2019/03/29

アデレードで:テーマは「Telling Truths:真実を語る」

マレーネ・ニーカークにインタビューするジョン・クッツェー
オーストリアの「霧のなかの文学祭」について3回書きましたが、じつはその前に、3月2日から7日まで、アデレードで面白い催しがあったのです。

アデレード・ライターズ・ウィーク2019」です。

 今年のテーマは「Telling Truths:真実を語る」。真実Truthsが複数形であるところが要注意です。語るときはそれぞれの真実がある、ということでしょうか。でも語ることによって、「他を排除しない空間」をつくっていくことは可能なんだと。文学祭はそのためにこそあるといっているような気がします。

左からマンデラ、ムシマン、ニーカーク
ウィークというくらいですから1週間にわたってあちこちで、さまざまな催しがあったのですが、そのなかで気になったのが3月6日の午前、アフリカーンス語で書いてきた作家マレーネ・ニーカークにジョン・クッツェーがインタビューをしたことです。

プログラムにはさまざまな作家や詩人が名を連ねていますが、アフリカ大陸関連ではほかにもナイジェリアのベン・オクリや、南アのンダバ・マンデラ(ネルソン・マンデラの孫)、シソンケ・ムシマンの名前があがっていました。

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マレーネ・ファン・ニーカークMarlene van Niekerkは彼女の世代で最も重要なアフリカーンス語作家だ。最初のヒット作であるTriomf Agaat (The Way of the Women) が有名。南アフリカのプア・ホワイトのなかで生きることをめぐる彼女のSteinbecken な語りは、ポスト・アパルトヘイトの暮らしに、毅然とした、論争をよぶ視線をなげかけている。すごい強烈さと腹の底から突き上げるようなエネルギーに満ちたマレーネの作品は、多くの賞にかがやき、国際マン・ブッカー賞の最終候補(2015)にもなった。

Chair: John Coetzee 


Marlene van Niekerk has been described as the foremost Afrikaans writer of her generation. She is best known for her two major works Triomf and The Wayof the Women. Her Steinbeckien accounts of life amongst the poor whites of South Africa cast an unflinchingand controversial eye on post-Apartheid life. Imbued with a robust intensity and visceral energy, Marlene’s
work has received multiple awards and been shortlisted for
the Man Booker International Prize. 

2019/03/26

クッツェー新作は5月にスペイン語版で

昨日の続報です。

JMクッツェーの最新作『The Death of Jesus』は5月にまずスペイン語版で出るようです。すでにランダムハウス・スペインがtwitter にもアップしていました。La muerte de Jesús

「霧のなかの文学」のようすはこのサイトにさらに詳細なリポートが載っています。ドイツ語ですが。クッツェーの朗読の内容、つまり新作の内容についても触れられています。

 新たな情報としては、2日目のトークでフィッシャーの編集者バルメスがドイツ語で質問したのに対して、クッツェーはドイツ語と英語の両方を混じえて答えていたということ。場所がオーストリアですから聴衆はやっぱりドイツ語話者が多いし、もちろんほとんどの人は英語もできる、そんなシーンですね。

 さ、そろそろわたしも現在の仕事にもどろう。クッツェーの追っかけをやっていると、頭がそっちに引っ張られすぎて、なかなかもどれなくなるwwww😿😆。


2019/03/25

『イエスの死・The Death of Jesus』 から読むクッツェー

オーストリアのハイデンライヒシュテインで22-23日の2日にわたって開かれた「霧のなかの文学」で、クッツェーは『イエスの幼子時代』『イエスの学校の日々The Schooldays of Jesus』と続いたイエスの三部作の最後『イエスの死 The Death of Jesus』から女優のコリンナ・キルヒホフといっしょに朗読したと伝えられる。

編集者ハンス・ユルゲン・バルメスと語るJ.M.クッツェー
この文学祭、今年は全面的にクッツェー祭りになったようで、初日はクッツェーの朗読のほかに、1990年代からクッツェー作品や南アフリカの作家をドイツ語に翻訳してきたラインヒルト・ベーンケReinhild Böhnkeが翻訳について語り、2日目は名だたる作家が『サマータイム』『マイケル・K』『その国の奥で』『恥辱』『鉄の時代』といった作品から朗読した。そして最後にドイツ語版の出版社フィッシャーの編集者であるハンス・バルメスHans Balmes とクッツェーが会話をするという流れだったようだ。元記事はこちら

北を介さずに3地域を結ぶ文学構想
バルメスとの会話では、最新作『モラルの話』がなぜ英語ではなくスペイン語で最初に出版されたかと問われて、「自分の本は、どれも英語という言語に根ざしてはいない。自分は特定の言語を志向してはいない。世界の主要言語という位置付けで覇権を握る英語によって、その他の言語が追いやられている現状には、うんざりしている」と答えたという。
 この辺まではすでに拙訳『モラルの話』のあとがきや、昨年のスペインでのイベントでブエノスアイレスの編集者コスタンティーニと交わされた会話の内容とも重なるが、クッツェーは、ふたたび「南の文学」を、ニューヨークやロンドンを経由せずに直接交流することで、それぞれ独自の複雑な歴史や文化背景を有する南の世界が発信する文学として発展させたいと述べたという。この主張については昨年4月末の南の文学ラウンドテーブルの内容を、ある雑誌にまとめたので近いうちに読者に読んでもらえるはずだ。

 会話では、クッツェーはまたグローバリゼーションを激しく非難。人はその消費行動によってのみ消費者として定義付けされるが、自分はそんなことに興味はない(強調筆者)と。1980年に出た『夷狄を待ちながら』について問われると、現代社会を引き合いにだして語り、野蛮とみなされる相手に対する防御自体が野蛮な行為に繋がる、と述べた。これはいわゆる先進諸国がもちだす「対テロ戦争」のことをいっているのかもしれない。
 
 また、歴史的に南アフリカで用いられた「アパルトヘイト」という語をイスラエル/パレスティナの関係にも使うことについて、3年前すでにパレスティナを訪れたとき、両者の状況を歴史的、社会的、経済的な観点からきっちりと定義して、こう語っていた。今回もまた、この語を使うことは建設的な話し合いを不可能にすると述べて、ヨルダン川西岸と東エルサレムでのイスラエルの行動を厳しく批判したと伝えられる。


*今回の文章を書くにあたって、ドイツ語の記事を翻訳してくださった市村貴絵さんに助けていただきました。どうもありがとうございます。Merci beaucoup!

2019/03/23

霧のなかの文学:J・M・クッツェーが参加するオーストリアの文学祭

J・M・クッツェーのおっかけとして忠実に(笑)、最近の彼の活動を記録、報告します。

 2019年3月22-23日、クッツェーはオーストリアのハイデンライヒシュタインHeidenreichsteinという町で開かれる文学祭に参加しています。この文学祭、Wikiによると、2006年から2016年まで毎年秋に2日間にわたって開かれてきたけれど、2018年は4月に、2019年は3月に開催されているとこのこと。今日はこれから、その2日目ですね。

 テーマは「霧のなかの文学」

   Literatur im Nebel

 想像力をかきたてる、なかなか意味深なテーマですが、写真をみてびっくり。なんと後ろのスクリーンにシアンっぽい赤で「John」という手書き文字が浮かんでいます。
 さて、どんな話がくりひろげられているのやら。ドイツ語のできる方は、ぜひ、報告してください。

”I do my best in what little I can to limit the hegemony of the English Language"──英語という言語のヘゲモニーを制限するために、どれほどささやかでも、わたしはできる限りのことをします──JMクッツェー。

オーストリアでも、昨年1月のカルタヘナでの文学祭とおなじ発言をしたようです。


2019/03/21

アディーチェのライティング・バック

チヌア・アチェベの『崩れゆく絆』(粟飯原文子訳 光文社刊 2013)を再読した。アチェベはチママンダ・ンゴズィ・アディーチェが最大の敬意を表するイボ人の作家だ。(「アフリカ文学の父」といわれることには異を唱えながら──だってそれまでアフリカには文学がなかったみたいじゃないかと。)代表作であるこの『崩れゆく絆』は世界中の高校や大学の課題図書となっている。原タイトル: Things Fall Apart はアディーチェのデビュー作『パープル・ハイビスカス』の書き出しでもあり、これは作家アディーチェがその出発点で、アチェベに示した最大の敬意と考えていいだろう。

 なぜいまごろ再読かというと、アディーチェが二つ目のO・ヘンリー賞を受賞した「The Headstrong Historian がんこな歴史家」という短篇の訳を見なおしているからだ。そしてあらためて、この短篇はアチェベの『崩れゆく絆』へのオマージュであり、ライティングバックになっていると確認した。日本で出た第二短編集『明日は遠すぎて』(2012)の最後に入れたときは、まだ光文社版の『崩れゆく絆』は出ていなかったが、この改訳版はイボ民族の伝統や文化について水も漏らさぬ詳細な訳注がつけられている。さすが専門の研究者!と膝を打ちたくなるすばらしい仕事だ。

『崩れゆく絆』はわたしにとって、かつて必要に迫られて読みはしたけれど、何度も英語で読みかけては途中で挫折した作品だった。主人公オコンクウォのあまりにも暴力的な性格に目をそむけたくなってしまうのだ。父親は笛吹きで、畑を耕して収穫をあげることをなおざりにして借金にまみれて死んだ男。「男としての甲斐性」がまるでなく、共同体のなかでも敬意を受けない存在として描かれている。

 その反動として息子オコンクウォは、体を鍛え、レスリングも強く、人一倍の働き者で人望を集める。実際、余計なことを考えずに働きに働いて家の納屋にはヤム芋もたくさん蓄え、妻を何人ももつ男になるのだけれど、、、。しかし、ふがいない父親への憤懣がほとんどトラウマのようになっていて、人びとに自分が勇猛果敢であることを認められたくて、戦いではすすんで人の首を切り、家庭内では自分に口答えをする妻や子供を徹底的に殴りたおす、という人物になった。あずかって息子のように育てていた男の子を殺さねばならないとされたときも、その集団にみずから加わる。非常に短気で、内面に極端にもろい「不安」をかかえ、それに目を向けて抑制する力をもたずに、かっとなるや暴力的手段に訴える。オコンクウォは幼いころに母親を亡くしていたという設定だ。
 
NewYorkerのイラスト
このマスキュリニティが、読んでいてなんとも苦しかったのだけれど、アディーチェの「がんこな歴史家」の反転させたもの(時代的にはその逆だけれど)として読むと、とてもよく理解できるし、じつによく書けているのだ。つまりこの物語は「これこそ男」とされてきた男性性の崩壊の物語でもあったと考えることができるのだ。檻に入った脆いエゴ。
 ヨーロッパから押し寄せてきたキリスト教的思想と武力による制圧が民族の伝統を打ち砕いた物語として、これまでは植民地主義的暴力への批判として読まれてきたが、アディーチェという若い作家がそのイボの伝統、カトリック、そして英語という混交文化から生まれて、アチェベの代表作をしのぐ作品をつぎつぎと発表していく様子を目の当たりにしている2019年の現在、アディーチェの作品には自文化、自民族の伝統といったものに対する非常に前向きの、それでいて痛烈な「批評精神」が息づいているのを感じる。

 そこには、女であるゆえに、あきらめなければならなかった過去の女たちの歴史を掘り起こして、それに敬意を表しながら、ヨーロッパから見たステレオタイプの負のイメージを払拭して、あらたなアフリカ人の物語を紡いでいくアディーチェの姿がある。

 たとえば『崩れゆく絆』のオコンクウォの友人であり、オコンクウォとは性格が逆の「じっくりものを考える」オビエリカを、「がんこな歴史家」の主人公ムワンバの、毒殺されたパートナーとして設定し、複数の妻をもとうとしたなかった、当時としては稀有な存在として描くのだ。これはアディーチェが考える、男性の理想像だろうか。『アメリカーナ』のオビンゼがその発展形といえなくもない。

この「がんこな歴史家」を含むアディーチェの短篇集が河出文庫に入ることになった。今回の文庫化はいってみればベスト・セレクションといいたいところだが、2009年に出た英語版のThe Thing Around Your Neck をそのまま踏襲したバージョンとなった。日本語への翻訳紹介ではちょっと複雑な歴史を負う「なにかが首のまわりに」(最初は「アメリカにいる、きみ」として発表された)については、すでに詳しく書いた。2009年をはさんでアディーチェの短篇を『アメリカにいる、きみ』(2007)と『明日は遠すぎて』(2012)という2冊の日本語独自のバージョンとして読者にとどけることができたのはラッキーだった。オリジナルより多くの短篇を含んでいるのだから。これはもう編集者Kさんの尽力のたまものだ。Merci!

 2004年8月にチママンダ・ンゴズィ・アディーチェの名前を初めて北海道新聞のコラムに書いてからすでに15年。アディーチェをめぐる状況はめまぐるしい発展をみせて、いまや彼女は世界のオピニオン・リーダーとなって、オフィシャルな外交絡みの文化イベントなどの場にも姿をあらわし、もちろん、大学や文化団体、メディアなどから引っ張りだこである。
 そんなアディーチェも、最初は短篇から出発したのだった。その原点がよく理解できる作品群をあらためて文庫として世に送り出せるのは、とても嬉しい。まだアディーチェを読んだことのない人は、ここから読むことをお薦めしたい。

 7月4日に、河出文庫から刊行予定です!

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追記:アディーチェのことを日本語で初めて書いたのは、2005年ではなくその前年の2004年8月のことでした。媒体は北海道新聞、「世界文学・文化アラカルト」というコラムでした。訂正します。
 
 
 

2019/03/06

谷崎由依さんおめでとう!

さきほど谷崎由依さんが『鏡のなかのアジア』(集英社刊)で芸術選奨新人賞を受賞したと知った。谷崎由依さん、おめでとう! それでしばらく引っ込めておいた昨年7月8日のこの投稿をふたたびアップすることにした。『文藝』冬号に書いた書評はそれを書いてから依頼されたので、さらに発展させたものになったけれど、最初に書いたときの新鮮な心の揺れや生々しさはこの投稿のほうがよく出ているナ。その記録と記念に↓

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本来なら堂々と、きちんと書評すべき本だと思いながら、そういう「表だった場所」に自分の大切な読後感を晒したくない、という極めて私的な思いを抱かせる、これはわたしにとってとても貴重な本だと最初の短編を読んで、まず思った。切実だ。

 物語の筋はあるようで、ないようで、確かにあるのだけれど、それを理性的に分析して書きしるそうと思うより前に、ここに書かれている日本語の、美しい文体の、リズミックなことばの連なりの、流れの、その心地よさに浸っていたい! ことばの海にざんぶり身をひたして、そのまま流されようが、溺れようがかまわないから! という思いに完全に足をすくわれた。

 物語の舞台となるのはチベット。サンスクリット語と思しき「るび」が(もちろん英語もある)、アルファベットで、漢字やひらかなの単語や熟語にふられるというアクロバット。これ、いいなあ、こんな技があるのか、わたしもやってみたいな、と思わせる心憎いスキルである。そのルビが文体にあたえる華麗なまでの共振というか、視覚による擬似レゾナントというか、連想の奥行きというか。たとえば、

 「筆」に「pen」とルビがふられ、「牛酪」に「butter」、「獣」に「yak」、「僧院」に「gompa」、「空」には「gnam」、「ねずみ」に「tsi tsi」、「城」に「zong」、「湖」に「mtsho」なのだ。

 いきなり、ぼうぼうと岩山に吹く風の、乾いた音が聞こえてくるのだ。もうイヤなことばっかり続く、この湿気で腐敗しきった土地で読む、乾いた風景の作品世界がたまらない。リズミックにくりかえされる「馬の足で二日、風が強ければ五日、ひとの足なら十日かかる場所」といった距離感を示す、凛とした表現の妙。
 ここちよくさらわれてみたい文章がここにある。久しく体験しなかった詩的な散文である。幻想短編集というわかりやすい表現が、どこか平板に感じられるほどに。
 
 といった私的な感情のことをひたすら書き連ねたくなる本なのだから、そんな文体への思いつめた感想ばかり、公の書評では書けないじゃないか。それ以外のことは、たとえば物語の筋やら、登場人物やら、舞台背景のことやら、それぞれ大切なことなんだけれどあまり口にしたくないのだ。陳腐な表現で読者にわざわざ説明してもしかたがないし、説明なんかしてあげない、といいたくなるのだ。これじゃ全然、書評にならないし、作家に失礼だから、ブログに書くことにした。

 おまけに「鏡のなかの……」である。ぐんと近しく感じるタイトル。あと一冊加わると「鏡のなかの……」シリーズができあがりそう! ほら!

 『鏡のなかのアジア』
 『鏡のなかのボードレール』
 『鏡のなかの蝦蟇』とか。
  (そういえば、有名どころでエンデの『鏡のなかの鏡』があったわねえ。)

「気だるくやつれ伏すアジア、灼熱に身を焦がすアフリカ」もあっけなく凌駕して。いや、もう、幻視者(visionnaireとルビ)作家、谷崎由依、おそるべし! 

2019/03/03

ゆき恋:ハン・ガン『すべての、白いものたちの』

ひなまつりの日にゆきの話をするのは、わたしにふさわしい。まっしろいゆきの話を。母にうながされるようにして雛人形を一段一段、買い求めて飾っていった、桃花のない北の土地のひなまつり。窓の外はまだ雪に埋もれる世界だった。

 ハン・ガンの『すべての、白いものたちの』を読んでいる。どれも心にしみる、ちいさな断章のような、白と黒の世界。これは、わたしのよく知っている世界だ、そう思わせるものが、この本のなかにつまっている。いまは遠い、その世界へ、わたしが行ったことのないポーランドを経由して、ふたたび連れていってくれることばたち。幾重にも深い味わい。

 だから、ページをめくる手がゆっくり、ゆっくり、確認するような動作で進む。そしてふいに行きあたる「雪」。雪片が舞い落ちてきて、オーバーコートの袖口にふわりとかかり、またたくまに消えていく、あの一瞬。雪の結晶。そしてあたりに音もなく舞い沈む雪の、その時間のすべて。その短い、だれにも奪われることのない、美しい時間のすべて。

***

 

 ぼたん雪が黒いコートの袖に止まると、特別に大きな雪の結晶は肉眼でも見ることができる。正六角形の神秘的な形が少しずつ溶けて消えるまでにかかる時間はわずか一、二秒。それを黙々と見つめる時間について、彼女は考える。
 雪が降りはじめると、人々はやっていたことを止めてしばらく雪に見入る。そこがバスの中なら、しばらく顔を上げて窓の外を見つめる。音もなく、いかなる喜びも哀しみももなく、霏々として雪が舞い沈むとき、やがて数千数万の雪片が通りを黙々と埋めてゆくとき、もう見守ることをやめ、そこから顔をそらす人々がいる。

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 訳者の斎藤真理子さんのことばが、本当にいい。どのページも、まったく違和感のないことばで、ワルシャワの街を歩くハン・ガンの目と記憶の織りなす世界をリードしてくれる。とめどなく染み入ることばたちだ。(河出書房新社刊 2018.12)


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2019.3.12──備忘のためのメモ。
チョ・ナムジュの『82年生まれ、キム・ジヨン』は、読む人が自分の記憶を刺激されてそれぞれの物語を思い思いに盛り付ける真っ白い器みたいな本なので、紙のうえのことばを味わってゆっくりページをくるということはありませんが、ハン・ガンの『すべての、白いものたちの』は、ことばそのもののために書かれていて、ページから目が、白と黒の世界をゆっくり引き出して描くための本のような気がします。そういう意味では散文詩に近いかも。