2019/08/27

今日も眼鏡をふいている──無事に終了

25日に下北沢のB&Bで、斎藤真理子さんとしゃべりにしゃべったイベント、「今日も眼鏡をふいている──翻訳・移民・フェミニズム」、無事に終わりました。

 きてくださった方々、本当にどうもありがとうございました。たくさんの方がメモをとりながら熱心に耳を傾けてくださっているのが分かりました。あとで質問がたくさんくるなと予想していたのに、私たちの話が(予想どおり!)あっちこっちに跳びまくり、いっこうに終わる気配がなく、会場からの質問時間がとても短くなってしまいました。ごめんなさい! 本当に残念です。

Cool!──H・バルメスさんより
真理子さんは「真理」の子で、わたしは「希望」の子だということに、あらためて気づきました。フェイク情報と無論理のことばが有毒ガスのように充満する世界で、時代遅れといわれようとなんだろうと、きっぱり気合の入った名前に力をこめたくなります。だから。またやります! 

 💐 真理と希望のエンドレス・トーク!😅


 当日は「翻訳」にからんで、案の定クッツェーをめぐる話が出ましたが、クッツェーの翻訳論について、ドイツ語版のWaiting for the Barbarians の改訳がどういういきさつで出ることになったか、今朝クッツェーの意見をコピペして twitter にアップしたら、なんと、ドイツ語版を出すフィッシャー社のハンス・バルメスさんがそれをリツイート、やりとりの最後にこんな写真 ↑ を送ってくれました。

 今年3月にオーストリアのハイデンライヒシュタインで開かれた文学祭「霧のなかの文学」でのジョン・クッツェーさん。黒いT-シャツの胸にひらがなで「こんにちは」と刺繍がしてある。これにはびっくり! ここに記録として残しておきます。「こんにちは」T-シャツを着たジョン・クッツェーさんです。Cool!──とは、この写真についていたバルメスさんのことば😆!

2019/08/23

渇いた土地:ナマクワランド

ひさしぶりの更新になりました。

 うんざりするほど長かった梅雨に、いきなり猛暑が襲ってきて、疲労困憊の東京住人としては、そろそろ秋の訪れと、乾いた風を感じたいところですが、いっこうにその気配はなく、しとしと降る雨のなかで、終わりゆく夏を惜しんで蝉たちが鳴いています。
 気温は少し下がりましたが、今日も湿度は高く、そんなとき世界のあちこちに散らばった友人、知人たちがアップする写真にどれほど慰められるか。すずしい山の写真をみてほっと息をつきます。湿気の多い空気のあいまをぬいながら渇いた土地のことを思います。そんな「異界の」写真を2枚アップ!

Dried up Springbok area, 2019
8月末、南部アフリカのナマクワランドは冬から解放されて春が訪れる季節。その写真を2枚。撮影者は8年前のケープタウン旅行でお世話になった Fukushima Koshin さん。

 いつもなら一面に花が咲き乱れるころなのに、1枚めの写真にはまったく花がなく、石ころまじりの地面は乾ききっているとのこと。
 2枚めの写真にようやくナマクワの花、ナマクワランド・デイジーが……。これもほんの数週間の出来事のようです。
 以前、ここでナマクワランドのことに触れたのは、ゾーイ・ウィカムの『デイヴィッドの物語』を訳していたころ、ずいぶん昔です。2011年11月のケープタウン旅行でも、ナマクワランドまでは行くことはできませんでした。ケープタウンからはちょっと遠い。

Skilpad Nature Reserve,  Kamiesberg, 2019
その後、クッツェーのデビュー作『ダスクランズ』を訳しているとき、この作品の第二部がナマクワランドを舞台としていたことを思い出して、ああ、行っておくべきだったと思っても、あとの祭り! 
 2枚めの写真のまんなか奥に立っているのが、掘抜き井戸の翼です。オランダの風車を思わせる作りで、アフリカーナと自らを呼ぶようになったオランダ系の農民たちが、乾いた土地に井戸を掘り、水を調達したんですね。
 Kamiesberg カミスベルグは、忘れられない地名です。『ダスクランズ』に出てきたこの地名は、ヤコブス・クッツェーが象狩りの旅に出てまもなく、逃亡したディコップを従者クラーヴェルといっしょに追い詰める場所だった。

 南アフリカは、もう一度行ってみたい土地です。

2019/08/11

読売新聞にアディーチェ『イジェアウェレへ 』が!

今朝の読売新聞の書評欄は、特集「読書委員が選ぶ夏休みの1冊」です。

そこに岸本佐知子さんがチママンダ・ンゴズィ・アディーチェの『イジェアウェレへ フェミニスト宣言、15の提案』(河出書房新社刊)を選んでくれました。やった!

──フェミニズムは別に難解でもおっかなくもない、要は人間として対等に扱われたい、自由な個でありたいという意思の表明なのだと気づかせてくれる。

とあって、これはもう、このささやかな本が読み手にいちばん伝えたいところかも。そこがぎゅっとつかみとってあって嬉しい、嬉しい。
「読みおわったあと、この手のひらサイズの美しい本を、きっと誰かにプレゼントしたくなるだろう」って、涙です。岸本さん、どうもありがとう!