2019/09/23

札幌北1条教会とヴスターのオランダ改革派教会

3日間の札幌への旅を終えて帰京したら、また台風の余波で、なんという湿気。札幌は気温が20度前後、湿度が50%を切るという快適な季節。ああ、こういう気候のなかでわたしは自己形成したのだと再確認する旅になった。その事実は動かしがたい。東京で感じる気管支の苦しさも否定しがたく目の前にある。

現在の札幌北1条教会
1919年生まれの母が15歳か16歳のときに洗礼を受けたという札幌北1条教会の写真を撮ってきた。洗礼を受けたのは、彼女が北海道大学医学部付属看護学校に入学したころだ。もちろん教会の建物は建て替えられただろうが、とんがった部分を見ながら、植民地に教会を建てる人たちのあこがれは、やっぱり「天」だったんだと思う(いや尖塔をもつ教会は世界中にあるけど……)。

「天にまします我らの神よ、願わくば……」で始まる主の祈りを、何度も聞かされながら、10歳まで通った滝川の教会には十字架はあってもトンガリはなかったような……。そこでふと浮かんできたのは、南アフリカのヴスターで撮った写真だ。

 内陸の町ヴスターのオランダ改革派教会の写真と、札幌北1条教会の写真をならべてみる。光と影の具合が不思議と似ているのだ。空気が乾いているせいか、とにかく空が青い。そして空に向かう建物が白い。ふむ。どちらも、からっとした空気のせいで光がとても美しい。

少年ジョンが8-10歳を過ごしたヴスターの教会
建築様式も違うし、建った時代も違うけれど、「決して人が住んでいなかったわけではない土地」を「無主の地」とみなして、先住の人たちを征服、支配するという、世界の植民地化を下支えした思想のひとつだった「キリスト教」に思いをはせる。

 イギリスからアメリカ経由で北海道へ入っていったプロテスタントのイギリス国教会長老派。やけに先鋭化して純化されたアメリカ開拓精神に「精神一到何事かならざらん」的な武士道がミックスされて、「北の大地」で勢いをつけたキリスト教の会派。

北1条教会の近くで摘んだオンコの実

 Boys, be ambitious. 
 少年たちよ野心的であれ。

(「少年よ、大志を抱け」は当時、近代国家形成をひた走る日本が「開拓」精神との合体を狙った意図的誤訳ですね。そう語ったと言われるクラーク博士は農学ではなく化学が専門で、札幌に滞在したのはわずか1年足らずだったそうだ。その彼の滞在が北海道帝国大学の存在基盤に大きな影響を残した。戦前は理系しかなかったというのも、いかにも、である。)
 
北1条教会の庭には母の好きだったダリアが
プロテスタント思想に染まった母は、というか、むしろ母は浄土真宗の寺が多い開拓村や一攫千金をめざす流れ者が集まる炭鉱の、すさまじい男尊女卑社会で売り買いされるモノに近い存在だった「女」であることを拒否して、「人間として」生き延びるための思想をキリスト教思想の最良の部分から吸収していったのだ。しかし、1930年代後半の日本の医学、医療の現場にいたため、当然ながら、優生学的なものの見方を批判する力はなかったし、宗教においてもまた宗派性から無縁ではなかった。

 カトリックは免罪符なんてのをこしらえて金儲けをした堕落したキリスト教だと教えられたらしく、娘のわたしも母からそう教えられた。イエズス会など権力への野心を積極的に具現化して植民地征服に強烈な力を発揮したカトリックは、しかし、思想的には妙に、とんがってない世俗を抱き込むふところの深さがあったと見ることも可能だ。人間の愚かさをも抱き込むように、ガス抜き手法として「告解」という制度を作ったカトリック……なんて考えられるようになったのはずいぶん後だったけれど。

11月刊のオランダ語版『イエスの死』
ヴスターのオランダ改革派教会の建物は広場に面して屹立する尖塔をいただいていた。少年ジョンの家族は教会には行かない人たちだったとはいえ、J・M・クッツェーはカルヴァン派の支配する政教一致の当時の南アフリカで教育を受けて育った。全人口の13%にすぎない白人が、神から選ばれた者として、有色の「人種」より優れていることを1994年まで是とした社会のなかで、長いあいだ暮らしたのだ。
 だから、作家生活の締めに彼が選んだテーマが「イエス」であることはとても興味深い。ユダヤ・キリスト教文化の選民思想の染み付いた教育環境、生育環境で自己形成したことを自省的に検証しながら作品を書いているのだろう。
 クッツェーにとって宗教、思想、哲学、文学、教育のすべてが、このイエスの三部作に凝縮しているのはまちがいない。その事実は否定しがたく目の前にある。

2019/09/16

トニ・モリスン『他者の起源』より

今年8月5日に88歳で他界したアフリカン・アメリカンの作家、トニ・モリスンが2016年にハーヴァード大学で6回にわたって行った講義の記録、『The Origin of Others/他者の起源』(2017)を読んでいる。

 キーワードは「Other/他者」、「Stranger/よそ者」、「Foreigner/異邦人」、「Outsider/アウトサイダー」といったいくつかの語で示されているが、なかでも「アフリカ」や「ブラック」「ニガー」という語が抽象的な意味合いで文学作品にあらわれるとき、それは作者のどのような心理を照らし出しているかを分析するモリスンの舌鋒は鋭く、たいへん興味深い。興味深いだけではなく、『白さと想像力』(1992)からしばらくご無沙汰していたせいか、ここまで明確に言語化されるようになったかと、感慨深いものがある。

 昨日42歳になったナイジェリア出身の作家、チママンダ・ンゴズィ・アディーチェ(お誕生日おめでとう、チママンダ!)は『アメリカーナ』のなかで主人公イフェメルに、自分はアメリカに渡って「人種」を発見したといわせたが、そんな若手の作品を訳したあとで、モリスンの分析を読むと、モリスンが描いてきた作品の風景がまったく異なったものとして立ち上がってくるのだ。

 とりわけ『The Origin of Others/他者の起源』の最終章に、次のような文章が出てきたときは、書き写さずにいられなかった。記録として、ここに引用しておく。


 With one or two exceptions, literary Africa was an inexhaustible playground for tourists and foreigners. In the works of Joseph Conrad, Isak Dinesen, Saul Bellow, and Ernest Hemingway, whether imbued with or struggling against conventional Western views of a benighted Africa, their protagonists found the world’s second largest continent to be as empty ...... The Origin of Others by Toni Morrison (2017)

 ひとつふたつの例外はあっても、文学作品に出てくるアフリカは、旅人やよそ者にとって無尽蔵の活動の場だった。ジョゼフ・コンラッド、イサク・ディネセン、ソウル・ベロウ、アーネスト・ヘミングウェイの作品のなかで、未開のアフリカという型通りの西欧的視点に染まっていようが、それに抗い奮闘していようが、主人公たちは世界第二の巨大な大陸をからっぽと見なした......
                                          『他者の起源』、トニ・モリスン(2017)

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 読みながら、かれこれ11年も前にJMクッツェーの『鉄の時代』を訳していたとき、メモを取ったことを思い出した。アフリカ大陸に対する文学者たちの「からっぽ」という認識は、クッツェーが南アフリカの白人文学について書いたエッセイホワイト・ライティング/White Writingで、明確に論じられていたことでもあったのだ。1988年にイェール大学出版局から出た本だ。

 クッツェーは、1652年にアフリカ大陸南端の喜望峰にヨーロッパ人がはじめて植民地をつくってから、ヨーロッパ系植民者がどのような視点から文学を紡ぎだしてきたか、それを詩や、農場を舞台にした小説を具体的に論じながら解明した。そして、植民者たちがどのような人間的退廃をたどっていったかを明らかにしたのだ。

2019/09/10

ジョル大佐のサングラス── Waiting for the Barbarians

映画の「Barbarians」は「夷狄」でいいのかな?

映画 Waiting for the Barbarians
 ずいぶん前になるが、年末の2日間を費やしてJ・M・クッツェーの出世作 Waiting for the Barbarians(『夷狄を待ちながら』)を再読したことがある。最初に読んだのはキングペンギン版のペーパーバックで Life & Times of Michael K(『マイケル・K』)と2冊まとめて読んだときだったから、1980年代の後半だ。ほぼ20年ぶりの再読だった。
 作品は「帝国」と「夷狄/蛮族」という二項対立で語られることが多いが、それだけではない。あらためて通読していくつかの発見があった。主人公である初老の執政官の、男としての性的欲望の描かれ方のリアリティもそのひとつだ。この作品のほぼ20年後に出た Disgrace(『恥辱』)の初老の主人公の場合のそれと、重なったりずれていたり。そうか、70年代後半(作家は30代後半)に書かれた作品ではこうだったものが、90年代後半(作家は50代後半)ではああなるのか、と興味深く読んだ。もちろん舞台設定が一方は架空の帝国およびその植民地、他方はポストアパルトヘイトの南アフリカで、この違いは大きい。
 再読のきっかけは、わたしより5歳ほど年上の作家から「最後の章は要らないんじゃない?」という問いを受けたことだ。日本語で書いてきた男性の作家である。そのときは返すことばに詰まった。質問の内容を作品に照らして具体的に考え、反証するための情報が頭のなかになかったからだ。いくら好きで読んできた作家だとはいえ、20年前に読んだ作品の細部までは覚えていない。再読して気づいたのは、最終章は要らないどころか物語全体にくっきりとしたパースペクティヴをあたえるために不可欠ということだった。それが確認できたのは大きな収穫だ。なぜ「要らない」とその作家が考えるかもおよそ見当がついた。作品がクライマックスで終わるのを好むからだろう。
 
KingPenguin版
 物語の概要はこうだ。架空の帝国が支配権をもつ辺境の植民地で執政官を長年つとめる主人公(名前はない)のところへ、夷狄の襲来を懸念する帝国の第三局(ロシアの秘密警察を想起させる)からジョル大佐という人物が派遣される。そして夷狄狩りが始まる。ジョル大佐率いる部隊に連行されてきた夷狄の人たちは、人間以下の扱いを受け、尋問され、拷問を受ける。
 父親を殺され、自分も両足を潰され、視野も狂って、仲間に置き去りにされて、物乞いをするしか生き延びる手段のない夷狄の娘を執政官は街から拾ってくる。そして自分の本来の職務は法と正義を行なうことにあるはずだ──と、ジョルの行為や自分の立場をあがなうかのように、娘の足に油を塗り、撫でさすり、寝床をともにする。しかし性交に至ることがない。これまで女をつぎつぎと渡り歩いてきてなんの疑問も持たなかった執政官はそこで、自分の性的欲望について熟考することになる。

 旅籠屋の女たちに対してはなんの問題も生じない。女を「欲望することは彼女を掻き抱き彼女のなかに入ることを意味する、彼女の表面に穴を穿ち、その内部の静まりを掻き混ぜて恍惚の嵐を起こすこと、それから退き、終息し、欲望がふたたび結集するのを待つ。ところが、この女はまるで内部などないかのようで…」(p43)と男の性的欲望が詳らかに言語化される。これはそっくり、新しい土地(日本語では「処女地」などという差別的表現が使われてきたが)に対して帝国が抱く野望や欲望と重なるもので、ある種のアナロジーと読める。これはデビュー作『ダスクランズ』で描かれたあからさまな男の欲望のややソフィスティケイトされた形と読めるだろう。

 クッツェーはこの作品を書くためにモンゴル帝国の歴史を調べあげたといわれているが、確かに、季節の移り変わりと月の関係から、舞台は北半球を想定しているようだ。だが、主人公にも、褐色の肌の夷狄の女にも、名前があたえられることはなく、作中で名前があるのはわずかに3人。ジョル大佐、青い目のマンデル准尉(夷狄の娘をその仲間に返してきた主人公を逮捕して拷問する)、そして旅籠屋の料理女メイである。
 この料理女が不思議な存在なのだ。作品中で最初に登場したときは名前がない。その息子が獄舎に入れられた執政官に食事を運んでくる場面はあるが、その母親に名前があたえられるのは物語が終盤に入ってからだ。これは読んでいて奇妙な感じがする。それまで影のような、顔のなかった人物が突然、固有の名前と表情をもった人物となって、主人公の前にあらわれるのだから。

集英社文庫版
 このメイは、しかし、最終章できわめて大きな役割をはたす。主人公の語りを「聞く相手」──相対化の視点を運び込む役──として、さらに、主人公にはついに聞き取れなかった「夷狄の娘のことば」を聞き取ってきた者として、それを主人公に伝える存在として登場するからだ。唐突に名前をもった人物となる瞬間と、執政官の心理的変化があいまって、物語は一気に眺望が開けてくるのだ。

 物語の流れは、夷狄をめぐる嵐のような一年の出来事を追って描かれる。具体的にはジョルの到来、夷狄の捕獲、夷狄の娘を仲間に返還する旅、主人公の逮捕、さらなる夷狄狩り、拷問、ゲリラ戦で消耗した軍の破滅、大挙して逃げ出す住民たちのエグゾダス、残された少数の人びととの暮らし──といったプロセスをたどり、それまではおもに主人公の内面で生起することば(幻想/妄想も含む)によって展開されてきた物語に、この最終章で、その時間の経過を相対化する視点が入る。それによって主人公の経験と、その結果彼の内面に起きた変化が、ひとつのパースペクティヴのなかにくっきり浮かぶようになる。

 したがって、終章はエピローグとして機能し、物語はクライマックスで終わることなく、頂点を冷静に見つめる視点で終わる。そして視界は一気に見通しがよくなる。これはクッツェーのすべての作品に見られる、きわめて重要な特徴である。この章を読んでひとつのレッスンを修了し、クッツェー作品を読む醍醐味を味わうことができる流れなのだ。
 作品のタイトルWaiting for the Barbarians は、クッツェー自身が明かしているように、カヴァフィスの詩から採られている。コンタンティノス・P・カヴァフィスは1863年にエジプトのアレキサンドリアで裕福なギリシア人貿易商の家に生まれているが、一家の根拠地はコンスタンティノープルだった。それで思い出すのは、ランサム・センターに移されたクッツェーの草稿である。じつはクッツェーは第三作目をコンスタンティノープルを舞台にした世紀末的な暗いラブストーリーとして書きはじめた。しかし当時、南アフリカで起きたスティーブ・ビコの拷問死事件のためか、それを破棄してあらたに書かれたのがこの作品だった。その経緯はデイヴィッド・アトウェルの研究などで詳細が明らかになっている。

ジョンとジョナサン,アデレードで,2014
 作家自身のこの作品への言及は『ダブリング・ザ・ポイント』のインタビューにも見られ、当時の南アの監獄で起きていることに対する、病理学的応答として書いた作品だったと述べている。
 さらに2019年3月末に、オーストリア北部のハイデンライヒシュタインという町でクッツェーをフィーチャーした文学祭「霧のなかの文学」が開かれたとき、クッツェーは「この作品は現在とパラレルなのだ」と述べ、いわゆる野蛮に抗する側が野蛮になっていく、と現代の対テロ戦争を批判した。

 じつはこの作品の日本語タイトルは翻訳上の問題を抱えている。「barbariansをどう訳すかだ。英語のbarbarianの語源はギリシア語の「バルバロイ」、「わけのわからないことばをしゃべる者たち」という意味だが、手元にあるOED(オクスフォード英語辞典簡略版)を引いてみると「(古代に)(ギリシア・ローマ人やキリスト教徒を中心とした)偉大な都市文明に属さない人たち」とある。つまり「野蛮人」。日本語タイトルに使われた「夷狄」を辞書で引くと、古代中国で漢民族を中心にした「東の未開国を夷、北のそれを狄」と呼んだことが始まりとある。

 ここで、14年11月にアデレード大学で開かれた「トラヴァース・世界のなかのJ・M・クッツェー」の初日に、非常に興味深い問題提起がなされたことをお伝えしたい。基調講演でステージに立ったのはシカゴ大学の哲学教授ジョナサン・リアで、そこで扱われたのがこの Waiting for the Barbarians だった。
 ジョナサン・リアは、シカゴ大学社会思想委員会のメンバーだったクッツェーがノーベル賞受賞の知らせを受けたときいっしょにいた長年の友人で、彼はまずそのときのエピソードに触れて場内をなごませた。ノーベル財団がクッツェーに連絡を取ろうとしたが、本人はそのときケープタウン大学ではなく、シカゴ大学で教えていた。財団から連絡を受けたシカゴ大学の誰かがリア教授の電話番号を教えてしまったので、突如として彼の電話がひっきりなしに鳴りはじめた。前夜、リア夫妻はジョンとドロシーと4人でディナーをともにしたところだった──といったエピソードはシンポジウム参加者の大方が知っていたが、重要なのはそこではなくて作品をめぐる彼の問題提起である。
初期2作のシナリオ, 2014刊
 この作品は一般に、架空の土地を舞台にした、時代も不特定の小説として読まれることが多いが、それは違う、とリア教授はいうのだ。「注意深く読む」と、冒頭にちゃんと年代が書き込まれている、決め手は第三局からやってきたジョル大佐がかけていた眼鏡なのだと。この作品の書き出しを見てみよう。

I have never seen anything like it: two little discs of glass suspended in front of his eyes in loops of wire. Is he blind? I could understand it if he wanted to hide blind eyes.  But he is not blind. The discs are dark, they look opaque from the outside, but he can see through them.  He tells me they are a new invention.

「そんなものは見たことがなかった。彼の両眼のすぐ前で、2つの小さなガラスのディスクが、環にした針金のなかに浮いている。彼は目が見えないのか? 見えない目を隠したいというならわかる。だが彼は盲目ではない。ディスクは黒っぽく、はたから見れば不透明だが、彼からはそれを透してものが見える。新発明なんだそうだ。」

 これはもちろんサングラスのことだが、サングラスという語は使われていない。執政官はジョル大佐から「新発明」との説明を受ける、と書かれているところに注目すべきだとリアは語った。サングラスが発明されたのは20世紀に入ってからだ。だから、じつはこの物語にはしっかり時代が書き込まれている、つまり時代はわれわれの2代、3代ほど前にすぎないと。もうひとつ、この作品は「夢のよう dreamlike」と言われることが多いが、「夢 dreamではなくあくまで「夢のような dreamlike」であり、「夢のように」場所や時間が特定しにくいことが重要なのだと。なぜか?

 考えてみると、この作品が発表された1980年、南アフリカには厳しい検閲制度があり、検閲官がちくいちテクストを読み、発禁にするかどうかを決めていた。前作の『In the Heart of the Country/その国の奥で』が、通常なら一人の検閲官が審査するところを3人の検閲官によって詳細に検閲された事実が、今世紀になって明らかになっている。どのように書けば発禁にならずにすむか、作家自身も頭をひねりながら書いていた時代だ。検閲官が容易に判定できる語の明記を避け、架空の帝国と植民地、時代は特定できない作品と思わせながらじつは作者は、最初のページに時代をしっかり忍び込ませていたのだ。
 リア教授の基調講演を聴きながら、ある疑問がふつふつとわいてきた。日本語訳のタイトルで「夷狄」と訳したのは、はたして適切だったのか。「夷狄」とは19世紀までの中国で、漢民族を中心とした中央勢力から見た外部民族への蔑称である。したがって「夷狄」と銘打たれた小説を読む者は、否応なく19世紀以前の時代へと導かれ、物語の舞台として東アジアのある特定地域を思い浮かべる。つまり過去の物語を読んでいることになる。
 リアの指摘に沿って時代を考えるなら、それでいいのかという問いが浮かんでくる。クッツェー自身も「現代とパラレル」と発言している。古典の翻案ではなく、同時代を生きる作家の作品の翻訳である。Barbarians は不特定な「蛮族」と訳すべきだったのかもしれない。
 しかし邦訳の出た91年、あるいはノーベル賞受賞後に文庫化された03年、日本語読者は「夷狄」という聞き慣れない語に、耳をそばだて関心を持ったという事実もまた否定できない。すぐに東アジアと理解できる人たちにとっては聞き慣れた語だからだ。したがってこれはひどく悩ましい問題にならざるをえない。しかしノーベル文学賞受賞後は、3度の来日もあって、クッツェーの名前は一般にも知られるようになり、作品についても詳細に論じられるようになった。同時代をともに生きる作家の意図をあたうるかぎり伝えることが訳者、編者に求められる姿勢だとするなら、「夷狄」という訳語はこのままでいいのかといういう問いは残る。悩ましい。

 ちなみに、この作品はコロンビアの映画監督シーロ・ゲーラによって映画化され、2019年9月にヴェネチア映画祭で上映された。ロケ地はモロッコの砂漠、イタリア、チリで、執政官をマーク・ライアンス、ジョル大佐をジョニー・デップ、マンデル准尉をロバート・パティンソンが演じている。重要なのなシナリオをクッツェー自身が書いていることだ。日本公開も楽しみだが、ちょっと気がかりなのは日本語のタイトルだ。モロッコやチリを舞台にしてヨーロッパ系の俳優たちが演じる物語に「夷狄」は無理だろう。18年に出版された池澤夏樹訳『カヴァフィス全詩』(書肆山田刊)でも、この詩は「蛮族を待ちながら」と訳されている。映画はやっぱり「蛮族を待ちながら」がいいんじゃないかと思うのだが、どうだろう。

***
クッツェー自身がこの作品の冒頭部分を朗読している動画を最後に埋め込んでおく。

2019/09/09

台風15号の突風でローレルが倒れた

昨夜の風はすごかった。雨はたいしたことはなかったけれど、風が、とりわけ突風が、ものすごい勢いで吹きつける。ものが飛ぶ。ひっくりかえる音が騒がしい。

 夜半、空気に臭気がまじってきた。工場地帯の煙突からたちのぼる黄色い煙を思わせるような異臭だ。窓のすきまから室内に容赦なく侵入する。これがめっぽう苦しい。胸をかきむしりたくなるほど、痛がゆく、苦しい。「切羽のカナリア」の身は異変をいち早く察知して、窓とドアをきっちり閉めて、扇風機を弱風にしながら、空気清浄機のフィルターを新しくしてフルパワー運転にする。

 一夜あけて、陽の光が差し込む窓の外を見ると、なんと、愛するダフネが倒れている。昨夜の突風であおられたせいで、月桂樹が、斜めにおよそ45度の角度に身を傾けて、根っこを陽にさらしているのだ。あんなに背が伸びた樹木の根も、こんなに浅かったのかと驚く。


 秋に引っ越しをしたので、移植するなら春がいいという助言にしたがい、翌年の春を待って1メートルほどの若木を植えた。それがみごとに葉と枝を繁らせて、毎年4月中旬になるとかわいらしい小花を咲かせ、夏には直径1センチほどの硬くて丸い実をつけるようになっていたのだ。その木が、昨夜の嵐で倒れた。移植されてから15年と5カ月か、とまるで亡くした子の年齢を数える親のように、指を折る。
 
 寒波、熱波、山火事。グリーンランドの氷が溶けて、南アメリカのアマゾンでも大規模な山火事が起きて。熱波以外は、まだまだ遠くで起きていることのように思えたが、どうと倒れた樹木の根を目前にすると、なにやら迫ってくるものがある。

2019/09/06

動画:ソウルで講演するチママンダ・ンゴズィ・アディーチェ

8月末にソウルの梨花女子大学を訪れて講演をするチママンダ・ンゴズィ・アディーチェの動画がアップされました。

 アディーチェは8月17日に上海のブックフェアで基調講演を行って、その足で韓国を訪れました。先日のメールにその簡単な感想が書かれていましたが、8月20日の梨花女子大で行なわれた講演のようすを見ても想像できるように、ソウルでは大歓迎を受けています。ホールは満席、ステージの裾にあがって膝をかかえながら見入っている人もいます。(たぶん学生!)



 アディーチェは、ジェンダーをめぐるさまざまな問題点を具体的に述べながら、性暴力についてはっきりと語っています。なぜそれが「暴力」としてきちんと扱われないか、それは女性が男性とおなじ人間として対等に認められていないからだと分析しています。この不平等をことばにすることが、無意識に内面化されている問題点をあらわにする第一歩だと。法律を変えることは大切だけれど、マインドセット、つまりものの見方や考え方を変えることはもっと重要なんじゃないかと。
 そして、男性には性衝動を抑制できいない動物的、野性的なものがあるとするなら、そんな野性的な存在に社会を統御する政治的権力をもたせるわけにはいかないと。けだし名言です。

上海で、2019.8.17
さらに、歴史的な視点も入れながら突っ込んだ話もしています。たとえば韓国ではかつて女の子は10歳で結婚させられたけれど、いまはそうじゃない、これは文化が変わったからだ。「文化」は民族が存在し維持されていくことに必要だけれど、それは人が作ってきたものだから変えられるし、実際に変わってきたのだと。
 ちいさいときから男の子、女の子をジェンダーの慣習の枠内におさまるように育てることが、無意識に、いまの男尊女卑「文化」を保持することにつながる。男の子は泣いちゃいけない、強くなくちゃいけない、と刷り込まれて育つと、やさしさを見せることは自分が弱いことを認めることになりはしないかという恐れになっていくと。この話には『イジェアウェレへ』で指摘されていることも重なるけれど、さらに発展させる視点も含まれていて、とても興味深い。

ソウルで、2019.8.20
また、成功する女性は完璧でなければいけないというプレッシャーもおかしいと。法律違反をした女性の政治家が「女だから」という理由で男の政治家なら受けないバッシングを受けた例をあげ、あたりまえだけど、女性には善良な人も悪意にみちた人もいて、それは男性とおなじだと。成功する女性が男性以上に完璧に「善」でなければいけない、という考え方はちがうだろうと。

 アディーチェからきたメールには、日本にもまた行けたらいいな、みたいなことばがならんでいました。機は熟しているようです。どこかが正式に招待して、大きなホールで講演をし、それがTVに流れるという展開になってほしいものです! チママンダ・ンゴズィ・アディーチェの再来日が近いうちに実現しますように! 
 そんな祈りをこめて記録としてここに残すために、上海とソウルでの写真をtwitter から拝借します。悪しからず!