チママンダ・ンゴズィ・アディーチェの『男も女もみんなフェミニストでなきゃ』(河出書房新社)が出たのは2017年の4月だった。あれからもうすぐ4年。
まだ4年とみるか、もう4年とみるか、人それぞれでずいぶん違うかもしれないけど、4年前にこの翻訳書を出すとき自分が考えていたことと、いま感じていることの差に呆然とする。4年前の3月末、見本ができてきて、これは家族みんなにプレゼントしなきゃ、と思って息子、娘、夫の妹、などに手渡したことを覚えている。ちょっとドキドキしながら。そう、「フェミニスト」という語を見て、みんなどんな反応をするかな、とドキドキしながらだったのだ。でも、あれから4年がすぎてみると、フェミニストという語はとりわけドキドキするような語ではなくなった。どこにでも出てくる。別に特別なことばじゃなくなった。すごい変化があったということだ、この4年間に。
本が出た年の5月末、B&Bで作家の星野智幸さんと「"フェミニスト"が生まれ変わる」というイベントをした。このときもまだドキドキは続いていた。なぜ We Should を「私たちは〜」と訳さずに、あえて「男も女も〜」と訳すことにしたか、そのときも話題になった。あのころは、「私たち」とすると、そこに男性読者が自分も含まれていると当たり前のように、すっと感じるだろうか? その疑問が、当時は避けて通れない「重たい」課題だったからだ。自分には関係ない、と素通りする男性が圧倒的に多いだろう、と訳者も編集者も考えた。それは絶対に避けたい、そう思った。
次々とセクハラ事件の被害者が声を上げたのはこの年だった。夏になって、神田でイベントが開かれたときの熱気もすごかったけれど、じわじわじわっ〜と広がっていった「フェミニズム」という語へのポジティヴな動きは、翌年12月にチョ・ナムジュ『1983年生まれ、キム・ジヨン』(斎藤真理子訳・筑摩書房)が出て決定的なものになった。一気に火がついた。それまでにもいろんな本が出ていて、勢いは野火のように広がっていった。2019年春にはフラワーデモが始まった。
どれだけ、これまで、みんな、ガマンしてきたんだろう。どれだけ、これまで、みんな、思っていても言えなかったんだろう。どれだけ、これまで、みんな、ことばを奪われてきたことに気づかずに生きてきたんだろう。気づいてことばを発しても、無視され、変人扱いされ、後ろ指さされてきたんだ。。。
さまざまな思いが駆けめぐる。そしていま、バックラッシュと言われようが、なんと言われようが、これはもうそんな一過性のものじゃないんだと、多くの人たちが思っている。大きく何かが変わった。風穴があいて、シフトが変わった。認識を改める時期にきたのだ。風向きだけじゃない。大地に亀裂が走って、川がザンブリと波打って、この流れはもう止まらない、止められないところへやってきたのだ。マグマのように意識の下で燃えるもの。
ようやく。
この4年間にいろんな本が出た。韓国の文学が多いけれど、それだけじゃない。説教したがる男たちの「マンスプレイニング」を白日の元に晒した名著とか、男性が自分の「男らしさ」を検証する本も出るようになった。まだまだこれから、だけど。
2017年5月のイベント@B&Bは「すばる」に掲載されて、「ハッピーなフェミニスト」としてウェブで読むことができる。We shoudを「私たち……」と訳しても、男性読者がそれは自分のことでもあると思う日がくるといいなあ、と思ってから4年。いまなら「私たち」と訳してもいいだろうか、いいような気が「ちょっとだけ」している。
この4年間の変化は大きい。ジェンダー指数が低い日本社会にも、ようやく春がくるだろうか。。。もう引き返すことはできない。後ろはないのだ。崖っぷちまで全員が来てしまったのだ。そう、「私たち」「男も女も」「女でなくても男でなくても」みんなが。
昨日、『男も女もみんなフェミニストでなきゃ』の何度目かの重版見本が届いた。