2009/01/07

アミラ・ハス──私の両親は生きてこれを見ずにすんで幸運だ

私の両親は生きてこれを見ずにすんで幸運だ

ハアレツ紙/Last update - 02:13 07/01/2009
アミラ・ハス

私の両親が死んでいて幸いだ。1982年、レバノンのパレスチナ難民キャンプ上を飛びまわるイスラエルのジェット戦闘機の騒音に、両親は耐えられなかった。テルアビブの自家にいても、キーンという飛行機の音に彼らはぞっとしていた。見なくても分かる、と彼らはいった。

そのときはそんな調子だった。そしていまはどうか。姉がノートに絵を描いているテーブルに素早くのぼってのぞき込む2歳のシャム、笑うと前歯のすきまが見える5歳のタイーヴ、大好きな絵本を抱えた6歳のカルメルのことを、私から聞いてどう思うだろうか。この子たちのまわりで世界が爆裂している、何度も、何度も、わずか10メートル、5メートル先のところで。もう10日も、分刻みの恐怖だ。分刻みの恐怖は、分刻みの死でもある。それに150万を掛け合せてみるといい。

私の両親は毎日の活動をすべて嫌悪していた──珈琲に砂糖を入れること、皿を洗うこと、横断歩道に立つこと──彼らの心の目に、それまでの個人的な経験から、子どもたちの目のなかの恐怖心、幼い子どもを守ってやれない母親の絶望、巨大な爆発音が住人の頭上に落下して高性能爆弾が家族全員を爆死させる瞬間が映るからだ。サルメフの母親はいう──「[不安な眠りから]目が覚めると驚くんです。自分がまだ生きていることがまったくの偶然だとわかっているから」

70歳にもなったウム・カーリドのことを私から聞いて、両親は毎日の日課にどう耐えられただろう。シャブラ難民キャンプの一角にある、閉め切ったコンクリートの部屋に爆弾が落ちて、市民が2人死んだ。なかが空洞のコンクリ建ての何十軒もの家が徹底的に破壊された。ウム・カーリドの頭から数センチのところにアスベストの屋根が一枚落ちた。半キロほど離れた娘の家に「避難した」のは、新しい家のほうが安全かもしれないという幻想からだ。「いまはもう、おまえたちに何かが起きる前に私は死にたい」と子どもたちに向かって、彼女はくり返す。

いま流行の洗練された言語表現が捻出される以前から、私の両親は「ガラリヤにおける平和のための戦争」とか「公共の秩序を乱すもの」といった表現に吐き気を感じていた。「公共の秩序」なるものが「占領」を意味し、「乱すもの」とは「それへの抵抗」だったのだから。秩序というのは、ユダヤ人がその権利を主張するものをパレスチナ人がもつことを妨害することなのだ。エフード・バラクとツィピ・リヴニが、自分たちはパレスチナ人にはまったく敵対していないと説明するのを聞かなくて、イスラエル政府の閣僚事務官が、人道上の危機はまったくない、それはハマスのプロパガンダにすぎない、と説明するのを耳にせずにすんで、両親はなんと幸運だったか。嘘であると認識するため、水道が5日以上も止まっている人々の名前を知る必要もない。爆撃のことなんか忘れろ、電気のことも、食物のことも、眠ることだって、忘れろ。でも水がないのは? 海から、陸から、空から爆撃されて、人々は市営の水道蛇口まで飲料水をくみにいくことさえできずにいる。かりにだれかが屋内で流水を手に入れても、それは飲むことはできない。

みずから経験したことのために、鉄条網のフェンスに囲われた狭い地域内に人々を閉じ込めることがどんなことか、私の両親は熟知していた。1年、5年、10年。1991年からだ。両親は好運だ。こんなふうに閉じ込められた人たちが、イスラエルと合州国の輝かしい軍事テクノロジーを用いた爆撃を受けるところを、生きて見ずにすんだのだから。「大至急ここにムハンマド・エル=バラダイ*を招いて、私たちが核兵器を保持していないことを証明してもらわなければ」と著名な喜劇俳優、リヤドは爆撃のなかでさえいう。しかし土曜の夜、彼はひたすら「むずかしい、むずかしい」といって電話を切った。

私の両親はその個人的な歴史ゆえに、ニュース番組の司会者がリラックスして夜間外出禁止令について述べたようすを嫌悪しただろう。両親がここにいなくて本当に幸運だ、コロセウムのなかで怒号をあげる群衆を目にしなくてすんだのだから。


* IAEAの事務局長(エジプト)、原子力の軍事目的使用を防止した努力が評価されて、2005年ノーベル平和賞受賞。
<訳注/ハスの両親は、ヨーロッパ・ユダヤ人の絶滅をもくろんだ第二次世界大戦時のホロコーストを生き延びた人たちでした。>

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今日のもう一つのハスの記事(共筆)はトップ記事:
http://www.haaretz.com/hasen/spages/1053418.html