韻文と散文と、どちらが言語的に濃厚かつ一気に大勢の人間を動かすかといえば、それはもちろん韻文なのですが、世界的にみても各言語が古代から持ってきた神話はほぼ韻文でできている(書かれている、ではなく口承で伝えられてきた時代が圧倒的に長い)。南アフリカのズールー民族の長編叙事詩を最初に翻訳したときから、この問題はずっと考えてきたし、今も考えているのですが。
日本語の散文はどうか? 韻文はどうか? 近代と日本語のことを考えるときに、10年ほど前のこのイベント体験は非常に役に立つ。再掲します。(2012.3.12)
**定型の強さ、恐さ──昨日、スタジオイワトで**
詩人、藤井貞和の『東歌篇──異なる声 独吟千句』(定価500円 反抗社出版 カマル社制作)のリレー朗読/ピアノつき、に参加して思ったこと。それは、日本語が内包するリズム、五七五七七五七五七七・・・のすごさだった。いやあ、面白かった!
20人あまりの人たちが参加して、一区切りずつリレーで読み、それに高橋悠治のピアノ即興演奏が絡むという趣向。作者である藤井貞和がまず最初の「少年」を読み、それを受けて参加者の1人が「祈念」を読み、そして次の「鎮魂」は前夜、急遽参加することになったという2人の琵琶師による詠唱となった。 それまで、どちらかというと「ぼそぼそ」というふうに読まれていた詩が、ここへきてメロディーをもつ歌となり、詠となり、enhanced されたことばとなって琵琶の音とともにあたりに響いた。
当初の説明では、わからない漢字が出てきたら作者である藤井貞和に質問し、相互やりとりを経ながら、ゆっくりと進行するはずだった。がしかし、細部はさておき、リズムにのって、どんどん先へ、先へと朗読は進んでいった。
途中、あれ、その読みでいいのかな、ちがうよなあ、と内心思いながらも、その場の雰囲気に水をさすのもためらわれ、まあ細部はともかく、「鎮魂」ムードにのって粛々と、という雰囲気でいやます勢い、いやそれだけではなくて、次に読むのはだれかな? わたしか? なんて緊張も少しあって、少しの緊張も20余人分天井へ螺旋となってのぼっていくか、とか、いろいろ脳裏をよぎるなか、あっというまに最後の行へ到着してしまったのだ。
この間、約1時間と15〜18分。
当初はもっとたっぷり時間がかかるものと主催者は考えていたらしい。少なくとも2時間、いや3時間以上、だらだらやると・・・。しかし・・・。
意識するとしないとにかかわらず、日本語に埋め込まれている定型のリズム、身体に刻み込まれているリズムは恐るべし、あなどれない、そのことをあらためて認識した一日であった。
この『東歌篇──異なる声 独吟千句』は、文字で読んでいるときは、定型のなかにもひょんと肩の力を抜くユーモアが組み込まれている。だから、内心くすっと笑いながら読むことになるのだが、昨日、声になった詩ではその「ユーモア性」がどこかへすっ飛んでしまっていた。このことは参加者の一人がいっていたのか、いや詩人その人がいっていたのか。確かに。
終演後、福島のお酒を飲みながらだらだらと話すなか、高橋悠治が述べていたことばが心に残っている。それは、切る箇所を変える、つまり、五と七、七と七、のあいだを切らず、またぐようにすればいい、ということだったと記憶している。そうか。
北海道という開拓地の出身者であるわたしは、内地のヒョウジュンを学び、追いつき、合わせようとする教育のなかで育ったせいか(どうか?)、なんとか抗いたいと思いながらも、みんなに合わせっちまって・・・ああ、力の抜き方が足りなかったぜ、と自省するばかり。ハハハ。 (敬称略)
最後に、企画の八巻美恵さん、ありがとう! 平野公子さん、福島のお酒、おいしかったです!
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付記:朗読後の質疑応答のなかで、高橋悠治さんがした質問と指摘は記憶されるべし、であった。近世にあったさまざまな日本語のリズムが、近代化とともに「軍歌」と「詩吟」に収斂されていったという指摘である。(このまとめ、これでいいのかな?)