るイベントにふさわしく、「アフリカン文学をめぐって」というイベントが開催されます。 わたしは第一部で30分ほど話をしますが、録音による参加です。
詳しいイベント情報はこちらから → アフリカン文学をめぐって
配信アドレス:https://youtu.be/zegrJRdsa1w
怒涛の7-9月が過ぎて、燃え尽きていた10月、3冊の本たちが次々と船出していった。そして11月になって新聞に書評が掲載されはじめた。ぼんやりしているとすぐにブログがお留守になる。ちゃんと書いておかなくちゃ。
結びの、「ところで本書の隠れた力は、<エピローグ>で語られた著者自身の生い立ちにある。…中略…『少年時代』を読んでいるとき<これはあなたの仕事だという声が聞こえてきた>と振り返る著者の言葉が、柔軟な筆致に厳しさをもたらすのは、この一冊がクッツェーという近しい他者を通して描いた、まぎれもない自伝でもあるからではないだろうか」には、ああ、そういう読み方が可能なのかと驚き、感動しました。
また同じく11月20日(土)の日経新聞では粟飯原文子さんが、アフリカの文学研究を専門とする人ならではのポイントをしっかり押さえて、『J・M・クッツェーと真実』をがっつり評してくれました。「鋭い作品分析、歴史の解説、作家との交流や南ア訪問の逸話等に導かれてクッツェーの魅力が存分に味わえる。愛に溢(あふ)れる書物だ」という最後のことばにはもう涙!
今月は新著のラッシュ。自著が2冊、翻訳が1冊、合計3冊も出るのだ。出たのだ。こんなことは最初で、おそらく最後。
そのうちの3冊目、『山羊と水葬』(書肆侃侃房刊)が今日とどいた。
北海道で育ったころの記憶、東京へ出てきた直後の出来事、失語感覚のなかで詩を書いてジャズを聴き、生き延びて、新しい家族をえて、翻訳をこころざし、アフリカなどまで行ってしまって。何度も思い返し、思い直し、ジグザグに記憶を上書きしながら、長らく暖めてきたメモワールが『山羊と水葬』という本になりました。
フロントカバーの素敵な絵を描いてくれたのは尾柳佳枝さん。帯文を書いてくれたのは岸本佐知子さん。ありがとうございました。データ処理、編集、校正、印刷、製本、いろんな作業を通して本は出来上がる。出来上がってからもまた広報や営業の方々の手を経て、書店を通して読者のところへ届けられる。たった1冊の本が出来上がるまでに、どれほどの人たちの手を経て、どれほどの努力に支えられているだろう。仕上がってきた本を見るたびに、しみじみありがたいと思う。企画編集の最初から最後まで大変お世話になったTさん、本当にありがとうございました。
『山羊と水葬』は10月28日発売です。あ、明日ですね!
新しい本を手にして、秋はしみじみ更けていく。
『J・M・クッツェーと真実』に続いて『J・M・クッツェー 少年時代の写真』がやってきた。さっそく2冊ならんで、仲良く記念の写真撮影。
内容についてはこのブログで何度も触れてきたので省略。
10月15日に白水社から、2冊同時発売です。
神無月の7日、ピンポーンとベルが鳴って、ついに本がやってきた。
エッセイ集『J・M・クッツェーと真実』(白水社刊)、10月15日発売。
曇り空の下で早速の記念撮影。褐返しに近い色の帯をはずすと、クリーム色の地肌が濃紺に近い色へ向かって滲むぼかしが出てくる。「真実」はいつだって表層の奥に隠されていて、目を凝らさなければ見えない、そうクッツェーはいう。見る側の心理や、心の位置が「見えるかどうか」を、ある意味、決定づける。そのぼんやり感がちょっとだけ出ている装幀になった気がする。
この本は話が始まってからあれこれまわり道をして、結局これ、となって実現するまでに3年近くかかった。とても多くの方々の助力によって実現した企画だったけれど、なんといっても、編集者Sさんの力なしには実現しなかった。みなさん、本当にありがとうございました。
感無量!
書籍内容の説明もより丁寧なものにバージョンアップ。アマゾンなどネット書店のサイトにもカバー写真が出ました。
さあ、これで2冊同時発売の準備はほぼすべて整いました。2冊ならべて見ると、感無量です。15歳の少年ジョンが撮影したセルフ・ポートレートと、2014年にアデレードでわたしが撮影してきたクッツェーの写真をもとに、画家に描いてもらったクッツェーのポートレート。2枚の写真のあいだに約60年の時間が横たわっています。
「真実があらわになる瞬間に立ち会うこと、それに興味があったんだと思う。半分は発見されるが、もう半分は創造される瞬間に」 ──J・M・クッツェー
作家になる前、ジョン・クッツェーが写真家を目指していたことが、J・M・クッツェーという作家の創作方法の原型になっていた。それがこの2冊を同時に出すことで明示できたと思います。
クッツェーの作品を偶然、手にした1980年代の終わりから、ここまできた道のりを考えています。長かった、濃密な時間について考えています。
まだ本そのものを手にしていないのですが、でも、とにかく、本になる、本が出る、まとまった形で読んでもらえる。それが嬉しい。そして、ちょっとドキドキ──そんな感じです。
表紙に使われているポートレートは、2014年11月にアデレードを訪れたとき撮影した写真をもとに、画家のロドニー・ムーア氏に描いてもらいました。
散歩に出ると、今季二度目の金木犀の香りが、風にのってほんのり漂っていて…。
書肆侃侃房から10月末の発売です。
帯が、もう、とっても豪華。ざっくざっく、なんです。書いてくださったのは、なんと岸本佐知子さん!
版元サイトに書影と、帯のコピーなどが一気に出ました。よかったら、ぜひ訪ねてみてください。
『山羊と水葬』(書肆侃侃房) です。
日本語で書かれた単著としては初めて(と思われる)クッツェー論、というか、クッツェーをめぐるエッセイ集が出ます。書籍情報がネット上に載ったので、あらためてアップします。
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以前、この夏は訳書2冊、自著2冊を抱えて、と書いた。次々とやってきては返送されていくゲラたち。他に、訳書が1冊、自著が1冊。
2014年に発見されて2017年に一部だけ公開され、2020年に書籍化されたクッツェーの『少年時代の写真』については、これまでに何度か触れてきたけれど、いよいよ日本語訳が出る。
それといっしょに、クッツェーを翻訳してきたプロセスを振り返って、まとめたエッセイ集も出る。一人の書き手による一冊まるごと「クッツェー論」は多分これが初めてだと思う。この2冊は白水社から10月に同時刊行される。
エッセイ集『J・M・クッツェーと真実』には、1988年にクッツェー作品と出会ったころから現在までの、クッツェー翻訳をめぐるすべてを書いた。そういうと大袈裟だけれど、ほとんどそんな気分で書きあげた。個々の作品について論じる文章もあるし、南アフリカの厄介な英語、南ア社会内の「人種」をめぐるごく平易な語の奥に隠れた意味合いなどトリビアっぽいもの、ケープタウン旅行やアデレードの作家宅を訪れたときの話、クッツェー来日時のエピソードなどを織り交ぜてまとめた。それでも、ああ、あれも書いてなかった、これも書けばよかった、と今になって思ったりもするのだが。
それにしても、なぜかくも長きにわたりクッツェーを訳してきたのか、問いはふつふつと湧いてくる。それをエピローグとして最後に置いた。何度か書きなおしていると、あるとき、指先からことばが溢れるように出てきて、一気に膨らみ、止まらなくなった。それは著者自身の家族の物語だった。
『少年時代』を訳したとき作品内から聞こえてきた声によって、自分自身が幼いころや若いころの記憶と向き合わなきゃ、向き合いたい、そう思ったことに改めて気づいたのだ。ハッとなった。そこで思い切って自分の記憶を切開した。それが圧縮されてエピローグになった。
最初にあげたメモワール『山羊と水葬』には、言ってみれば、その圧縮部分からぷつぷつと空に向かって膨らんだ吹き出しのように、40あまりの話が連なっている。折々に書いてきたコラム、個々のシーンの素描、日常の記憶の断片などが集められている。だから、これは姉妹編のようなものだ。この『山羊と水葬』もまた、クッツェー本2冊とほぼ同時に刊行されることになるだろう。
ゲラを手にすると、目にすると、ああ、本当に本になるのだなあとしみじみ思う。この嬉しさは他に比べるものがない。この秋は、文字通り、蔵出しの秋となりそう。
アディーチェの『パープル・ハイビスカス』もまた、現在、蔵のなかで熟成中です。
*カメラがPCと接続不能になって写真をアップできないため、大好きなクレーの絵を添える。
またずいぶん間があいてしまった。
信じ難いほど非合理的なイベントが始まった。医療現場は急激に逼迫している。東京だけではないが、人とイベントが集中している東京はもう煉獄のような状態になってきた。
家にTVはないけれど、仕事のためにPCを立ちあげると目に飛び込んできたのは、オリンピック関連のロクでもない記事ばかりだった。誰が辞任、誰が解任。その理由が次から次へと、なあんにも学んでないんだなあ、という感じで。それが先々週。そして先週からコロナ感染者数が急増している。死者数は比較的少ないが、病院に入院すべき症状の人が自宅待機を強いられているというニュースは、本当に辛い。なんのための……どうしてこんな状況でオリンピックか!と誰もが思っている。絶対に楽しめない。楽しむとしたら、個人ではどうしようもない現状に目をつぶるため、忘れるため、意見を棚上げにして、だったりする。
自分=個人を手放して、ナショナリズムの臭気ふんぷんとする何やらに身を寄せて、一時凌ぎをやる心理が手にとるようにわかるけれど、これで個々人としてつながっていた関係が分断されているのだ。間違いなく。
暑い季節にあっちでも、こっちでも、ゲラと奮闘する人たちがいることを、ここにお知らせいたします──って「宣言」したい気分になる。わたしもまた、何かの反動で動いているのかな?
カメラが壊れてPCに接続できなくなった。写真をアップできないので、6年前に連日アップしていたパウル・クレーの絵をアップしよう。
雨の音で目が覚めた。雨の音に消されて他の物音はほとんど聞こえない。風はない。ひたすらに降る雨にすっぽり包まれているような朝、カーテンを開ける。
今季初めての開花 |
7月になったとたんに気温はさがり、昨日も今日もひんやりと肌寒い。
カナダのソルトスプリングに住む友人から、BC一帯が何日も摂氏40度をこす暑さだったけど、ようやく落ち着いた、というメールがくる。そっち(東京)はどう? クレージーなオリンピック、反対する人たちはデモとかやってないの?
やってるけど、やめた方がいいという人も大勢いるけど、それでも最初のシナリオ通りに強行する、ほとんど一億総玉砕オリンピック──と書きたくなる。参加選手だって安全とはいいがたい。
日本の外に住む人たちには、完全に狂ってる「クレージー」な様子と映るらしい。そりゃそうだろな。そもそものはじまりは「福島復興のため」という名目だったオリンピック。そのためについた嘘「福島原発はアンダーコントロール」から始まって、数々の嘘と詭弁と利益に群がる人たちが招いたのがこのカタストロフ! そこへ襲ってきたのがコロナ・ウィルスというわけだ。
今年はじめて咲いた朝顔の花の話を書こうと思ったのに、昨日とどいた友人からのメールへの返信みたいな、狂気のコロナオリンピックの話になってしまう。世界からじっと見られているこの国の非論理と非道なものごとの決め方。議論さえ成立しえない「貧しさ」。どれだけことばを壊し、人心の荒廃をもたらすつもりか。選手団、くるのかな? こないチームがこれから増えるんじゃないの?
それにしても、これからしばらく、このブログ、写真が朝顔だらけになっていく予感が…まいっか。
ブログからずいぶん遠ざかっていたけれど、復帰します。
「東京コロナオリンピック 2021」とも言えそうな凄まじいイベントがこの国で進行していますが、感染症の専門家たちが何をいっても正面から問題と向き合おうとせず、適切な対策を講じないまま、シナリオありきの物事の進め方に、誰もが不満、不安、そしていまや生命を脅かされそうな恐怖さえ感じるようになって、本当にどうなるのかと思います。
短いメッセージに「いいね」や「ツイート」などで反応し、「シェア」することで元の情報に依存したまま自分のことばで書くことをどこかではしょっていないだろうか、と思い至ったのです。まあ、ちょっと忙しかったこともあるのですが。
現在、翻訳書が2冊、自著が2冊、同時進行で動いています。翻訳は以前も書きましたが、J・M・クッツェーの『少年時代の写真』と、チママンダ・ンゴズィ・アディーチェの初作『パープル・ハイビスカス』。自著はもう少ししてから具体的にお披露目しますが、1冊はコアなエッセイ集、もう1冊はどちらかというと柔らかい文章で書いたメモワールです。昨年は「仕込みの年」、今年は「蔵出しの年」となりそうです。 今年もベランダの植木鉢とプランターに朝顔のタネを蒔きました。早々と発芽して、梅雨空をものともせずにベランダの天井を目指して蔓を伸ばしています。毎朝、目が覚めるとまず朝顔たちのことを思います。昨日立てたポールに蔓は巻きついたかな? どこまで伸びたかな? 最初の花はいつかな?今年もまた朝顔と、そして、4冊の本といっしょに夏を越します。
*写真は昨年の朝顔*
素晴らしい本です。絵本だけれど、絵本だから、ここまで細かく細かく描けるのか、そして想像力による読解を読者に委ねることができるのか、とため息をつきたくなるほどすごい本でした。
ショーン・タンが24歳のときに描いた絵は、とんがっていて、鮮やかで。ジョン・マーズデンのことばは、「コロンブスが新大陸に到達した500年」を記念する1992年にバリー・ロペスが書いた本を思い出させます。
1990年代に出た本だけあって、あのころのオーストラリア政府の先住民に対する姿勢も考えることができます。とにかく、謝ったのですよ、それまでの白豪主義でヨーロッパ白人を優先させてきた人種主義を捨てて、政府がこれまでの政策について、先住民に対して謝罪した。歴史的に見て、それはもう間違いなく、画期的なことでした。
先日、駅前のスーパーで買い物をしていたときだ。不意に耳に飛び込んできた。「ショート、ショート、……」なんだったっけ、この曲? 日本語で歌われてるみたいだけど、これ、原曲は英語だったな。60年代なのは間違いない。でも、思い出せない。気になってしかたがない。
気になると、はっきりするまで徹底的に調べるのが癖なのだ。でも「ショート、ショート、……」だけでは手がかり不足で、数日がすぎた。
少女期からのメモワール原稿をしあげていると1964年ころのことが出てきた。中学2、3年だった。北海道の田舎町で、古いラジオのダイヤルを東京の局に必死で合わせながら「ハローポップス」なんかを聴いていた。その年のヒット曲チャートをにぎわした曲を、記憶を頼りに手あたりしだいにGoogle やYouTube で調べた。圧倒的に1964年のものが多かった。出てきた!「恋はスバヤクShort on Love」ガス・バッカスGus Backus。これだ!発売は1963年だけど、あのころ洋楽が日本に入ってくるには時差があって、1年遅れなんてのはザラだった。でもスーパーで耳にしたのは日本語で歌っていた(ような気がした)のだけれど、誰?
まあいいか、とそこまでは深追いせずに、あのころのブリティッシュ・ポップスを調べているうちに出てくる、出てくる、当時はラジオと限られた写真しかなかったから、情報を次から次へ渡りあるいているうちにたっぷり夜は更けていった。
ダントツ大好きビートルズは言わずもがな、デイヴ・クラーク・ファイブ、ゾンビーズ、ピーターとゴードン、サーチャーズ、ほとんどがブリティッシュのポップスだ。まあ、ロックといってもいい、4人組、5人組の男の子グループ。「グループ・サウンズ」の走りだ。ガス・バッカスはアメリカンだけどドイツで活躍した。アメリカンのヒットソングを次々とYouTube を見てると、ブリティッシュとは体の動きが決定的に違うのがわかる。面白い。なんか変にくだけてるのだ。ビートルズが流行らせた(とわたしは勝手に思っているのだけれど)襟なしスーツの、一応カチッとしてるブリティッシュとは決定的に違う。
先日これもまたひょんなことからサーチャーズの「Love Portion No.9」という曲の歌詞を調べた。シングル盤やEP盤を買ったビートルズの曲は曲がりなりにも歌詞がついていたけど、耳から入るばかりの曲は、意味はほとんどわからない。日本語が「恋の特効薬」だったかな。
英語の意味がサイコーにおかしいのだ。媚薬をゴクリと飲んだら目に入るものに手あたり次第にキスをすることになって、お巡りさんまで……という。。。そんなこと全然知らずに聞いていた中2、中3の少女だったなあ。笑うしかない。
それでも母親は自転車に乗れるようになり、おぼつかない、ふらつく乗り方ながら、懸命に重たいクランクを回転させる。
母親がヴスターまで遠出するのは、午前中、彼が学校へ行っているときだ。一度だけ母親が自転車に乗っている姿をちらりと見かける。白いブラウスに黒っぽいスカート。ポプラ通りを家に向かってやってくる。髪を風になびかせて。母親は若く見える、少女のようだ、若くて生き生きとして謎めいている。
この描写は、もちろん、当時の少年の心理を57歳の作家が鋭く分析しながら書いたものだ。
少年は、周囲の環境のなかで孤立すると、どうして自分はみんなと違うんだろ、どうして自分の家族が「ふつう」じゃないんだろ、と悩む。でも、自分の母親がみんなとは違うことがちょっぴり自慢でもある。他の家族と違って母親が家で主導権を握っていることにも、変だと思いながら、ありがたいと思う。でも。
そしてある日、なんの説明もないまま、母親は自転車に乗るのをやめる。それから間もなく自転車は姿を消す。だれもなにもいわないが、彼には身のほどを思い知らされた母親が諦めたことがわかる、そして自分にその責任の一端があることもわかる。いつかきっとこの埋め合わせをしよう、と彼は心に誓う。
16歳の少年ジョンはカルティエ=ブレッソンに憧れて、将来は写真家になろうと考えていた。カレッジ時代のことだ。そのころ撮ったフィルムや機材などが出てきて、Photographs from Boyhood として2020年に出版された。そこにはアーティストとしてのクッツェーの出発点となる方法論が明確に出ている。(日本語訳も2021年の秋に出る。)
翻訳作業にあわせて自伝的フィクション『少年時代』を再読した。そして面白いことに気づいた。これは個性の強い、しっかり者の母を持ち、その母から深く愛されて育った少年の自伝的物語として読めることだ。つまり、フェミニズム的な視点から読みなおすことができるのだ。
アパルトヘイト制度が確立されていく1940年代後半の南アフリカで少年時代を送ったジョン・クッツェーは、母親をどんな風に見ていたか。白人女性である彼の母親は社会的にどのような位置にあったのか。母親と少年の関係を軸にしてこの作品を読み直すとどんなことがわかるか。
学校の成績は抜群だが周囲から浮いてしまう男の子を母親がどう守って育てたか。その母親はどんな人物だったか。これは母と男の子の関係を考えるための宝庫のような作品だった。
のっけから母親が家に閉じ込められることを嫌って、自転車を買ってくる場面がある。第一章だ。
母親は、馬は買わない。その代わり予告なく自転車を買う。女性用の中古で、黒く塗ってある。やけに大きく重たいので、彼が庭で試してみても、ペダルをまわすことができない。
母親は自転車の乗り方を知らない。たぶん馬の乗り方も知らないかもしれない。自転車を買ったのは、自転車なら簡単に乗れると思ったのだろう。そこで母親は乗り方を教えてくれる人がいないと気づく。
父親は、それみたことかと笑いを隠さない。女は自転車になんか乗らないもんだという。それでも母親は負けない。わたしはこの家の囚人になんかならないわよ、わたしは自由になるの、といって。
家に閉じ込められずに自由に生きたい、と移動の手段に、母は自転車を手に入れた。
ブログを長いあいだ書かなかった。3月は今日が初めてだ。いろんなことがどんどん起きているけれど、ほとんど冬眠状態のような暮らしだった。完全引きこもり状態で冬を越した。引きこもっているうちに、翻訳を1本しあげた。この本です! 秋に書店に並びます。
J. M. Coetzee: Photographs from Boyhood
そして、春になった。まちがいなく春になった。梅が咲いて、風が吹いていたけど、桃が咲いて、杏が咲いて、ユキヤナギの白いはなびらが風に散って、ついに桜の咲く季節になった。今年も、コロナ禍は続く。去年のいまごろに比べたら「どうしよう感」は少なくなった。このウィルスがどういう性質を持つのか、どういう経路で感染するのか、感染を防ぐにはどうすればいいのか、対処法も伝わり、少しは身について、日々の暮らしのなかで、緊張感はやや薄らいだ。でも、感染者は増えている。死者も着実に増えている。身体の弱い人、基礎疾患をもつ人や高齢者の割合が、当然のことながら高い。ウィルスは人を選ばないから、感染したらたたかえる力の少ない者は自衛するしかない。危険をできるだけ避けて、家に引きこもりがちになる。淋しいし、辛いけど、もしも感染したら……と思う緊張感のほうがまだまだ強い。重い病気になったり、大きな怪我をしたら、病院へ行っても……と不安になる。だから、それについて考えずにいられるような空間に引きこもる。
もう一冊、しあげたのだけれど、それについてはまた別に報告したい。今日はひたすら脱力。吹く風の音に耳を澄ましている。
母が逝ってもうすぐ7年になる。
チママンダ・ンゴズィ・アディーチェの『男も女もみんなフェミニストでなきゃ』(河出書房新社)が出たのは2017年の4月だった。あれからもうすぐ4年。
まだ4年とみるか、もう4年とみるか、人それぞれでずいぶん違うかもしれないけど、4年前にこの翻訳書を出すとき自分が考えていたことと、いま感じていることの差に呆然とする。4年前の3月末、見本ができてきて、これは家族みんなにプレゼントしなきゃ、と思って息子、娘、夫の妹、などに手渡したことを覚えている。ちょっとドキドキしながら。そう、「フェミニスト」という語を見て、みんなどんな反応をするかな、とドキドキしながらだったのだ。でも、あれから4年がすぎてみると、フェミニストという語はとりわけドキドキするような語ではなくなった。どこにでも出てくる。別に特別なことばじゃなくなった。すごい変化があったということだ、この4年間に。
本が出た年の5月末、B&Bで作家の星野智幸さんと「"フェミニスト"が生まれ変わる」というイベントをした。このときもまだドキドキは続いていた。なぜ We Should を「私たちは〜」と訳さずに、あえて「男も女も〜」と訳すことにしたか、そのときも話題になった。あのころは、「私たち」とすると、そこに男性読者が自分も含まれていると当たり前のように、すっと感じるだろうか? その疑問が、当時は避けて通れない「重たい」課題だったからだ。自分には関係ない、と素通りする男性が圧倒的に多いだろう、と訳者も編集者も考えた。それは絶対に避けたい、そう思った。
次々とセクハラ事件の被害者が声を上げたのはこの年だった。夏になって、神田でイベントが開かれたときの熱気もすごかったけれど、じわじわじわっ〜と広がっていった「フェミニズム」という語へのポジティヴな動きは、翌年12月にチョ・ナムジュ『1983年生まれ、キム・ジヨン』(斎藤真理子訳・筑摩書房)が出て決定的なものになった。一気に火がついた。それまでにもいろんな本が出ていて、勢いは野火のように広がっていった。2019年春にはフラワーデモが始まった。
どれだけ、これまで、みんな、ガマンしてきたんだろう。どれだけ、これまで、みんな、思っていても言えなかったんだろう。どれだけ、これまで、みんな、ことばを奪われてきたことに気づかずに生きてきたんだろう。気づいてことばを発しても、無視され、変人扱いされ、後ろ指さされてきたんだ。。。
さまざまな思いが駆けめぐる。そしていま、バックラッシュと言われようが、なんと言われようが、これはもうそんな一過性のものじゃないんだと、多くの人たちが思っている。大きく何かが変わった。風穴があいて、シフトが変わった。認識を改める時期にきたのだ。風向きだけじゃない。大地に亀裂が走って、川がザンブリと波打って、この流れはもう止まらない、止められないところへやってきたのだ。マグマのように意識の下で燃えるもの。
ようやく。
この4年間にいろんな本が出た。韓国の文学が多いけれど、それだけじゃない。説教したがる男たちの「マンスプレイニング」を白日の元に晒した名著とか、男性が自分の「男らしさ」を検証する本も出るようになった。まだまだこれから、だけど。
2017年5月のイベント@B&Bは「すばる」に掲載されて、「ハッピーなフェミニスト」としてウェブで読むことができる。We shoudを「私たち……」と訳しても、男性読者がそれは自分のことでもあると思う日がくるといいなあ、と思ってから4年。いまなら「私たち」と訳してもいいだろうか、いいような気が「ちょっとだけ」している。
この4年間の変化は大きい。ジェンダー指数が低い日本社会にも、ようやく春がくるだろうか。。。もう引き返すことはできない。後ろはないのだ。崖っぷちまで全員が来てしまったのだ。そう、「私たち」「男も女も」「女でなくても男でなくても」みんなが。
昨日、『男も女もみんなフェミニストでなきゃ』の何度目かの重版見本が届いた。
チママンダ・ンゴズィ・アディーチェの短編集『なにかが首のまわりに』のなかの同名の短編作品について書いてください、と編集部から依頼があったのですが、これは、いくつかのアンソロジーに入っている短編で、すでにいろいろ話をしたり書いたりしてきた作品です。
最初に日本語訳になった2007年の時点では、まだ「アメリカにいる、きみ You in America」というタイトルだったのが、2009年に英語版の短編集が出たとき The Thing Around Your Neck となって、そのまま文庫化された短編集(2019)のタイトル──なにかが首のまわりに──になりました。
今回は、最初のバージョン(2001)と最終的なバージョン(2009)の大きな違いについて書きました。そう、最後のところです。そこが決定的に変わったのです。付き合ってきた裕福な白人の男の子に対して、ラゴスに帰る主人公が空港で、見送りにきたその男の子と別れる場面。
──アメリカで「裕福でリベラルな」両親に育てられた若者の屈折した性格、その両親に対して彼が抱く不満(これは「きみ」には理解できない)などには変化がなく、書き換えられたのは、良かれと思って一方的に「きみ」にプレゼントを買ってくる若者への「きみ」の感情と態度で、そこに決定的な変化が書き込まれている。なぜいつも自分が「もらってばかり」になってしまうのか、という理不尽さが行間からにじみ出てくるのだ。
「きみ」はわずかな賃金からピン札を選んで故郷ラゴスの母親に送金する。でも手紙は書かない。書きたいことはたくさんあるのに書けないのだ。ようやく書いた手紙に、母親からすぐに返事が来る。そこには父親が死んだとあった。恋人ができてアメリカ社会の仕組みを発見しながらすぎていく暮らしのなかで、父親が死んだことも知らずにいた、と「きみ」は泣き、自分を責める。故郷へ帰るとき、飛行場まで送ってくれた彼を「きみ」はしっかりと抱きしめる。ところがそのシーンが大きく書き換えられて……
具体的にどう変わったのか、この続きは『英語教育 3月号』で、ぜひ!
2月13日発売です。
ジョン・マクスウェル・クッツェーの今日は81回目の誕生日です。おめでとうございます!
昨年マカンダで開かれた作家の誕生日とアマズウィの開館記念を兼ねたイベントの写真を何枚かシェアして、81歳のお祝いをしよう。
今年は、東京新聞の火曜日夕刊に隔週で載る「海外文学の森へ」の案内人の一人をつとめます。トップバッターを仰せつかり、第一回にハン・ガン著/斎藤真理子訳『回復する人間』(白水社刊)について書きました。1月12日の夕刊です。
チママンダ・ンゴズィ・アディーチェがラゴスで思いっきり饒舌に喋っている動画です。
なんと、「チママンダ」という名前は『パープル・ハイビスカス』が出版される直前に、ロンドンのお兄さんの家に泊まっているとき、思いついた名前だった!
両親が彼女につけた名前は、ンゴズィ・グレイス・アディーチェ。セカンドネームのグレイスはお母さんの名前でもあった。カトリックでは十代になってから受ける堅信式で自分の洗礼名を変えられるようで、アディーチェはそのとき「アマンダ」という名前を選びます。中等学校からはずっと、アマンダ・アディーチェと名乗っていた。ところがアメリカの大学に留学すると、同じ大学生のなかに何人も「アマンダ」がいた。6人だったかな? それで作家としてデビューするとき、もっと自分らしい、イボ文化に根ざした感じの名前にしたい、と思って考えついたのが「チママンダ」だった。「ンゴズィ」を残したのは、平凡な名前だけれど、その名前でずっと過ごした幼いころも大切だと思ったから、と。