2014/02/02

ことばを「言葉」と書かない宣言


「ことば」を「言葉」と書かないことにした。

「言の葉」は水に流れて消えてしまう。いま目の前を通り過ぎれば、それで終わり。赤、紅、黄色の病葉とともに「水に流して」それで終わり。

 日本語のことば、は定義が実にあいまい、ヨーロッパ言語とくらべると、ニュアンスだらけ。彼らの「定義づけ」の安定が支えてきたもの=たとえば英語なら、ニュートン以来の純化された自然科学用語に始まる、法律、思想、哲学などなど、を日本は近代化の過程で「言の葉」にのっけてきた。

 その結果、その中身の重さに耐えられないでいるのか? 
 それをいま「われわれ/?」は目の前にしているのか?
 この地震大国で。原発がいくつも解けて、放射能が消えない世界で。なにもかもなかったことにして、見えないようにしようとして、、、Out of sight, out of mind.....と。
 
 まったく逆にクッツェーなどは(とまたクッツェーの話になってしまうが/笑)南部アフリカで用いられる言語の、白黒のコントラストの明確さに辟易して、作品に使われることばに込めたニュアンスを読み取ってほしい、と常々思ってきたようだけれど。。。。

 たとえば、南アフリカでアパルトヘイト時代に用いられたディスクールのあまりの融通のきかなさに苛々して、文学をあくまで「闘争の武器」とする解放運動の狭い視野に苛々して、ケープタウンで1987年に開かれた Weekly Mail のBook Week で読んだ文章で、ベケット風の無機的くり返しをやらかしたクッツェーは、スピーチ内にゴキブリを登場させて人びとの怒りを買った、、、、「The Novel Toddy」。

 日本はその真逆だな。ことばを、ずらし、ぼかし、響かせ、感じ取らせる妙技にかけてきた長い歴史のなかで、そのバックグラウンドそのものが危うい。というより、正念場にいたって歯止めがかからないのだ。
 憲法まで含めて、法律なんていかようにでも解釈できると考える政治家たちに、なぜ裁判所は異議を唱えない? 定義があいまいだと、あいまいなまま法律もなにもかもスルーさせてしまう、この土壌は?
 「空気読む」というのがその代表例か?
 はっきりモノを言うと、田舎者、ダサイ、と言われつづける......

「ことば」を「言葉」とは書かないことにした。

 葉っぱのように風に吹き飛ばされてしまわぬよう。朽ちてしまわぬよう。水に流されてしまわぬよう。ひとりの日本語使用者のささやかな抵抗として。

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写真はネット上から拝借しました。あしからず。