2016/06/17

ゲスト:ぱくきょんみ × 清岡智比古

イベントまで1カ月を切りました。7月16日(土)の夕方、豪華ゲストでお送りします。

「黒い女たちの影とともにたどる旅──ボードレールからクッツェーまで」
   くぼたのぞみ著『鏡のなかのボードレール』(共和国)刊行記念

日時:7月16日(土)午後6時半〜8時半  
場所:下北沢 B&B
出演:くぼたのぞみ × 清岡智比古 × ぱくきょんみ

                 
<B&Bサイトからの転載です>
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 最近もコミックのタイトルに使われ、いまなお読み継がれているシャルル・ボードレールの詩集『悪の華』。詩人の生涯の恋人ジャンヌ・デュヴァルは黒人と白人の混血で、カリブ海の出身といわれています。『悪の華』に収められた「ジャンヌ・デュヴァル詩篇」から彼女の痕跡や詩人との関係をたどり、時空を超えたスパンから《世界文学》として新たに『悪の華』を読み直そうとしたのが、くぼたのぞみさんの初の散文集『鏡のなかのボードレール』です。
 その筆先は、これまで日本で受容されてきた数々の『悪の華』の翻訳・紹介をひもとき、さらに J. M. クッツェーの『恥辱』へと視界を開いていきます。そして、ジャンヌを主人公にしたアンジェラ・カーターの傑作短篇「ブラック・ヴィーナス」を訳し直し、大西洋を縦に、横に渡った複数の「ジャンヌ群像」を浮上させます。

 今回のイベントでは、ゲストとして、くぼたのぞみさんと80年代から同人仲間だった詩人のぱくきょんみさん、学生時代シュルレアリスト詩人デスノスを研究したフランス文学者・詩人の清岡智比古さんのお二人をお招きします。フランスや韓国、日本における歴史的に見た文化の混交と多様性から、ボードレールが日本の現代詩にあたえた影響まで、肩の力を思い切り抜いて大胆に、楽しく語っていただきましょう。

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くぼた のぞみ
1950年生まれ。翻訳家、詩人。藤本和子編集の北米黒人女性作家選に刺激されて翻訳を志す。おもな著書に、『記憶のゆきを踏んで』(2014)、おもな訳書に、J・M・クッツェー『マイケル・K』(2015)、同『サマータイム、青年時代、少年時代』(2014)、マリーズ・コンデ『心は泣いたり笑ったり』(2002)、チママンダ・ンゴズィ・アディーチェ『アメリカーナ』(近刊)など多数。

ぱく きょんみ
1956年生まれ。詩人。和光大学ほかで講師。主な著書に、詩集『何処何様如何草紙』(2013)『すうぷ』(2008)、エッセイ集『いつも鳥が飛んでいる』(2004)、絵本『れろれろくん』(2004)、訳書に、ガートルード・スタイン『地球はまあるい』(2006)、共著に、『ろうそくの炎がささやく言葉』(2011)、『女たちの在日』(2016)など多数。

清岡智比古
1958年生まれ。詩人、明治大学教員。NHKフランス語講座の講師もつとめた。都市と詩の交差領域から出発し、最近は映画や移民問題へと関心を広げている。おもな著書に、『パリ移民映画』(2015)、詩集『きみのスライダーがすべり落ちる その先へ』(2014)、『エキゾチック・パリ案内』(2012)、『東京詩』(2009)など多数。

2016/06/12

ジャンヌ・デュヴァルの肖像

今朝の毎日新聞に『鏡のなかのボードレール』の広告が載りました。イラストはシャルル・ボードレールが記憶をもとに、愛人ジャンヌ・デュヴァルの姿を描いたデッサンです。こうしてみるとジャンヌの表情ってものすごく人の視線を惹きつけるものがありますねえ。
 ボードレールは自分の自画像も描いているんですが、その目つきもまた異常に鋭い。拙著『鏡のなかのボードレール』では口絵として、ジャンヌとシャルルのポートレートが見開きページに掲載されています。いずれも迫力のあるデッサン。さすが美術評論家でもあった「見る人」ボードレールの面目躍如です。

 偶然ながら、ジャンヌの姿勢が(トルソのみですが)右端の女の子の立ち姿とほとんどいっしょ、というところが.........🌴!


日曜の書評欄の下に、こんなふうに、いくつかの出版社が共同で広告を出すのって斬新! 文字だけよりアピール力が断然アップしていて、とてもいいなあと思います。

2016/06/09

『鏡のなかのボードレール』は今日発売です!

鏡のなかのボードレール』が今日、発売になりました。

 みほんができから、ほぼ1週間、ついに店頭にならびました。お近くの本屋さんにない場合でも、注文すれば数日で届きます。直接、版元の共和国までご連絡くだされば、もっと早くお手元に届くはずです。

 7月16日(土)夕方にイベントも企画中です。ゲストがとっても豪華。詳細はもうすぐお知らせできると思いますので、楽しみにお待ちください。


「境界の文学」というシリーズの第一弾なんだけれど、この「《世界》をゆさぶる新シリーズ」って背文字が、すごいな! Shake! Shake!


2016/06/07

クッツェーの創作プロセスを探るアトウェル


デイヴィッド・アトウェルがその著書『J.M.Coetzee and the Life of Writing──face to face with Time』についてインタビューに応えている中身が、とても面白いので、その続きを。

──この本のサブタイトルに、face to face with Time とありますが、どういうことですか?
DA:このフレーズは『マイケル・K』のある草稿から採ったものです。マイケルはスヴァルトベルク山脈に逃げ込んで、ここまでくればもう追っ手は自分を探し出せないと思ったとき、「これでついに俺は時間と差し向かいだ」と考える。クッツェーが人間の存在と向き合う方法としてフィクションをどのように使っているかを論じるために、僕はこのイメージを使いました。

──あなたの書いた本は、伝記とどう違うのですか?
DA:伝記作家は作家を包装して棚に飾ります。作家の作品を小さくまとめて個人生活にしてしまうことも多い。クッツェー自身、一度、伝記作家というのは作家が書いていないとき何をしているかについて書くんだと指摘していたことがありました。僕はちょっと違うことをしようと思った。生活ではなく、作品から始めることで、つまり、どのように作家の人生が変形されて作品内に具体化されていったかを見ていった。

──クッツェー作品を通して、彼のどんな内面が、どのように把握できるのでしょう?
DA:クッツェーの一般的イメージは、厳格で、よそよそしく、感情を顔に出さない、それに、つまらないやつには手厳しいというものです。彼の書いたもの(原稿類や出版された小説)からわかるのは、彼が傷つきやすくて、間違いもやるし、不安症だということです。とはいえ、クッツェーほど自分に厳しい人はいない。自分自身への要求は信じがたいほど厳しく、自己統制と、自分の仕事へのコミットは半端ではありません。

──アトウェルさんはこの本を、どうのような読者を想定して書いたのですか?
クッツェーとアトウェル 2014
DA:クッツェーの小説を読んだ人なら誰でも、もっと知りたいと思う人は誰でも読めます。批評家は、これは役に立つ内容だと思うでしょうが、僕はあくまで一般読者に向けて書きました。いちばん得るところが多いのは、たぶん、作家たちではないかと思っています。どんなふうに作品が書かれたのか、彼らはとても知りたいでしょうから。

──作家が書くプロセスについて書いたわけですね、アトウェルさん自身、そこからご自分の書き方について何を学びましたか?
DA:自伝を書きたいという欲求は、あながち悪い出発点ではないということです。クッツェーはほとんどいつも個人的なことから書き始めています。そのあと徹底的に文章の練り上げをやります──何度でも書き直す──書き直しの回数たるやすごい。

──クッツェーとその小説に対する考え方がどう変わりましたか?
DA:学生時代に彼の最初の小説『ダスクランズ』を読んでから40年ものあいだ、僕はクッツェーのフィクションの賞賛者でした。(ついでにいうと『ダスクランズ』は植民地主義がテーマ、というか、脱植民地主義を舞台化したものだといったほうがいいでしょう。読破にはちょっと胆力が必要ですが、扱われている暴力は現在に通じるものです。)長年のつきあいで、僕は、クッツェーがたどった旅の、なにがしかを理解できたように思います。彼の作品のファンとして出発し、いまではさらに、彼が作品を生み出すにいたった創造性とそのプロセスを理解できるようになりました

2016/06/06

クッツェーの「ベケットに欠けているのは鯨だ」の意味

 J・M・クッツェー研究ではこの人の右に出る人はいないといわれるデイヴィッド・アトウェルの著書『JM Coetzee and the Life of Writing ──face to face with Time』がアラン・ペイトン賞の最終候補になっている。そのアトウェルのインタビューが Books Live に載った。気になったところを少しだけ訳してみる。

──この本を書いた動機は?
DA:エヴァ・コッセ(クッツェーのオランダの版元)から8年前に、短い伝記を書いてみないか、といわれたんです。クッツェーの自伝的作品の第3部にあたる『サマータイム』が出るのにあわせてね。その仕事に僕が向いているかどうか、ちょっと自信がなかった。最終的にはジョン・カンネメイヤーがじつに浩瀚な伝記を書いたわけですが、エヴァと僕はその後も連絡を取り合った。クッツェーの原稿類がテキサス大学で読めるようになったとき、僕は自分が書くべき本のことがわかった──それはクッツェーの創作過程の研究だったんです。

──クッツェーが南アフリカにいないことは、彼の作品に影響しているでしょうか?
DA:ええ、影響していると思います。南アフリカはわれわれを倫理的な面で非常に苦悩させますし、想像性もです。クッツェーはその不快感を利用して、読み手を引き込む、美しい小説を創造することができた。彼は奇妙にも一度、『白鯨』のハーマン・メルヴィルと『ゴドーを待ちながら』で名高いサミュエル・ベケットを比較しました。クッツェーは、ベケットに欠けているのは鯨だ、といったんです。その意味するところは、自分は精神的にはベケットに近いけれど、クッツェーは、とにかく自分には鯨がいるというのです。鯨とは危機の状態にあること、あるいは、歴史を爪の下に直に感じている、ということなんです。オーストラリアでの彼は、自分自身ともっと和解していて、そんな危機感はなくなりました。

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付記:「ベケットに欠けているのは鯨だ」とクッツェーがいったのは、ほかでもない、2006年9月末に彼が初来日したときの講演でのことだった。この講演は『ベケットを見る八つの方法』(水声社)に田尻芳樹さんの訳で入っている。
「鯨」が危機の状態のことだ、というのは2006年ではなく、2016年のいま、幸か不幸か、もっと現実味をもって理解できるようになったかもしれない。原発メルトダウン後にあらわになった、われわれの住み暮らす土地の危機として。

2016/06/01

『鏡のなかのボードレール』、見本がとどいた!


ボードレールからクッツェーまで、
黒い女たちの影とともにたどった旅の記録のよう。

なんだかとっても贅沢な美本にしていただきました。
Muchas gracias!