2009/09/05

美味しい読書──佐野洋子

昨年春に出た『シズコさん』は圧巻だった。母親との確執を、息つかせずに読ませる内容だった。この本で佐野洋子はそれまでにない読者層をつかんだように思える。

 その直後に出た『役に立たない日々』もまた面白かった。笑って読んだ。過去に出たエッセイ集もどんどん文庫化されているようで、嬉しい。個人としての人間の来し方、行く末をしみじみ考える。そして、元気が出る。

 今年になって出た、新しいエッセイ集『問題があります』を、少しずつ楽しみながら読んでいる。

 かつて佐野洋子は、自分には文体はひとつしかない、と発言した。しかし、なぜこれほど心打つ文章を彼女が書けるのか、考えてみると、それは身を削って生きてきた彼女自身の存在を惜しみなく読者に見せてくれるからかもしれない。書くことでさらす、そのことに賭ける潔さを感じるのだ。しかし、最初からそこまで到達していたわけではない。
 佐野洋子が最初に発表した、絵本以外の書物『わたしが妹だったとき』には、みずみずしい子どもの感情、感覚が、みとごに結晶化されていた。『右の心臓』もまた、ヤングアダルト向けの本とは思えない、深く心打たれる文章だった。だが、ここ数年のような凄さはなかった。

 ある時点から彼女は変わった。この絵本作家のかぎりなく簡潔な、てらいのない文体は、人間の虚飾をざっぱり切り捨て、核心に一気に迫るようになった。くりかえし語られる自分自身の生きてきた軌跡が、不器用なまでに鍛え抜かれたことばによって、読者の心をわしづかみするようになったのだ。こざかしい器用さがまるで感じられない。単刀直入、大陸的といえば大陸的。彼女が戦中生まれ育った、北京や大連と関連づけられそうだが、そういうお決まりのレッテルにはおさまりきらないものが、彼女の作品からは立ちのぼってくる。そこがすごい。

 それは、これまでの「推し量る」ことを美とする日本の文化にはなかなか育ちにくかったものであることも、おそらく、間違いない。狭い集団内のことば使いからははじき出される体験によって培われた感覚、まさに一種のクレオール的姿勢がこの書き手には見られる。それは、真実を書こう、伝えよう、とする姿勢に貫かれているためであることもまた、疑いえない。