2015/01/15

「笑い」について

「笑い」についてずっと考えていたことを、備忘録の代わりに書いておく。

中島らもという劇作家がいた。1952年に生れ、2004年に没した、いわばわたしの同世代である。ミュージシャンでもあったけれど、80年代から90年代にかけての一時期、彼の本をよく読んだ。とりわけ『今夜、すべてのバーで』が面白かったし、他の本に書かれた自伝的物語も面白かった。若いころギターをかっぱらった話とか、美大を出てから印刷所に務めたときの、ぶっちゃけた話なんかは絶妙な青春物語として、お腹をよじらせながら読んだ。
 関西生れの彼の破天荒な生きざまは、遠くからちらちらのぞき見るかぎり、ある種の美学に支えられているようにさえ思われた。朝日新聞に連載していた「明るい悩み相談室」も、彼の書く回は楽しみにしていた。そこにはナンセンスを含む、大いなるカタルシスがあったからだ。

 その中島らもに、2006年に出た『何がおかしい』という本がある。そのなかで彼は「笑い」を分析しながら、笑いには大きく分けて3つあると述べている。

 1)「あほ」系統
 2)精神障害者差別系統
 3)身体障害者差別系統

 いずれも「笑い」の根底には「差別的感情」があると中島は分析している。そして、このどれにも入らないものとして「ナンセンス系」をあげている。

 非常に具体的な例をあげて、それぞれ書いていく彼の「現場」は、こうして10年近く経ったいま読んでみると、出てくる事例が「なぜ可笑しいのか」一瞬考えてしまうときがあるのも面白い経験だった。つまり、「笑い」というのはその時代、その社会と非常に密着した関係があり、かつ、言語内あるいは集団内で共有されてきた積み上げの上に成立するものだということがわかるのだ。積み上げられてきた「共有部分」が時間とともに薄れていけば、あるいはそれを支持する集団性が弱まれば、そのコントそのものは伝わりにくいし、笑いを取れない、ということになっていく。だから「なぜ可笑しいのか」を理解するためには説明が必要となる。説明されると、それはちっとも可笑しくなくなってしまう。

 同一言語内でもそうなのだから、ましてや、異文化、異言語のあいだで「笑い」そのものを伝えようとするのは至難の業となる。翻訳不能の最たるものが「笑い」なのだろう。同一の価値観、同一の経済基盤などを共有する者が、そこからこぼれおちるものを排除し、差別することによって「笑い」は起きることを、中島らもははっきりと書いている。「笑い」を取ろうとする芸というのはそういうものなのだろう。

しかし、人はどの社会においても、どのような状況下でも、このカタルシスとしての笑いを必要とする。緊張感が高まるほどにこの傾向は強まることもまた事実なのだ。表現における異文化と差別の関係は「正義」だけでは語れない。ある人たちにとって笑いとなることが、また別の人たちにとっては侮蔑となる。そこがまことに厄介である。「笑い」もまた、一言語内、一社会内にあってさえグローバル化時代にさらされていく時代を迎えているのだ。まあ「帝国言語」にとっては、長い過去の歴史の、つまり植民地化活動およびその結果としての現在の政治/経済活動の、必然的結果として引き受けなければならないことでもあるのだけれど。

追記:中島らもの『何がおかしい』の帯にある、らものことばを付記しておく──「笑いが差別的構造を持つことと、笑うことが生きることであることとは、全く位相の違う問題だ。笑いはニンゲンに絶対に必要な存在だ。明記しておく」