2015/10/30

『戯れ言の自由』── 平田俊子さんの新しい詩集

 今日、半透明の紙に包まれて、一冊の詩集が届いた。瀟洒な装丁の、平田俊子さんの『戯れ言の自由』(思潮社)という詩集だ。

 平田さんの詩のことばは、いま、こうして読んでみると、とても心が休まる。なぜだろう。読み手が頭をフル回転させたり、気持ちの持ち出しをしなくても、ことばが穏やかに、いっしょに歩いてくれる、そんなリズムがあるからだろうか。短い詩行が数ページ続いて終わる。ほどよい飛翔感を残して着地するひとつひとつの詩が、日々、目にする、すさんだ日本語の荒れ地のなかに、まっさらな飛び地のように、すなおに広がっている、そんな気がするからだろうか。一篇、書き出してみる。


  〈美しいホッチキスの針〉

   きょう届いた数枚の書類は
   ツユクサの花の色をした
   美しい針で綴じられていた
   灰色の地味な針しか知らない私に
   その色は新鮮だった
   曇天のように重たいこころを
   艶やかな針の色が
   少し明るくしてくれた

   ホッチキスの役目は紙を綴じること
   針の色にこだわる必要はないのに
   美しい色に染めた人がいて
   その針を選んだ人がいて
   そのうちの一本が
   旅をし 私のもとに届いた
   ツユクサを通して
   知らない人たちと
   手をつないだような気分だ

   人のこころを慰めるのは
   花ばかりではない
   油断すると指を傷つける
   小さく危険なものにさえ
   人は心を遊ばせる
   夕焼けの空 朝焼けの空
   空が青以外の色に染まったときも
   人は満たされ 立ち尽くす


 詩集の最初に置かれた詩だ。最後まで読んでこの詩に戻ってきたけれど、じつは、平田さんの詩の後ろには、ぴりりと辛い真実も潜んでいて、歳月の厳しい雨風、それを通り越した暴風雨にも耐えて、生き延びてきたような確かさもあるのだ。でも、風通しがじつにいい。観念語の多用でいつまでも現実に届かない、読む側の焦燥感をかきまわす、ことばの無駄がない。

半透明の紙に包まれて届いた
 最後から二つ目に置かれた「揺れるな」は懐かしい(とためらいながらも言ってしまおう)。2011年3月11日の大震災のあと、渋谷で開かれた「第一回 ことばのポトラック」で朗読された詩だ。わたしも参加させていただいたとき、何年ぶりかで平田さんと会ったのだった。そのとき平田さんが開口一番おっしゃったことばが、ずいぶん昔の記憶を呼び起こした。平田さんとは一度、あるトークの会でご一緒したことがあったのだ。そのときのことを、平田さんも、わたしの顔を見て思い出したらしい。
 シスネロスの『マンゴー通り、ときどきさよなら』から朗読したときのことだったから、1997年とか1998年ころだろうか。場所はたしか駒込だった。平田さんは駒込が出てくるご自分の詩を読まれたのだった。
 こんなふうに、わずかな点と点を結ぶような出会い方ではあるのだけれど、平田さんの詩を読むと心が休まるのは、多分、同時代を生きてきた人のことばがここにあると確認できるからかもしれない。それが嬉しい。しかも、それは時代を超える戯れ言たちでもあるのだ