2008/07/03

六月のみどりの夜は──安東次男詩集より

かこまれているのは
夜々の風であり
夜々の蛙の声である
それを押しかえして
酢のにおいががだよう、
練つたメリケン粉の
匂いがただよう。
ひわれた机のまえに座って、
一冊の字引あれば
その字引をとり、
骨ばつた掌に
丹念に意識をあつめ
一字一劃をじつちよくに書き取る。
今日また
一人の同志が殺された、
蔽うものもない死者には
六月の夜の
みどりの被布をかぶせよう、
踏みつぶされた手は
夜伸びる新樹の芽だ。
その油を吸つた掌のかなしみが、
いま六月の夜にかこまれて
巨大にそこに喰い入つている。
目は頑ななまでに伏目で
撫でつくされ
あかじみて
そこだけとびだしてのこつている
活字の隆起を
丹念にまだ撫でている、
それはふしぎな光景である
しかしそのふしぎな光景は
熱つぽい瞳をもつ
精いつぱいのあらがいの
掌をもつている、
敏感な指のはらから
つたわつてくるのは
やぶれた肉に
烙印された感触、
闇にふとく吸う鼻孔から
ながれこんでくるのは
はね返している酢の匂い、

五躰は
夏の夜にはげしくふるえている、

かこまれているのは
夜々の風であり
夜々の蛙の声である、
それらのなかで
机は干割れ
本や鍋や茶碗がとび散つて
それにまじつて
酢で練つたメリケン粉の
匂いがただよう、
いまはただ闇に
なみだ垂れ、
ひとすじの光る糸を
垂れ、
あわれ怒りは錐をもむ、
やさしさの
水晶の
肩ふるわせる……
そんな六月のみどりの夜は
まだ弱々しい。
        (1949・5・30事件の記念に)

                定本『安東次男著作集第1巻』より

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7月7日は、わたしが日本語の師と仰ぐ、故安東次男氏の誕生日です。
それにちなんで、この詩人の代表作といわれる詩をいくつか書き込みたいと思います。これは幻視の詩人、安東次男の第一詩集の表題作。「1949・5・30事件」というのは、この日、都議会で公安条例制定反対のデモ隊3千人が警官隊と衝突し、1人が3階から落下して死亡した事件のことです。