2014/07/20

そぞろに不思議な読後感 ──藤原辰史著『食べること 考えること』

 タイトルにあるように「食べること」をめぐって真摯に考えた文章がならんでいる。農業思想史、という学問をする人のことばなのだが、机上の理論ではない。農作業の現場で体験した肉体疲労と身体疲労の違いとか、豪雪でかしいだ墓石を立て直す作業が残した「嫌な感じ」とか、痛みを感じる身体「感覚」からの出発がまずこの人の思考の原点にある。それはある種の切なさでもあって、この人のことばが信頼できる鍵となっている。

 そぞろに不思議な読後感──読んだあと、そんなことばがふと脳裏をよぎった。どんな意味かというと、記憶がゆさゆさと揺さぶられたのだ。著者、藤原辰史さんはわたしの息子と1歳しか違わない。なのに、まるでわたしが1950年代にすごした北海道の田舎のくらしとそれほど変わらない生活を体験的に描いてみせる。そのことにまず驚いた。

 歴史的に日本の農業が近代化される過程でどのような変遷をしてきたか、それによって社会がどう変化し、食べることや、労働や、家族関係を含む人と人の関係がどう変わってきたかに切り込む視点が鮮やか。日本だけではなく世界規模で動いているいまの経済システムのなかで、植民地と搾取の歴史的視座をぱっと透視する契機をも視野におさめながら──目の前のハンバーガーから見る者の位置がすうっと後ろへ引かれて、世界史的脈絡のなかに位置づけられ──それぞれのシーンがまるで早回しのスライドショーのようにくり広げられるのだ。

 なんといっても強烈な印象を残すのは、台所だ。彼が育った家の台所風景は、わたしが生まれて育った最初の小さな家の台所風景や、次に一時的に住んだ借家にあったタイル張りの流し(システムキッチンのシンクではなく、皿を落とすと粉みじんになるタイルの流しだ)を突然、記憶の底から引っ張り出した。蠅がびっしり貼り付いた蠅取り紙。台所の窓の向かいの牛舎からたちのぼる臭気。スライドショーのシーンの一つひとつが、細部をリアルに想起させながら、記憶の引き出しを開けてしまったのだ。さあ、どうする。

 著者は『ナチスのキッチン』(未読です)という著書で第一回河合隼雄賞を受賞した人だ。有機農法という循環農業の方法についても、無農薬野菜を育てる農法はナチス思想のなかから生まれたのだと、目からうろこの指摘をする。

 日本の農業経済を近現代化の歴史と重ね合わせた切り口で描いてみせるその文章からは、これまで自分でも思っても見なかった風景が(「雪印」の歴史的意味や満州移民のイデオローグなど)、細部をたっぷりと喚起する早回しの物語となって、ありありと立ち上がってくるのだ。面白くないわけがないじゃないか。

藤原辰史『食べること 考えること』(散文の時間)共和国刊、定価2400円+悪税

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2014.7.20付記:朗読劇「銀河鉄道の夜」を観て考えたこと→→宮澤賢治という人と彼の仕事について、もう一度、近現代日本における農村ユートピア思想、というか、農民ユートビア思想というか、ベクトルの方向を含めて、じっくりと批判的に再考してみたい思いにかられた。