2018/12/29

アディーチェ:ネルソン・マンデラ没後5周年の基調講演

12月6日、UNISA(南アフリカ大学)で開かれたネルソン・マンデラ没後5周年記念イベントで、基調講演をするチママンダ・ンゴズィ・アディーチェの動画がありました。グラサ・マシェル(故ネルソン・マンデラ大統領夫人)さんと爆笑する写真も……。


グラサ・マシェルと
彼女が初めて南アを訪れたのは、解放後10年といってますから2004年ですね。そのときは「レインボー・ネーション」というスローガンを見て、アパルトヘイトという過去の暴力がそんなにすんなり平和に移行するのかとても疑問だったと正直に述べています。むべなるかな。
 その後もう一度訪れて、それから10数年たって今回、その間にナイジェリアと南アフリカの外交関係などあって……。
 アディーチェがおなじアフリカ大陸にある国とそこに住む人たちについて、それぞれに違いながら共通する歴史について語っています。これからどんな作品を発表していくのか、本当に楽しみ!

ジャブロ・ンデベレ、グラサ・マシェルと
この10年のアディーチェの活躍ぶりは目を見張ります。『半分のぼった黄色い太陽』がオレンジ賞を受賞したのが2006年(あれ、2007年だったかな?)。2009年に短編集『なにかが首のまわりで』を出して、2013年に『アメリカーナ』で大ヒット。2016年には We Should All Be Feminists(『男も女もみんなフェミニストでなきゃ』)でさらにブレイクでした。

  12月初旬にアディーチェが南アフリカへ行く、というニュースは知っていたのですが、あれこれ気にかかることがあって、ぼんやりしてしまい、ようやく今日リンクを貼ります。
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2019.1.7 ──この記事についてはネルソン・マンデラ・ファウンデーションに詳細な報告があります。ついでに動画も埋め込んじゃおう!



2018/12/28

日経プロムナード最終回 青年

2018年12月28日金曜日、今年最後の日経プロムナードです。

東京は木枯らしの吹くなか、それでも屋内にいると南面するガラス戸から差し込む日差しは暖かく、暖房はほとんどいらないくらいです。これから寒波が押し寄せるのでしょうか。

  青年

 来年はいったいどんな年になるのやら。暗雲は晴れませんが、このコラムに書いたような、やさしい青年が日本でもちゃんと生きていけるような社会にしたい、そう思います。

2018/12/27

Diary of a Bad Year から朗読するクッツェー

珍しい動画を発見した。Diary of a Bad Year から朗読するJ・M・クッツェーだ。出版したばかりの作品から読みます、と言っているから、録画されたのは2007年10月と思われる。

 それにしても、2018年の漢字は「災」だというから、今年にぴったりだな。



スペイン語のタイトルをわざわざ言っているのは、聴いているのがスペイン語話者だからだろうか。調べてみると、スペイン語訳は2007年10月5日に出ている。これは、なんと英語オリジナルのわずか3日後だ!
 ちょうどクッツェーが2度目の来日をしたころ──2007年12月初旬──で、11年前ということになる。なんとも声が若々しい!

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2019.1.2──追記:スクリーンの右上にCCCBとあるように、これは「バルセロナ現代文化センター」で録画された動画のようです。

2018/12/22

復刊『塩を食う女たち』とアディーチェの文学イベント

11月下旬にナイジェリアのラゴスで開かれた、パープル・ハイビスカス・トラスト(PHT)の文学イベントのようすが、チママンダ・ンゴズィ・アディーチェのfacebookにアップされていました。
 YOUTUBEでも動画は見ることができたので、ここに貼り付けます。



今年で11回目を迎えるこのワークショップは、これまでの歳月、大きな成果を生んできました。ワークショップで学んだ人たちが、つぎつぎとステージにあがって自分の体験を披露。歌ありダンスありのイベント風景が祝祭気分をもりあげています。
 シンガーが歌い、小さな子がダンスを披露し、会場の参加者がてんでに踊る風景もとてもいいです。チママンダもいっしょになって踊っています。

 そして最後の最後にかかった曲! これは胸に熱いものがこみあげてきました。

 To be young, gifted and black!


タイトルは、トニ・ケイド・バンバーラの
The Salt Eaters から
言わずと知れた、若くして才能にあふれた作家ながら、34歳という若さで逝ったロレーン・ハンズベリー(1930~1965)の同名の戯曲をもとに、ニーナ・シモンが作った歌です。

 おりしも昨夜は、60年代から70年代にかけてアメリカの黒人女性作家が奮闘して生み出した作品群を編集、翻訳した藤本和子さんの聞書集『塩を食う女たち』(1982年刊)が岩波現代文庫で復刊されたお祝いをかねた忘年会でした。
 4人の「塩と火の女たち」が熱望してきた復刊が果たせて、祝杯をあげたところだったのですが、今朝はまた、朝日新聞の書評欄で、Title の店主である辻山良雄氏が薦める「文庫新刊」にも掲載されて!


 1982年と2018年が、みごとに繋がりました!

2018/12/21

日経プロムナード24回 チママンダとリムジンで

日経プロムナード、今回はチママンダ・ンゴズィ・アディーチェが来日したときの思い出です。 

まだみんな若いな(笑)
at Waseda , 2010
     チママンダとリムジンで

『半分のぼった黄色い太陽』が出た直後のことでした。もう8年以上も前になるのか、と感慨深い年の暮れです。

 早稲田大学の講堂でアディーチェの講演があって、松たか子さんが短編「なにかが首のまわりで」を朗読したのだった。日本ではこの作品の初期バージョンが、第一短編集『アメリカにいる、きみ』のなかに入っています。
 

2018/12/16

北海道アイヌの番組


備忘録として。

2018/12/14

日経プロムナード23回 チャコールグレーの洋館

カウントダウンが始まった。日経プロムナードも、今回を入れて残すところ3回。
 記憶の旅は、土埃をあげながら走るバスに揺られて、ふたたび北海道の田舎町へ。
 
  チャコールグレーの洋館

上下に開閉する窓の例:赤煉瓦の旧北海道庁舎
たどりついた洋館のなかは細部まで覚えているが、屋根が思い出せないのだ。
 そしていまも脳裏に焼き付いている緑色の屋根の家。わたしが生まれて育った小さな家。前庭に植わっていた白樺、少し道路寄りに茂っていたポプラの木々の葉のかたち。

 それにしても子供にとっては不可思議な洋館だった。あれは...

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2018.12.18──金曜日に掲載された記事を画像アップします。



2018/12/11

冬の贈り物

 いつもの夕暮れの散歩で見つけた深紅のバラ。
 12月に咲くバラというのも、考えてみると不思議な気がするけれど、今年は季節はずれの暖かさで、植物に異変が起きているというニュースがあちこちから聞こえてくる。

 道路沿いの斜面の樹木のそばに、ひょろりと伸びた枝についていたこのバラの花、隣にはすでに花びらが散ったものがひとつ、ふたつあって、ずいぶん健気に咲いてるなあ、と散歩のたびに思っていた。たぶん、引っ越すことになった人が思案の末に、植木鉢から屋外の斜面に移植していったのだろう。

 すばらしい冬の贈り物。

 暖冬とはいえ、東京も昨日あたりから本格的な冬の訪れが濃厚となってきた。猫たちはどうしているだろう? と思っていると、こんな「猫ハウス」を見つけた。
 発泡スチロールの容器を、蓋を下にして置き、上からブロックで押さえ、側面を出入り口として開けてある。大きな猫なら2匹ほど入れば、猫ハウスは満員になってしまうかな。でも蓋を下にしたところが「コロンブスの卵」みたいに斬新だ。しげみの陰に、ひっそりと置かれている。雨の日や、雪の日のシェルター。

 寒さに負けずに生きぬいてね! というメッセージが伝わってきて、心が温まる。

 この地球上に、なんだかやけに数だけ増えて、傍若無人に森林を伐採し、毒物を垂れ流すニンゲン。でも、これはおなじ生き物である猫へのささやかな贈り物だ。エリザベス・コステロもどきは、世界中どこにだっているんだね。

 

2018/12/07

日経プロムナード22回 「ン」?

早い、早い。あっというまに12月です(といえる時期になりました 😊ふふふ)。

すっかり冬、というには不思議と暖かい日がやってきたり、油断をしていると寒風が吹きつけたり。でも、時間は情け容赦なくすぎていきます。

 プロムナードを書きはじめて5ヶ月、最後の月のはじまりは、アフリカという広い、広い大陸で使われる多くの言語に、不思議と共通する、固有名詞の特徴。「ン」や「ム」から始まる名前の読み方についてです。ほら、「ンクルマ」とか、「ムボマ」とか。最近は「ムバペ」というのもありましたね。

       「ン」?

 今月の絵柄は、ん? お歳暮の「のし」かな? 

2018/12/04

風の曲がり角──ヘンドリック・ヴィットボーイの日記(最終回)

ナミビアの首都はWindhoekと地図に書かれ、「ウィントフック」とウィキペディアには出てくる。読み方はアフリカーンス語なら「ヴィントフック」、ドイツ語も音はおなじだが表記はWindhukだ。ナミビアは独立時に公用語を英語と決めたために、頭文字のWが濁らない「ウィントフック」として定着しているのだろう。まあ、読む人のオリジンによってさまざまな音になりそうな地名だ。
 
 しかし、この地名はどこから来たのか?

ウィントフックにあるドイツ教会と、
かつて立っていた騎馬像
その土地は先住民のナマ語では「!ai-//gams(ai-gams etc.)」(クリック音などありそうで発音できません😢!)、ヘレロのあいだではOtjimuise(オキムイゼ) と呼ばれて、「温泉」を意味したという。
 風が吹き抜けるという地理的条件から「風の曲がり角/Windhoek」と呼ばれたという説が有力だ。ケープダッチ(ケープ植民地のオランダ語、のちのアフリカーンス語)でWindは風、hoek はcornerの意味。だから「風の曲がり角」。
 ほかにも、ヘンドリック・ヴィットボーイより前の時代に活躍したOrlamのトップ、ヨンカー・アフリカーナ/Jonker Afrikaner が南アフリカからこの地に渡って拠点を作ったとき、故郷にあった山の名前 Winterhoek をこの土地につけて、それがいつのまにかWindhoekになったという説もある。

 いずれにしても、その後、ここを支配したドイツ系植民者がそれをドイツ語ふうの表記 Windhukと変えた。ドイツが第一次大戦で敗戦国となり、南西アフリカは南アフリカの実行支配下に入って、またアフリカーンス語表記 Windhoekに戻した。ナミビア独立時に英語が公用語になり、この土地の名は英語読みされて「ウィントフック」となった。
 もちろんナミビアに住むドイツ語話者はドイツ語ふうに発音し、アフリカーンス語話者はアフリカーンス語ふうに読んでいるのだろう。多様な背景をもった人々が、多様な言語の音でその土地を呼ぶ。それぞれに「正しい理由」をもちながら。だから、旧植民地の土地の名前に「正しい呼称」などないと考えたほうがいい。つまり力関係がそれを左右するのだ。

 こんなふうに、土地の名前には何層にもおよぶ歴史の痕跡が隠されている。

騎馬像跡に建てられた犠牲者の記念碑
Orlamと呼ばれる集団はいくつかあって、ヘンドリック・ヴィットボーイの王国もそのひとつ。南部のナマクワランドに住んでいた牧畜・狩猟民族である褐色の肌をした先住民とオランダ系植民者の混血だ。この地に入っていったキリスト教宣教師によってオランダ語とキリスト教思想を教え込まれたヴィットボーイは、ナマ語のみならず、ケープダッチの読み書きができた。だから「日記」が残っている。
 19世紀末のドイツの植民地時代にウィントフックの中央にはドイツ教会が建てられ、その真向かいにReiterdenkmal(騎馬像)も建った。植民者の苦労を記念する像だ。しかし、1990年に独立した後は、その騎馬像が取り去られ、ドイツ軍のジェノサイドによって犠牲になった先住民系の人たちの像に、じわじわと置き換えられた。ドイツ教会のすぐそばには新たに独立記念博物館が建てられた。そのプロセスを講義で聞いた。

バルタザール・ドゥ・ビールとアナ・ルイザ
(カンネメイヤーの伝記から)
さて、ここでクッツェーがなぜ Late Essays の最後に「ヴィットボーイの日記」をめぐる章を入れたか、という話に戻ると、彼の母方の曽祖父バルタザール・ドゥ・ビール(1844~1923)が、1868年にドイツ宣教師団の一員として南アフリカへ送られ、この南西アフリカで布教活動をしているのだ。そのことはすでに書いた。モラビア出身の宣教師の娘と結婚し、数年後にアメリカへ渡って、イリノイ州のドイツ人コミュニティで布教。そのとき生まれたのがジョンの母親ヴェラ・ヴェーメイエルの母、つまりジョンの祖母ルイザ・ドゥ・ビール(1873~1928)だった。
 少年ジョンはポメラニア出身の曽祖父バルタザールはてっきりドイツ人だったと思っていたが(そう教えられた)、調べてみるとどうやらポーランド人で若いころ名前をドイツ風に変えてドイツ人宣教団に入ったことがわかった(これは今世紀に入ってから判明した事実)。

 というわけで、J・M・クッツェーにとってケープ植民地と南西アフリカの歴史は、デビュー作『ダスクランズ』の第二部「ヤコブス・クッツェーの物語」の背景として、また、『少年時代』にも出てくる彼のオリジンをさかのぼる家族の歴史・物語として、切っても切れない関係にあるのだ。
 ケープ植民地と南西アフリカの歴史は、したがってクッツェーの作家活動の起点であり、人間クッツェーの自己認識の足場を形成したものである。そこが「ケープ植民地の歴史は、ヨハネスやナタールといった土地の歴史とひとくくりにできない」とクッツェーがいう理由なのだろう。(了)

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付記:2018.12.10──ナミビア研究の専門家Sさんに、Windhoek の呼称の由来について、詳細なコメントをいただき、訂正しました。やっぱりWikiだけに頼っていては危ない、ということですね。

 

2018/12/03

シンプルで静かな文体──J・M・クッツェー

日経新聞の読書欄で、作家の小野正嗣さんの「半歩遅れの読書術」が始まった。

 第1回は、小野さんが2014年6月にノリッチで開かれた文学会議で、J・M・クッツェーと会ったときの話だ。クッツェー作品をつらぬく「シンプルで静かな文体」を言い当てていてみごと。おまけにその文体やことば遣いを、人間ジョン・クッツェーの立ち振る舞いと関連させているところも、実際に会って話をした実感がこもっていて、作家としての慧眼が光る。

「彼の作品はどれも深い文学的教養に支えられている。だが、知性に陶酔する技巧や華麗さとはほど遠く、禁欲的と呼びたくなるほど、シンプルで静かな文体なのだ。    ──中略──
 シャイな人だと聞いていたが、それだけではないだろう。書き言葉と同じように、しゃべる言葉もまた、熟慮を経て納得の行くものとならなければ発せられることはないのだ」

 これはもう徹頭徹尾、その通りですね、といいたくなる。とりわけ「シンプルで静かな文体」という、頭韻を踏む表現は覚えやすい。これからはわたしもこの表現を使おう。
 小野さんは、2014年に『ヒア・アンド・ナウ』(岩波書店刊、2014)の書評を書いてくれた。それを友人といっしょに英訳して、ジョン・クッツェーに送ったのだった。彼はとても喜んで、すぐにポールにも送る、と返事が来たことを思い出す。
 

2018/12/01

日経プロムナード 第21回 熾火は燃える


11月最後の日経プロムナードには、ヴァンクーヴァー沖のソルトスプリング島に住むカナダの友人たちが登場します。彼らが掘り起こした、炭焼き窯の跡と日系移民のお話です。

  熾火は燃える

 友人たちの発掘や調査の結果は、『Island Forest Embers/島 森 熾火』という小さな本にまとめられました。

 そのことを書いていたら、突然、わたしの母方の祖父、矢走留五郎が「俺も混ぜろ!」と声をあげて……。
 祖父は旧伊達藩の豪農の家に生まれた冒険心にあふれる男で、太平洋を渡ってメキシコへ行ったのですが、しかし...。メキシコとの境界を流れるリオグランデ川を渡ってしまい、強制送還されて!
 そうか、これは「100年前の日系移民ウェットバック」じゃないか !?