2015/01/12

頭を冷やして考える──シャルリー・エブド

nikkei.com
2015/1/11 1:49
 【ナイロビ=共同】ナイジェリア北東部ボルノ州の州都マイドゥグリの市場で10日、10歳前後とみられる女児が自爆し、少なくとも19人が死亡した。フランス公共ラジオなどが伝えた。犯行声明は出ていないが、イスラム過激派ボコ・ハラムの関与が疑われている。この市場では昨年にも2回、女性による自爆テロがあった。
 市場の入り口で、金属探知機に反応した女児が身体検査を受けている際に爆発したという。目撃者は「女児は体に何を装着されているか知らなかったのではないか」と語った。
 ボコ・ハラムは今月初めにボルノ州バガとその周辺を集中攻撃するなど、北東部で支配圏を拡大。一方でマイドゥグリなど政府軍による警備が厳重な都市部では爆破テロを繰り返している。

昨日はシャルリー・エブド事件をめぐる日本の報道について、日本語社会の「わかりやすさ」を求めすぎる罠について、書いた。わたしはここ10年以上TVを観なくなった。その結果、映像や音声として一瞬のうちに切り取られる世界のニュースのヴァーチャルな現場に距離を置くことになった。


 この事件の後、パリで行われている追悼集会に「西側諸国」からそうそうたる政治家たちが集まり、60万とも70万ともいわれる群衆が集まっていると知って、あれ、どこかで見た・・・911後のアメリカ社会? と既視感に襲われ、またしても理不尽な戦争を西側諸国はイスラーム世界に仕掛けはしないだろうか? と思ったのは、ずいぶん時間がたってからだ。どうもずれているのだ。

 昨日のブログ書き込みをしたあと、ナイジェリア北東部で起きた上記の事件を知って、頭から冷水を浴びせられたような思いがした。それで、facebook や twitter に「シャルリーエブドがこれほど大々的なニュースとして伝えられるのに、この事件など、ちっとも大きく伝わらない。この非対称性。どれだけの人たちが絶望的なまでに苦々しく思っているか・・・。今夜は頭を冷やして考えてみよう」と書いた。

 冷水の種はほかにもあった。知人友人が今回の事件をたんなる「表現の自由」で論じるべきではないと主張していたのだ。シャルリー・エブドに描かれた漫画は、ほとんどヘイトスピーチに近いと言う人もいる。現在のフランスという国に、なぜ今回、自分たちの文化や信仰を貶める漫画を執拗に描きつづけた漫画家や編集者を「銃撃によって」攻撃するにいたるまでの、烈しい絶望感に追いやられた者たちがいたか、ということを抜きに、たんなる「表現の自由」云々で論じることはできないというのだ。彼らの絶望の深さに思いをはせなければ、今回のような事件は何度でも起きてくると。確かにそうだ。

 世界規模で考えるとき、マイドゥグリで起きた悲惨な事件が大きなニュースとして取り扱われない現実を考えあわせるとき、その非対称性が少しでも小さくならないなら、今回のような事件はまだまだ続くだろう。注目されるために「西側社会」の内部でそれは起きる。実行に誘われるのは社会内で不当にあつかわれてきたと感じる絶望した若者たちだ。その構造は火を見るよりも明らかだ。

ヴォルテールの論もまた再考されねばならないかもしれない。ナイジェリア系の作家テジュ・コールの記事を読んで、そう思った。彼は「ヴォルテールは反ユダヤ主義者だった」と述べている。ヴォルテールが生きた18世紀とそれに続く時代、彼の用いる「あなた」と「わたし」の二者に、もちろん「女性」は含まれないし、植民地をふやしていった18ー19世紀に、その植民地の人間、たとえばアフリカ人は含まれていなかったことはしっかり思い起こす必要がある。

 フランスが植民地化したアルジェリアの人びとも当然入らない。そこから長い時間が流れ、そして「いま」があることを考えなければならないのだ。上記の「あなた」と「わたし」に、彼らにとっての「他者」も含めよ、という内部からの不断の抵抗の声、要求によってかろうじて幅が広がってきたのが現在のフランスの「平等主義」(実質的な平等ではなく)なのだ。その歴史的パースペクティヴを抜きに「言論の自由」だけで論じると、あっけなく政治的な力の罠に絡めとられてしまうだろう。アルジェリア独立戦争は1954年から62年、命をおとしたアルジェリア人は14万人、フランス人は3万人、ほんの半世紀前のことなのだ。