2022/12/26

日本語の韻文と散文について:2012年「スタジオイワト」のイベントを再録

韻文と散文と、どちらが言語的に濃厚かつ一気に大勢の人間を動かすかといえば、それはもちろん韻文なのですが、世界的にみても各言語が古代から持ってきた神話はほぼ韻文でできている(書かれている、ではなく口承で伝えられてきた時代が圧倒的に長い)。南アフリカのズールー民族の長編叙事詩を最初に翻訳したときから、この問題はずっと考えてきたし、今も考えているのですが。

 日本語の散文はどうか? 韻文はどうか? 近代と日本語のことを考えるときに、10年ほど前のこのイベント体験は非常に役に立つ。再掲します。(2012.3.12)


**定型の強さ、恐さ──昨日、スタジオイワトで**

 詩人、藤井貞和の『東歌篇──異なる声 独吟千句』(定価500円 反抗社出版 カマル社制作)のリレー朗読/ピアノつき、に参加して思ったこと。それは、日本語が内包するリズム、五七五七七五七五七七・・・のすごさだった。いやあ、面白かった!  

20人あまりの人たちが参加して、一区切りずつリレーで読み、それに高橋悠治のピアノ即興演奏が絡むという趣向。作者である藤井貞和がまず最初の「少年」を読み、それを受けて参加者の1人が「祈念」を読み、そして次の「鎮魂」は前夜、急遽参加することになったという2人の琵琶師による詠唱となった。

  それまで、どちらかというと「ぼそぼそ」というふうに読まれていた詩が、ここへきてメロディーをもつ歌となり、詠となり、enhanced されたことばとなって琵琶の音とともにあたりに響いた。

  当初の説明では、わからない漢字が出てきたら作者である藤井貞和に質問し、相互やりとりを経ながら、ゆっくりと進行するはずだった。がしかし、細部はさておき、リズムにのって、どんどん先へ、先へと朗読は進んでいった。

  途中、あれ、その読みでいいのかな、ちがうよなあ、と内心思いながらも、その場の雰囲気に水をさすのもためらわれ、まあ細部はともかく、「鎮魂」ムードにのって粛々と、という雰囲気でいやます勢い、いやそれだけではなくて、次に読むのはだれかな? わたしか? なんて緊張も少しあって、少しの緊張も20余人分天井へ螺旋となってのぼっていくか、とか、いろいろ脳裏をよぎるなか、あっというまに最後の行へ到着してしまったのだ。

  この間、約1時間と15〜18分。

  当初はもっとたっぷり時間がかかるものと主催者は考えていたらしい。少なくとも2時間、いや3時間以上、だらだらやると・・・。しかし・・・。
  意識するとしないとにかかわらず、日本語に埋め込まれている定型のリズム、身体に刻み込まれているリズムは恐るべし、あなどれない、そのことをあらためて認識した一日であった。

  この『東歌篇──異なる声 独吟千句』は、文字で読んでいるときは、定型のなかにもひょんと肩の力を抜くユーモアが組み込まれている。だから、内心くすっと笑いながら読むことになるのだが、昨日、声になった詩ではその「ユーモア性」がどこかへすっ飛んでしまっていた。このことは参加者の一人がいっていたのか、いや詩人その人がいっていたのか。確かに。

  終演後、福島のお酒を飲みながらだらだらと話すなか、高橋悠治が述べていたことばが心に残っている。それは、切る箇所を変える、つまり、五と七、七と七、のあいだを切らず、またぐようにすればいい、ということだったと記憶している。そうか。

  北海道という開拓地の出身者であるわたしは、内地のヒョウジュンを学び、追いつき、合わせようとする教育のなかで育ったせいか(どうか?)、なんとか抗いたいと思いながらも、みんなに合わせっちまって・・・ああ、力の抜き方が足りなかったぜ、と自省するばかり。ハハハ。 (敬称略)

  最後に、企画の八巻美恵さん、ありがとう! 平野公子さん、福島のお酒、おいしかったです!

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 付記:朗読後の質疑応答のなかで、高橋悠治さんがした質問と指摘は記憶されるべし、であった。近世にあったさまざまな日本語のリズムが、近代化とともに「軍歌」と「詩吟」に収斂されていったという指摘である。(このまとめ、これでいいのかな?)

2022/12/14

「海外文学の森へ」──トニ・モリスン『タール・ベイビー』について

 復刊されたトニ・モリスンの『タール・ベイビー』(藤本和子訳、ハヤカワepi文庫)について書きました。2022.12.13付、東京新聞夕刊の「海外文学の森へ」です。
 このリレーコラムが始まったのが2021年の1月ですから、これでちょうど2年ほど。これがわたしにとって今年最後のコラムです。その全文を以下に。

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 流れるチョコレートを思わせる表紙の『タール・ベイビー』は、恋の物語である。舞台はカリブ海の小さな島だ。

 登場するのはフロリダ州の黒人だけの小さな町で育ったサン、目にサバンナをたたえた黒人の男と、大富豪の白人の庇護を受けソルボンヌで美術史の修士号を取ったジャディーン、「白い文化によって構築された黒い女」だ。二人はふいに出会い、惹かれ合い、恋に落ちる。でも考え方も感じ方も激しく異なり、相手を理解できずに傷つけ合う。


「タール・ベイビー」とはアメリカ黒人の間に伝えられ広く流布してきた物語の一つで、狐と兎のエピソードに出てくるという。狐は人形に黒いタールを塗って囮にし、兎を捕まえ食べようとする。兎が人形に声をかけて触れた瞬間タールがくっついて離れなくなる。狐は白人、兎は黒人をシンボライズしている。

 サンとジャディーンの違いは、そのままアフリカ系アメリカ人の共同体内部の葛藤を指している。サンはジャディーンをタール・ベイビー的存在から救出して、民族の歴史との連続性を取り戻させたいと思い、ジャディーンはサンを向上させて、アンダークラスと呼ばれる最下階級の世界から救出したいと考える。


 二人が体現するこの差異のなかにモリスンは、作品が書かれた時代にアメリカ黒人全体が突きつけられた問題を示唆的に描きだす。人間以下の存在として売買された彼女ら彼らが「人間として」生き延びるために創造したのが、音楽、ダンス、語りに象徴されるアフリカン・アメリカン文化だった。それが大きな変容の波を受けるとき、サンかジャディーンかとどちらかを選ぶだけではすまないのだと。


 こうした作品のコンテキストを翻訳者の藤本和子はモリスンに直接インタビューして解き明かす。その文章は四半世紀後のいまも輝きを失わず、BLM運動の奥深い歴史的背景へと読者を繋いでいく。


 藤本の聞き書き『塩を食う女たち』『ブルースだってただの唄』が次々と文庫化されて「藤本和子ルネサンス」を迎えている。そこに『タール・ベイビー』が加わった。困難な時代を生き延びる手がかりが、また一冊復刊されたのが嬉しい。 


  くぼたのぞみ(翻訳家)   

                           


🌹🌹🌹🍾🍾🍾

(今夜はアクアパッツァでスパークリングワイン!──無事に暮れを迎えられそうなお祝いです)



2022/12/06

「すばる 1月号」にブローティガン下北沢泥酔激怒事件など、など、など


斎藤真理子さんとの往復書簡「曇る眼鏡を拭きながら」も11回目を迎えました。毎月かわるがわる1年の予定で書いてきた手紙も6通目、わたしの最後の手紙になります。

 「すばる1月号」は今日発売です。

 最終回なので、思い切り、あちこち話は飛びまくり──ということはなくて、小さなジャンプはあっても話の軸はいつも「藤本和子」で、その仕事を中心にブローティガン、森崎和江などグルグルとまわりました。藤本和子は「塩食い会」の主軸ですから。
 前回、真理子さんが書いた「ブローティガン下北沢泥酔激怒事件」に刺激されて、カチッと火の点いたある記憶について書きました。1975年に『アメリカの鱒釣り』の日本語訳が出版されたころ、ブローティガンがどんな感じで語られていたか、どう受け入れられていたか、わたしの身近なところで起きていたことを書きました。

 それ以後ブームのようになったブローティガン紹介の流れと、四半世紀後に翻訳者である藤本和子が書いた『リチャード・ブローティガン』について、これはもう壮大な「訳者あとがき」ですね。とりわけ『愛のゆくえ』なる日本語タイトルで紹介された作品を、一歳違いのルシア・ベルリンの短篇「虎に噛まれて」(岸本佐知子さんの訳『すべての月、すべての年』所収)とちょっと比較してみました。さて、共通のテーマは?

 藤本和子は森崎和江から大きな影響を受けたと明言していますが、その森崎が今年95歳で他界して、『現代思想』が特集を組んだ。その号に「えっ!?」と驚く文章があって、、、、森崎の『慶州は母の呼び声』に書かれていた一文をめぐって、自分の記憶を洗いなおさなければいけないと感じたのです。この本が出た1984年ってどんな時代だったのか、と調べ、考え、確認して、そんな道行きになりました。

 締めくくりは「世界文学」と「古典」と「翻訳」です。沼野充義さんの「世界文学」をめぐる比喩表現や、J・M・クッツェーの有名な講演「古典とは何か?」から引用しながら着地!

            *         * 

 思えば昨年のいまごろ、第一回目の手紙を「雪の恋しい季節です」と書きはじめたのでした。また寒くなり、ふたたび冬がめぐってきて、ああ一年が過ぎたなあ、と冷たい空気のなかで深呼吸をしています。2022年はウクライナ/ロシアの戦争(まだ過去になっていない!)、安倍元首相の銃殺事件、円安ドル高による物価高騰(これも現在進行形)、いろんなことが怒涛のように襲ってきた年でした。個人的にも大きな試練の荒波にもまれ、そのただなかで嬉しい受賞があって、まさに悲喜こもごもの年でした。

 さてさて、来年初めに予定される斎藤真理子さんの最終回はどうなる? それで2人の往復書簡は締めくくられます。とても楽しみ!

 

2022/12/02

1983年『マイケル・K』がブッカー賞を受賞したときのジョン・クッツェー

 めずらしい動画がアップされていました。1983年、J・M・クッツェーが『マイケル・K』で最初のブッカー賞を受賞したときのようすです。全体で50分あまり。クッツェーはロンドンで行われた授賞パーティには出席していませんが、撮影クルーがケープタウンまで行って録画しておいた動画が流されています。

 ラフなシャツ姿の43歳のジョン・クッツェーが──おそらくケープタウン大学の研究室でインタビューを受けたのでしょう──声も若々しく、自作について語っています。

 最初は『マイケル・K』の作品紹介があって、作品からクッツェー自身の朗読や短いインタビューなどが映像にかぶさります。『マイケル・K』という作品の背景になった南アフリカの状況を、クッツェーが具体的に語っています。作品内には主人公が白人か黒人かということは直接書いていないし、時代設定は'80年代末だけれど、列車に乗るにも、移動するにも、結婚するにも、その度に、公的機関からあなたの人種は何かと問われる……と。


 いま、こうして極東の日本という土地でこの1983年の映像を見ると感慨深いものがあります。本邦初訳のクッツェー作品として『マイケル・K』が出版された1989年、この作品を「マジック・リアリズム」だと評する文が雑誌に掲載されました(何度か書いてきましたが)。いま読めば「リアリズム」そのものなんですが。でも、当時の日本の文芸ジャーナリズムは、おそらく、その意見を疑うことさえなかったのではないか。それほど南アフリカの社会的状況の内実は伝わっていなかったし、バブルにわく日本社会は南ア産のダイヤやプラチナを買い漁る人たちがいる時代だった。「見る目が曇っていた」のではないかと思います。むしろ「マジックリアリズム」なのだとレッテルを貼ることで「わかった」ような気になる状況だった。

 南アフリカといえば人種差別制度=アパルトヘイトの国だ、ということだけは伝わっていたけれど、その具体的な内実は分からなかった時代、それが1980年代末の日本だった。でも、この状況は変わったかな? 南アについては情報は入るようになったけれど、レッテル貼りで理解したつもりになることは加速度的に進んじゃったのではないかなあ(愚痴です)。

 さて、上の動画は、さらに他の作家の作品について紹介があって、審査委員長(フェイ・ウェルダン)によって受賞作が発表されます──彼女はしっかり「クッツェー」と後半部の長音「エー」にアクセントを置いて発音してますねっ! (ただしThe Life and Times of Michael Kと The がついてしまってるけど💦)

 代理の人が賞金(多分小切手)を受け取り、司会者がクッツェーのことを「シャイというより self-effaceing(表に出たがらない)人なのだ」と述べて、後半のインタビューが始まります。およそ48分からです。

 どうぞお楽しみください!

 ちなみに、1983年にはまだ「ブッカー・マコンネル賞」という名前だったんですよ〜〜。舞台背景に明示されていますが。