2012/12/30

Acoustic Africa ── 雨の日に資料を整理しながら

 今日は思い切って、1988年から89年にかけて反アパルトヘイトの運動に少しだけかかわったときの資料や手紙類を整理した。1989年1月に国連の会議に出席するため、ジンバブエのハラレまで旅したときの手紙類、会議で出会った南ア人から託された南アフリカ国内難民の写真、それといっしょに新聞に書いた記事など、ダンボール箱いっぱいの黄ばんだ紙類から、保存するもの、捨てるもの、区分けして大量の紙を資源ゴミへ。
 国内難民/inner refugee という言葉をこのとき初めて知ったけれど、いま、福島から避難している人たちは、それまで住んでいた場所に住めなくなるという意味で、まさに国内難民にちがいない!

 なつかしい名前、手紙、侃々諤々の論争になったポストカード、20年以上も前の写真は自分の顔もまったく別人のように思える。町田で開かれた会のあとのダンスパーティで、当時のナイジェリア大使とその夫人(じつに美しい人だった)が踊っている写真もあった。いっしょに連れていった末の娘はまだ小学生になったばかり。

 88年、89年、日本は、世界中からアパルトヘイト撤廃のための「経済制裁」を受けた南アフリカとの貿易額が世界一になって、国連総会で名指しで非難された。アパルトヘイト政権下の国を視察して「この国には人種差別等ない」と明言したのは先ごろ都知事を辞めた人だった。あのころは国会議員で、南アの国会議員とともにつくった友好議員同盟の日本事務局長をつとめていたんだ。忘れない。

 日本反アパルトヘイト委員会が、ネルソン・マンデラをはじめとする獄中にある政治囚(とりわけ子どもたち)の解放をもとめ、不名誉きわまりない「名誉白人」を返上したいと、連帯の思いを込めて「WEEKLY MAIL」に出した意見広告も出てきた。南アフリカで検閲制度とたたかいながら情報を掲載していた週刊新聞、日付は1988年7月15-21日。メッセージのあとに、賛同者の名前をアルファベットでつづっていく形式だ。

 さまざまな記憶がよみがえるなかでCDをかけた。Putumayo Presents ACOUSTIC AFRICA (2006)、2年半ほど前にここでも触れたけれど、雨の日に部屋にこもって聴くのもいいな、とあらためて思う。