2016/04/29

トスカーナで <クッツェーの女たちを読む>

 9月末にイタリアのプラトで、クッツェー関連のシンポジウムが開かれます。


 クッツェー作品に登場する女性たちについて、さまざまに論じる3日間。なんとも刺激的なシンポではありませんか。どんな話が飛び出すのやら。

 2009年以降、この作家については、シドニー、武漢、リーズ、アデレードと数えるだけで4回もの国際会議が開かれ、すでにバイオグラフィーが2冊、作品については専門書が10冊、300を超える論文が発表されているそうです。ところが<クッツェーの女たち>については、ごくごく少数のものしかないといいます。今回のシンポジウムは、なぜか避けられてきたこのテーマを軸にして論じられる予定。果敢な、しかし、クッツェーを論じるためには、必要不可欠な取り組みですね。

 キーノートパーソンに、デイヴィッド・アトウェル、デレク・アトリッジ、エレケ・ブーマー、キャロル・クラークソンといったお馴染みの方々の名前が見えます。クッツェーさんご自身も、作品から朗読するのでしょうか、参加者としてまっさきに名前があがっています。

 具体的なテーマはこんな感じです。

  ・女性の声による腹話術
  ・愛、セックス、欲望
  ・母と娘
  ・女性作家
  ・女性たちの沈黙とストーリーテリング
  ・女性の助言者と世話人
  ・女性に対する暴力
  ・若さと加齢
  ・女性と人種
  ・美
  ・クッツェーとゴーディマ
  ・女性と権力
  ・女性作家の作品についてクッツェーは
  ・クッツェー作品のフェミニストとクイアの読み

 そそられるテーマばかりですねえ。主催はオーストラリアのモナシュ大学、代表者にスー・コソーSue Kossewさんの名がありますが、クッツェー研究者として、あるいは南アフリカの文学研究者として1990年ころからあちこちでお名前を見かけてきた方です。
 2014年のアデレードでもお会いしました。アデレード大学の、孔子の像が見守る中庭で開かれたオープニングパーティのとき、ワイングラス片手に話をした記憶があります。クッツェーという作家が日本でどのように紹介され、どんなふうに読まれているかとか、コソーさんが深く論じていたゾーイ・ウィカムの最重要作品『デイヴィッドの物語』についてなど。

「クッツェーと女性たち」というテーマ、おもしろくないわけがないですよね。クッツェーさんと初めて会ったとき「あなたの作品の母親をめぐるテーマにとても興味がある」とのっけから言ってしまったことを、ふと思い出します。わたしが訳した『マイケル・K』『少年時代』『鉄の時代』にはすべて強烈な「母親」の存在がありますから。
 じつは、もうすぐ出る拙著『鏡のなかのボードレール』で、ささやかながらクッツェーのある作品に出てくる一人の女性ついて、「クッツェーのたくらみ、他者という眼差し」という文章を書きました。5月末か6月には書店にならびます!

 9月末にトスカーナは天国みたいな場所に変貌する、とイタリア通の方に聞いたことがありますが、このシンポ、ぜひのぞきにいってみたいと思うけれど、ちょっと遠いなあ……というのが時差と長時間フライトにからきし弱い身の涙まじりの(笑)感想です。


2016/04/25

『恥辱』の、いわゆる「ルーシー問題」


 こんな疑問が「Yahoo」に投稿されたのを見つけた。
Q:クッツェーの恥辱について。オランダに行こうという父親の提案を拒否して、ルーシーが頑なに農村に留まろうとしたのは何故ですか?

 以前からずっと考えてきたことだった。『恥辱』が日本語に訳されたとき、多くの読者が感じた疑問でもあっただろう。いまでも解けない謎として立ちあがってくるらしい。
 『恥辱』という作品は、クッツェーが多岐にわたる問題を、密度の高い構成と端正な文章のなかに投げ込んだ小説で、人種や、ジェンダー、セクハラ、大学の再編成、ロマン主義思想の問題点、植民の歴史、動物の生命と人間との関わり、などなど、そう簡単に答えが見つからない問題提起が埋め込まれている。とりわけ「動物の生命」については、最後のシーンなど、どう考えていいかよくわからないという人もいる。とにかく優れて「問題含み」の小説なのだ。なかには、問題として読者の意識にすぐに立ち上がってこないほど、深いところに置かれた疑問もある。
 また南アフリカという土地にあまり馴染みのない読者にとって、とりわけ若い女性の読者にとって、今回アラートされた疑問は、解けない謎として残ってしまうのだろう。それについてわたしなりに考えてみたい。

 まず、ルーシーの母親、つまりデイヴィッドの最初の妻は、作中ではオランダに住んでいることになっている。ルーシーはその母親を頼って、いったんはオランダへ行ったけれど、故郷へ帰ってきたという設定だ。
 なぜ南アフリカに帰ってきたか? ここでクッツェーは、人は自分が生まれ育って暮らしてきた土地や社会との結びつきを、そう簡単に切り捨てることはできない、といっているようだ。故国の田舎に小さな農園を買って自給自足の暮らしを営もうとしているルーシーは、やっぱり自分は南アで生まれ育った人間だと思ったのかもしれない。さらりと書かれているが、彼女の「帰国」には、ルーシー自身のなみなみならぬ決意が秘められているのだ。背景としては、作者クッツェーが1970年代初めに、アメリカからやむなく、アパルトヘイト下の南アフリカへ帰国した事情なども重ね合わせることができる。

 ルーシーの生活は質素で、大学教授として都会に住んできた父親の暮らしとくらべれば、はっきりいって貧乏暮らしだ。その対比もクッツェーは書きたかったのだろう。それもパートナーの女性が出ていってしまったとあるから、ルーシーはアフリカの田舎でたったひとりで住んでいるわけだ。そんな行動がアフリカの農村社会にとってはどれほど「異質」なものであるか、「奇異」なものであるかは外部からはうかがい知れない。そこもクッツェーは書いている。これは旧態然とした男尊女卑の村社会に、女性があえて(果敢にも)無防備に身をさらすことを意味する。最後はその共同体の規範に従うこと、つまりペトルスの契約上の妻として身柄を保護してもらい(はたしてそれが保護かどうかは疑問だが)、家は彼女の所有として不可侵のものにしたい、とルーシーなりの苦肉の策を解決法として考え出したりするのだ。そのように書くことで、クッツェーは白人女性が「あらたに」アフリカの農村社会に生きることの試みをこの作品に書き込んでいるのだろう。
 ちなみに、ペトルスが身内の若者がルーシーへのレイプに関係していたことを知り、ルーシーを「生まれてくる子供ともども面倒をみる」と申し出るところもクッツェーは書き込んでいることに注目したい。それが農村共同体の旧式な、一族の長としての責任の取り方なのだ。(面倒をみる、とか、保護する、とか、結局は「女性を隷従させる」ことを意味するので、女性読者はさらに反発するだろうけれど……)

 女性が自立してひとりで生きていくことを許さない社会規範。それは50〜60年前の日本社会を考えてみるだけで容易に想像がつく。先の戦争直後に女がひとりで田舎に古い農家の屋敷を買って住む、と想像してみてほしい。女性は経済的自立ができず、必ず誰かに属していなければならない共同体社会の縛りは、まだまだ世界中のいたるところある。
 
 そもそも17世紀以降、アフリカ南端に入植してきたヨーロッパ系白人、とりわけオランダ系の人たちは、何代も南アフリカに住んできたのだ。ヨーロッパ列強国によるアフリカに対する植民地政策の延長上に、アパルトヘイト体制が誕生したことを思い出してほしい。非白人を徹底的に差別的に搾取するその制度のもとで生きる白人もまた、ある意味、がんじがらめの非人間的な制度下で生きざるをえない状況だった。(といっても、白人が利を得るその制度は、白人にとっては、その非人間性を「自覚」したときに初めて檻となるのだけれど──つまり、見ないことにする、差別などないことにすれば、良心は痛まなかったわけだ。)
 ルーシーは、そんな軛を振り払って、一度はヨーロッパへ向かった。がしかし、オランダへ行っても、母親と折り合いが悪かったのか、南アとは決定的に異なる社会がそこにあって自分を「部外者」だと感じたのか──クッツェー自身がイギリスで『青年時代』に感じたように──とにかく故国へ戻ってきたのだ

 だからルーシーは、自分で決意して戻ってきた南アフリカという土地からそう簡単に逃げ出すわけにはいかないのだ。自分の意思に従えば、これからもずっと住み続けることを選択せざるをえない、たとえ黒人にレイプされてその子供を産むことになっても、というのがこの小説のなかでクッツェーがルーシーに課した役割だ。そういうふうに土地と関係を結ぶ人物として描いた。だからルーシーはある意味、作家ジョン・クッツェーの分身であり、彼の「絶望的希望」のように見えなくもない。
 ところが、これを書き上げてから、クッツェー自身は南アフリカを去る。南アフリカにとどまり続ける分身を作品内に刻んでから、その土地を去ったのだ。南ア国内では、そこに批判が集中したこともあった。

 とにかく、この「ルーシー問題」は作品が発表された直後、南アだけではなく世界中のフェミニスト読者のあいだで侃々諤々の議論を呼んだようだ。無理もない。なぜ、歴史的な負荷をひとりの「白人女性」だけに背負わせるのか、という憤懣だ。もちろん南ア国内では、黒人男性が集団レイプする事件を描いたことに対する政権側の批判もあった。だがそれは「新生」南ア社会にとって、当時も今も、あまりに日常的なことでありすぎる「マイナスイメージ」だったからだ、といまになればわかるだろう。(白人男性が有色女性をレイプし続けてきた長い歴史は、ハベバ・バデルーンが論じていた──昨年のちょうど今頃のブログを参照して!

 この「ルーシー問題」は、しかし、地球規模で人の大移動が起きているいま、「南」と「北のメトロポリス」の関係で考えてみるとき、未解決のさまざまな問題が噴き出る場として、ほとんど普遍的なテーマへと変貌していく。

 結局、これだといった答えなどないのだ。歴史的文脈を知り、そのなかで読者がそれなりに考え出すしかない。考え続けていくしかない。それがクッツェー作品を読むということなのだから。

2016/04/23

ブックフェアでトークショーに出るクッツェー:9月には新作も

 この21日から始まったブエノスアイレスのブックフェアに参加しているジョン・クッツェー、以前ならこういった「トーク」にはほとんど出ない姿勢を崩さず、ケープタウン時代は「引きこもり作家」などと呼ばれていたのに、オーストラリアへ移ってからずいぶん変わったものだ。とても社交的になって、自宅に友達や同僚や仲間を招いて、冗談をいいながら話もするようになったのだから。(おかげでわたしも2014年にフェスの参加者といっしょに招かれ、彼の手料理までご馳走になった!)

 とりわけここ数年の南アメリカ諸国訪問への、彼の熱の入れようはすごい。先日もメキシコへ行ったばかりだった。コロンビアもよく訪れている。ブエノスアイレスのこのブックフフェアのあとは、サンマルティン大学で3回目のセミナーを控えてもいるわけだから、とりわけアルゼンチンへの出没頻度が高いといえる。

 臨機応変にその場で応答するのが苦手だから、講演はもっぱら書いたものを朗読する形式でやってきたクッツェーだが、チャレンジ精神旺盛に、大きく自分の殻を破っていく姿がまぶしい。今年で76歳になったクッツェーは、人生の残り時間は若い人たち、とりわけ「南」の人たちへ何かを確実に手渡そうという意気込みが強く感じられる。
 2013年に出た小説 The Childhood of Jesus は、ある種の哲学小説、あるいは、文学的テーマパークのようにさまざまなテーマを浅くちりばめた作品と見えながらも、大きな枠組みで見ると、あれはクッツェー流の「子育て論」であり「教育論」ではないかとわたしなどは思ってきたのだけれど、今年9月に出るという The Schooldays of Jesus という新作のタイトルを見ると、やっぱりなあ、と思わざるをえない。タイトルを日本語にすると『学校へ通うイエス』というか、『イエスの学生時代』というか、制度としての「学校」と「教育」に重点を置く作品になるのかしらん、と想像してしまう。

少年時代、青年時代』はまさしく彼のSchooldays だったわけだし、立場は変わるけれど『サマータイム』だって、今度は職場としての学校が舞台になった作品だった。彼の母親が長年教師だったこともあって、クッツェーはずっと「教育」と切っても切れない関係に身を置いてきた人間なのだ。社会制度としての教育に鋭い光をあてるときがやってきても、少しもおかしくはない。作家としてのクッツェーと、教師としてのクッツェーは、まぎれもなく同一人物なのだから。そして、二人の子供を育てた「親」としてのクッツェー。この部分がとても微妙なのだけれど。
 
 自分がこの世に生まれてきたのはなんのためか、自分の vocation/天職はなにか、とずっと自問しつづけてきた人ならではの視点で書かれる彼の文章は、いつだって、ややもするとたった一つの「国」の内部で視野狭窄におちいりがちな人間を、ぐんと見晴らしのいいパースペクティヴのなかへ連れ出すパワーをもっている。このパワーがなんといってもクッツェーの文章の醍醐味なのだ。新作が楽しみだ。

 今日もまた、あいかわらずのクッツェー話でした!

2016/04/20

クッツェーが選んだ「詩のアンソロジー」がやってきた!

「アリアドネの糸」という意味をもつアルゼンチンの出版社から出た分厚いアンソロジー:『51 Poetas Antología Íntima』──J・M・クッツェーが選んだ51人の詩人たち。古典から、比較的新しい時代の詩まで。無名の伝承詩もある。オーストラリアのアーネムランドの先住民に伝わるらしい歌「Moon-Bone Cycle/月の骨サイクル」(正直、どう訳したらいいのかよくわからないが、これを歌いながら「土地」のメンテナンスをするのだろうか)もある。

 左ページにオリジナルの言語、右ページにスペイン語訳がついている。下段の註もスペイン語。猫に小判とはこのことだけれど、ぱらぱらとめくっていくのは楽しい。スペイン語訳で出た12冊の「個人ライブラリー」の最終巻だ。前書き、註もクッツェーが書いたものがスペイン語に訳されている。贅沢な作りで、分厚い。600ページもある。シャルル・ボードレールは「Spleen 1-4」が選ばれている。もっぱら都会生活の憂鬱を謳う詩だ。アルチュール・ランボーは「酔いどれ船」か。ふむふむ。

10日ほど前、ゲラ読みの合間をぬって都心まで行ってきたのだ。しかし、あの日はちょっとくたびれて帰りの電車で貧血になってしまったけれど、なんとか家にたどりついた。でも、しっかり受け取ってきたのだ。はるばる運んでくれたKさん、Muchas gracias!

2016/04/08

「第4回 世界文学・語圏横断ネットワーク研究集会」のために

明日は本郷で「第4回 世界文学・語圏横断ネットワーク研究集会」が開催されます。明日のプログラムのタイトルは「南の文学」。そこで思い出すのは、昨年のいまごろ

  メトロポリスと周辺──J・M・クッツェーたちの挑戦

というタイトルでブログを書いたことで、そこではクッツェーがアルゼンチンのサンマルティン大学で開催する「南の文学」講座のことを紹介しました。そのとき、明日のコーディネーターをなさる柳原孝敦さんらに助けていただいて紹介したクッツェーのインタビューを、参考までにここに再掲します。

4月と9月に開かれるこの「南の文学」講座は、今年も第三回目が今月末に開催されるようです。

*****

「われわれ(の文学)がマイナー文学であるという考えに抵抗しなければならない」

2003年にノーベル文学賞を受賞した南アフリカ生れの作家、JMクッツェーはすでに何度もこの地を訪れているが、今回はアルゼンチンのサンマルティン国立大学で開催されるセミナー「南の文学」のディレクターをつとめる。大学院の授業として開かれるこのセミナーは、アフリカ、オセアニア、南アメリカの文学を横につないで「南の文学」を創造する試みだ。今日から始まるセミナーではこの三つの地域から作家、研究者、教師、文藝批評家が一堂に会する。第一回はオーストラリアの文学に焦点をあてる。参加するのはゲイル・ジョーンズとニコラス・ジョーズ。

セミナーについて、クッツェーは「クラリン」誌の質問にメールで次のように答えている。

Q:南の文学に共通する基本的な要素とは何でしょうか?


JMC:それはまさに、われわれがこのセミナーで答えたいと思っていることです。これらの地域の作家と文学研究者どうしの繋がりはあまり強くはないので、そのため英語を使う世界への影響が、北から南へという方向になり、南から北へはあまりない。この位置関係を今回のセミナーによって覆すことが願いです。

Q:以前あなたは「スイス人が言うには、スイス人であることはマイナーな存在であることを運命づけられている」と書きました。それはオーストラリア人にも言えることでしょうか? 中心以外の文学で「マイナー」でいられずにすむ文学というのはありますか?

JMC:メトロポリスの出身でないかぎり、そして一般的に、北のメトロポリスのことを語らないかぎり「田舎者」であり「マイナー」であると運命づけられるという考えこそ、われわれが抵抗しなければならないものです。

Q:植民地であった点で共通しているオーストリアと南アフリカで、植民地化の影響の類似点と相違点は?

JMC:オーストラリアの文化的生活に、かつての植民地権力であった英国がおよぼした影響は、20世紀半ばまで強力なものでした。それ以降は英国に代わって、特にアメリカのポップカルチャーが文化モデルになりました。しかし、最良のオーストラリア人作家は独自の立場から、みずからの声で語るようになっています。

Q:オーストラリア文学は「エキゾチックな」文学に含まれるのでしょうか? それともアルゼンチンのようにそれを拒否するのでしょうか?

JMC:世界文学(ここでは単一の「世界文学」ではなくて「世界のいろいろな文学」のニュアンス)というのは結局、北の大都市以外のところから出てくる文学を指す婉曲語法なので、オーストラリア文学も世界文学の一員であるなどと考える以前に、北のメトロポリスの文学とそうでない文学(地方的でマイナーな文学とされるもの)を区別する必要があるでしょう。

Q:中央と周辺という考えは、ヨーロッパの危機とグローバリゼーションと再定義してもいいでしょうか?


JMC:それは厄介な質問です。グローバリゼーションとは概念として、中央と周辺のあいだの対立を超越するもののように見えながら、実際は「北」がみずからを中心と見なし「南」を周辺と見なしています。


2016/04/01

緋寒桜のひよどり

ピーヨピーヨと緋寒桜でひよどりが啼いて、3月が過ぎていきました。ピーヨピーヨと啼きながら、ひよどりは桜の花芽も、わたしの気鬱もつんつんとついばんでくれたようです。「水牛のように」に詩を書きました。


緋寒桜のひよどり


ここ東京郊外の丘の上でひよどりの声を聞きながら思うのは、遠い北の土地で起きたいくつもの出来事。そして揺れる緋寒桜を見ながら想像するのは、浅い歴史のなかで生起した家族の物語。

数年前に撮ったユキヤナギ
 それにしてもここ数ヶ月、胃痛やらなにやら木の芽どきに特有の体調不良に悩まされてきたけれど、4月の声を聞いたとたんにすっきりして、みんなどこかへ行ってしまったような気がする。
 気がするだけかもしれないよ──と身体の奥から微かなさささやき声が聞こえてくる。そうか、ひょっとしたら騙されているのかな? だって今日はエイプリールフールだもの。

 窓の外の緋寒桜の花も盛りを過ぎて、黄色い葉芽がちらほら出てきた。遠くに見えるユキヤナギの純白の花は、いまが盛りと、流れるような花枝を伸ばしている。春がやってきた。