5月末にオリジナルである英語版に先駆けて出た拙訳、J・M・クッツェーの『モラルの話』(人文書院刊)の本格的な書評が出ました。書き手はなんという偶然!『鏡のなかのアジア』で快進撃をつづける作家、翻訳家の谷崎由依さん。配信は共同通信です。(写真はまだ部分ですが、いずれ全文をアップします!)
心に響いた箇所をいくつか書き出してみると:
最初の短編「犬」について──「主人公の女性が前を通りかかるたびに猛烈な勢いで吠えたてる」その吠え声が、ノイズとして全編を通して響いている、という指摘に、深くうなずく訳者。
そして、主人公のコステロについて「舌鋒鋭く世のなかを批判するが、もう老いており、かみ合わない会話に困惑する子どもたちは、母親をどうやって世話していくのか考えている」とストーリー展開をざっくりと示しながら、「文学や哲学の考察が、人生のもっとも生々しい問題と結びついていく」と作品の全体像をほぐしていきます。
瞠目するのは、「女性が主人公の作品ばかりなのに、むしろ気づくと男性性について考えさせられている」というところ、唸りました。鋭い!
クッツェーが90年代からフェミニスト作家エリザベス・コステロというキャラクターを使って書いてきたものは、さまざまなテーマを議論の俎上にのせながら、この「男性性」を浮上させるための仕掛けにほかならなかったと、いまさらながら思うのです。
オクスフォード大学の若手研究者ミシェル・ケリーは、「ひとつの男の哲学」へ奉仕する?──Serving'a Male Philosophy'? (註あり)──というタイトルの論を展開していますが、確かにそうかも。これはクッツェーという男の作家がフェミニストの女の作家になってみる試みですから。でも、この試みは画期的な領域をも開いていく。カウンター・エゴとしてのコステロを生み出したクッツェー自身が「コステロを統御できたことはない」と、先日のスペインのセッションでも語っていました。この辺が興味のつきないところです。
書評にもどると、「自己陶酔は一切ない。読んでいるとつらくもなるのだが、ある一点を超えると頭がさえ渡ってくる」という指摘は、この作品の最大の特質をみごとにいいあてています。そう、一点突破すれば、ものすごい場所に出るのです。
そして「違和感と違和感とがつながって、この世界を取り巻く事象の何かが見えてくる。驚くほどの明晰さで」という結語によって着地。
この限られた文字数のなかで、なんといっても光るのは、作品の骨太のテーマを精査する眼力と探求の鋭さであり、目眩まし的な「見立ての奇抜さ」という主観枠にあてはめることなく、どこまでも作品自体に即して読みほどき、やわらかいことば遣いで作品の核心部分へ肉薄する力量です。Muchas gracias!!!
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2018.8.3──ちなみにこの"serve a male philosopy"という表現は、クッツェーの著書 Elizabeth Costello(2003) のなかに出てくる表現(原著p14)でもあって、そこで話はまたねじれてさらにややこしくなるのですが。