2008/07/02

わたしのジャズ修業(1)──樽

 ジャズを聴きはじめたのは1969年の秋ごろだったように思う。4月に入学した大学が、あれよ、あれよ、というまに全学ストライキに入り、授業がまったく行われなくなってから、ほぼ1年がすぎていた。この1年間は、いま振り返ってみても、わが人生における最大の混乱期のひとつであったと思う。
 北の田舎に帰っても、やることがなく、「現場」から引き離されているというもどかしさに、すぐに東京に舞い戻った記憶がある。授業がないので、この期間はすべて独学。なにを学んだかというと、授業ではやらないことのすべてだ。それが現在にいたるまでの人生の基礎、わたしの原型を形づくった、といっても過言ではない。そこで出会ったもののひとつ、それがジャズだった。

 「スイング・ジャーナル」という分厚い雑誌に載っているジャズスポットの名前と電話番号、住所などを、茶色いリングノート(いや、スパイラルノートかな)の裏表紙にびっしりと書き出し、まず山手線と中央線の駅近辺から、手当たり次第にのぞいていった。独りで行動した。あのころ、映画も、ジャズも、本屋も、よほど気のあう仲間でなければ、いっしょに行くということはなかった。なんでも、たいていは独りでやった。そこで自分がまず、なにを聴き、なにを感じたか、それをことばにすることに全力をあげたかった。他人の感想に耳をかたむける余裕がなかったのだろう。

 新宿のピットイン(表の店と裏のライブスポット)、DIGとDUG、アカシア(なぜかロールキャベツが名物)、渋谷のスウィング、デュエット、ついでにホーローびきのカップで珈琲が出てきたブラック・ホークも、お茶の水のNARU、四谷のイーグル、神保町の響とコンボ、新橋の裏通りのビル6Fにあるジャンク、吉祥寺のファンキー(ここはフロアによってかける音楽がちがって、4Fがヴォーカルだったと思う)、ロックが多いビバップ、あちこちのぞいてみたあと、肩の凝らないスポットを見つけた。立教通りの「樽」という店だ。

 池袋から外側へ歩いて30分ほどのところに住んでいたので、大学までの道すがら、ちょっと立ち寄ることができた。そんな利点もあったけれど、毎日のように通ったのは、その店にはとても素敵なウェイトレスのお姉さんがいたからだ。もの静かで、成熟した大人の雰囲気を醸し出しながら、わたしがいつも独りで入っていくとニコッと笑って、つっぱった感じの女学生に決して反感を抱いていないことを伝えてくれた。(当時は、ジャズ喫茶へ独りで入っていく女学生というのは、きわめてまれな存在だったのだ。女性客は、たいていは男性に連れられてやってくるか、面白半分に連れ立って入ってくるケースが多かった。)
 その店はレコードをじかにかけることもあったけれど、カウンターの横に大きなTEACのオープンリールデッキが設置されていて、銀色のリールが2個ゆっくりとまわっていた。音はすばらしかった。珈琲のおかわりが半額、というのもよかった。読みかけの本をテーブルに出して、2時間ほどねばるのが常だった。(つづく)