2015/11/27

2000年の J・M・クッツェーをふたたび

<2年前の7月にアップしたブログを一部加筆、変更して再掲>

2000年に晩秋のケープタウンで録画された動画を紹介する。



 オランダのテレビ番組として撮影されたものだ。語りはオランダ語、インタビューとクッツェー本人の話は英語だ。(なんと最初のダンスをするカップルは映画『シャル・ウィ・ダンス』からだ、と今日、気づいた。)
 1時間19分と少し長い動画だが、まだケープタウンに住んでいた2000年に、ジョン・クッツェーがインタビューワーのさまざまな問いに対して、ゆっくり考え、考え、表情ゆたかに、真摯に答えている。
 ケープタウンのホテルの部屋で語るクッツェー:美について、美と慰藉の関係について、愛における美とピースについて、気分が落ち込んだら料理をすること、そしてまたアパルトヘイトについて。ようやく過去のものとなったアパルトヘイトについてここまでことばを尽くして、平明に、正直に語るクッツェーは初めてではないか。『恥辱』を発表した翌年であることも興味深い。オランダのテレビで語っているという事実もまた。

 インタビューを受けるのは苦行ですか?──ええ。──なぜ? ──(沈黙)なぜならそこには内省/reflection がないからです。
 
 『マイケル・K』の最後のフレーズについて語り(ここで彼は非常にめずらしく、自作解説をする──「『マイケル・K』の最後のいくつかの文章は、自分でもその音楽がとても好きなのだが、それは驚くような、ハッピーで、美学的にも魅力的な結末をもたらしているWhen I think that the final sentences of Life and Times of Michael K, I very much like the music of these sentences, they bring the book to conclusion which I find surprising,  happy and aesthetically attractive, all the same time35:10」と述べている)、それからオランダ語版を朗読する。

ケープ半島のディアズ・ビーチ
そして、ケープ半島の岬近くのディアズ・ビーチで、冬が間近に迫った晩秋に、打ち寄せる波しぶきを見ながら訥々と語るクッツェー:この季節にしては穏やかな良い天気の日だが、ここの美しさは好天の穏やかなときではない。冬場はひどく荒々しい場所になる。この海岸線の美しさは穏やかなものではなく、ワイルドという語がいつも使われる。

 冷たい風に吹かれて、イノセンスについて、南アフリカという土地の自然と植民者たちの関係について、人間と動物の関係について、戦時中のポーランドの詩人ツヴィグニェフ・ヘルべルトについて、自然の美が癒しになることについて、南アフリカの厳しい現実との対比、容易ではない死・・・、作品行為と癒し、人のオリジンを、癒しを、あくまで自然のなかに見るクッツェー、書いていないときはどんどん落ち込むこと、また、人間という生物種について、死のない世界を考えることについて、天国を作り出した人間をめぐる話など、見ていて、聞いていて、興味が尽きない。オランダ語のナレーションが理解できないのがとても残念!

 60歳当時の──こうして見ると、すごく若々しい/笑──彼が、非常にリラックスした感じで、ことばを探りながら語っています。

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付記:田尻芳樹氏の翻訳でクッツェーの『世界文学論集』がみすず書房から出た。それを読んでいて、もう一度この動画を見たくなり、再度シェアすることにした。長いけれど彼の創作態度、ケープ半島地区への思いなどがじつによく伝わってくる。バッハの『平均律クラヴィーア』がかかるなかをディアズ・ビーチまで車が走る、その風景もいい。
 最初にシェアしたのは2013年7月、選挙の前日だった。あれから2年。まさに驚くほど大きな変化のなかに、この社会はある。

2015/11/08

2014年8月にクッツェーがコロンビアの中央大学を訪れたときの動画

昨年、2014年8月にコロンビアを訪れた J・M・クッツェーが、個人ライブラリーをアルゼンチンの出版社から出すことについて語っている動画です。スペイン語の通訳がついています。昨年のブログはこちら、そしてこちらで



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付記:2015.11.10──忘れないうちに書いておこう。
 クッツェーは最初にボルヘスの二つのライブラリー計画について述べながら、今回の自分のライブラリーがそれとはまったく異なることを説明する。(彼自身はアルゼンチンの出版社からこの企画の申し出を受けて12冊の個人ライブラリーを出すことになったそうだ。)
 クッツェーの個人ライブラリー12冊に名前のあがる作家はすべて、クッツェーがみずからの作家形成する過程で基礎となった作家の作品であり、完全にこの作家個人の好みで選ばれている。そこにはダンテもドストエフスキーもプルーストもいない。ドンキホーテもユリシーズもない。選ばれた作品はどれも、あまり広く知られているとはいえないもので、トルストイでいえば『戦争と平和』ではなく『イヴァン・イリイチの死』』だ。理由は自分の場合もそうだったように、読む人の「思想」に痕跡を残すよりもむしろ「考え方」に、さらには「書き方」に痕跡を残す作品を選んだからだとか。

 こうしてクッツェーは第1巻から第3巻まで、クライスト、ヴァルザー、そしてデフォーについて注目すべき点をあげていく。
 真っ先にあがるクライストはドイツ語で書く作家で、彼の文章の特質はエネルギー。クライストの文章には読者を有無を言わさずどこかへ連れ去る力があると。
 また、ロベルト・ヴァルザーはスイスのドイツ語で書く作家だが、スイスに生まれたというマイナー性から逃れようと一旦はドイツに向かうけれど、またスイスに戻って以来、ずっとスイスで書いた作家。この位置的、言語的辺境性と、ヴァルザー作品の主人公たちのマイナー性や、分割可能な作品構成にクッツェーは焦点をあてる。ここは非常に面白い分析だ。彼の書き方は自伝的であるが感傷的ではないとクッツェーは述べる。また、狂気は書くことの助けにはならないとも。
 最後にデフォー、彼は英語文学のカノンに入る作家ではなく、むしろアマチア作家といえる人である。ある時期に集中して作品を書いているが、その書き方は決して構成力や文章力を鍛えあげた書き方とはいえないが、実践的な才能をもち、社会生活をさまざまな面で具体的に経験していたゆえに、複雑な状況や人間関係の機微をすくいあげて言語化できる稀に見る知性の持ち主だった。結果として彼は作家として適切な時代に生まれたと。

 この調子で、カフカやベケットなども語ってほしかったけれど、残念ながら時間切れ。また、このライブラリーにはカミュやフォークナーも入れたかったが、著作権がクリアできずに入れることができなかったそうだ。ということは、カミュやフォークナーもクッツェーという作家の「書き方」に影響をあたえた作家だということだ。そういえば、彼のエッセイ集『Inner Workings』にはフォークナーの自伝について書かれた書評も載っていた。あれは面白かった。
 さらに12巻目に注目! これは詩のアンソロジーになる予定で、南アフリカとオーストラリアの、有名無名の若い詩人の作品から選ばれる予定だそうだ。そうか、ここで「南」の文学が、現在形でくっきりと示されることになるのか、と納得した。

2015/11/06

「早稲田文学 2015冬号」に『アメリカーナ』のことを

 このところ不振とつぶやかれる翻訳文学だが、昨今、息苦しい「国」という枠から思い切り飛び出したいという願いに応えてくれるのが翻訳文学だ。いまの、この世界、を見る視点がぐんと広がる。そんな翻訳文学に力を入れているのが「早稲田文学」だ。今日、最新号、「早稲田文学 2015年秋号」が発売になった。

「なぜ動かずにいられないのか?」──というタイトルが示唆するのは、世界各地で起きている人の移動だ。旅行、移民、難民、その背景、内実、結果などをかいまみる作品群が掲載されている気配。

 植民地への入植がさかんだったころとは逆に、現在の移民は、基本的により良い生活をもとめて、あるいは、切羽詰まった生命の危険を感じて、北側の経済的に豊かで安全な国々に「向かう」ものが多い。難民の場合はその緊迫度がさらに激しいだろう。
 しかし「旅」となると必ずしもその方向をとるとはかぎらない。むかしの文学的な旅行記では、むしろ、未知なる土地への探検や、エキゾチスムに刺激されての旅となるわけだから、圧倒的に「都市→辺境」が多かったはずだ。
 それはまた、書籍の出版や販売が北側に集中してきたこと、読者が「北」に属する人間を中心とし、「南」に属する人間はその視点に倣うものとされてきたことに関連があるかもしない。したがって「南」に属する人間は、「北」の視点を内面化せざるをえなかった。そんな長い歴史があったことは事実だ。さて、日本語社会はこの「北」と「南」のあいだの奈辺に位置付けられるだろうか。日本語使用者の意識は、どこにあるのだろうか?

 今日日、言語や国境を超えようとする、あるいは、はからずも超えてしまう文学は、過去の固定された視点を批判的に再考したり、逆転する可能性を秘めている。そんな期待と希望をつい期待してしまいそうな今回の「早稲田文学」だけれど、取りあげる作品や、評論、コラム、座談会に見られることばたちは、そのどのあたりをどんなふうにあとづけているのだろう? 興味津々。雑誌はさきほど届いた。読むのはこれから。

 わたしも、3つの国、3つの土地を往還する物語『アメリカーナ』について、作品紹介のコラムを書いたので、ぜひ、のぞいてみてほしい。チママンダ・ンゴズィ・ディーチェがみずからの体験をふんだんに取り込みながら書いた長編小説だ。

2015/11/03

余白について──チママンダ・アディーチェとゼイディ・スミスの対話

さあ、秋も深まり、ゆっくりとチママンダ・アディーチェとゼイディ・スミスの対話に耳をかたむけるときがやってきた。少し長いけれど、『アメリカーナ』からの朗読もあるので、楽しんでいただけるだろう。ゼイディ・スミスの長編『美について』も来月、訳書が出るらしい。いやあ、楽しみです〜〜〜。



アディーチェの作品内の脇役をめぐる、ゼイディ・スミスのツッコミが面白い。

2015/11/01

SOASの名誉博士号を受ける J・M・クッツェー

今年75歳の J・M・クッツェーがロンドン大学SOAS(the School of Oriental and African Studies/東洋アフリカ研究学院)で名誉博士号を授与される動画です。



この10月19日にアップされているので、授与されたのはその直前でしょうか(動画の最初に7月24日とありました!)。
 まず、SOASではクッツェー研究の第一人者であるカイ・イーストンが、クッツェーが21歳でロンドンにやってきて、コンピュータ・プログラマーとして働きながら詩人、作家になろうとした『青年時代』について詳細に紹介します。
 その紹介スピーチのなかで、20年ほどまえに南アのプレスがクッツェーのことを「ボーラントのベケット、カルーのカフカ、フェルトのフォークナー」と呼んだことが述べられていますが、これは面白い。言いえて妙な表現です。(微妙に韻を踏んでる!)
(カイ・イーストンのスピーチを以下にペーストします。)

 それから学長からクッツェーへ名誉博士の証書が授与されます。
 授与するのは、あのグラサ・マシェル! ネルソン・マンデラの未亡人です。彼女は元モザンビーク初代大統領の妻でもあった人ですが、マンデラが他界する少し前に、SOASの学長になりました。

Madame president, ladies and gentlemen and colleagues.
From 1962 to 1965 John Maxwell Coetzee lived in England, first in this great metropolis and later out in Surrey. Having just completed his undergraduate honours degrees in English and Mathematics at the University of Cape Town, he set sail for Southampton – his first trip overseas. He was 21 years old, an aspiring poet, and London, he told himself, was the city from which he must learn to write. His plan was to get a respectable job by day, and write in the free hours. He soon found work as a computer programmer, a programmer of course in the earliest days of computers, near Oxford Street. 
In the evenings and on Saturdays, he also researched and wrote an MA thesis on the novels of Ford Maddox Ford. He knew this Bloomsbury neighbourhood, and he must have walked by SOAS many times on his way to what was then Dillon’s Bookstore on Malet and Gower Streets. He would also have known that he was walking past one of the great publishing houses of the 20th century, Faber & Faber, a building now integral to the SOAS campus and adorned with a commemorative plaque in honour of its most famous editorial director, the poet and one of his earliest literary mentors, TS Eliot.
All of this is a prelude to the story of the writer that we are honouring today, who began making notes for what became his first novel, Dusklands, in the reading room of the British Museum just a stone’s throw from here. 
It’s now 50 years since John Coetzee left this island’s shores for further studies in America, specifically a doctorate at the University of Texas where as a Fullbright scholar he read Linguistics, Literature and Germanic Languages and wrote a dissertation on Samuel Beckett’s English fiction. 
In that time he has become one of the world’s most distinguished novelists and critical thinkers. All of this has happened while also teaching and inspiring generations of students and colleagues, from Cape Town to Chicago, in his role as professor of literature – a position he currently holds at the University of Adelaide in South Australia, where he has lived since 2002. 
His work has been recognised by numerous other honorary degrees by other eminent universities and he’s accumulated literary prizes, one after the other, and national honours from France and the Netherlands as well as South Africa’s highest award, the Order of Mapungubwe Gold. He was awarded the Nobel Prize for Literature in 2003. 
Even without his fiction, a corpus which now includes some 13 novels and for which he has won Booker Prizes for Life and Times of Michael K in 1983 and for Disgrace in 1999; a Commonwealth Writers Prize, the Prix Femina Étranger, the Irish Times International Fiction Prize and many more. 
Coetzee as a scholar would still be acquiring honorary degrees as not only are his novels taught in syllabi all over the world, but so is his criticism. From the essays collected in White Writing on colonial South African literature is a seminal book that is still unmatched since its publication in 1988; to those on censorship in Giving Offence, his intellectual autobiography of essays and interviews in Doubling the Point and the two volumes Stranger Shores and Inner Workings which feature many of the essays he’s written as a regular contributor to the New York Review of Books
カイ・イーストン
Even this does not adequately provide a sense of the range of his work, the variety and originality, the cross-generic hybrid and difficult to classic works such as the eight lessons of Elizabeth Costello; or the extraordinary polyphonic novel, Diary of a Bad Year; or the magnificent memoir trilogy Scenes from Provincial Life, or the translations from Dutch and Afrikaans; or his collaborative ventures for the adaptations of his novels for stage and screen. 
20 years ago, when he was awarded an honorary doctorate at the University of Cape Town, his fellow novelist and colleague André Brink proclaimed that John Coetzee has changed not only the South African literary landscape, but the shape and horizons of the novel as a genre. 
The magnetic affect is tangible, there are centres named after him, writes David Attwell, centres of creative writing, centres for creative and performing arts named after him; places in other ends of the world – Adelaide, Australia and Bogota, Columbia. There is even an asteroid named after Coetzee. 
Years ago, in the South African press, Coetzee was variously called the Beckett of the Boland, the Kafka of the Karoo, the Faulkner of the veld. All three accolades are well chosen since they emphasise key writers in his formation and a landscape that has been central to much of his fiction. One could easily enumerate others – Dafoe, Dostoyevsky, Tolstoy, Cervantes, Flaubert, Pound and Rilke – but if we were to think of artists with a similar approach to work and style, I would still go elsewhere. 
Two figures, remote from each other in time and vocation, for whom he has expressed admiration: In classical music it is of course JS Bach, in tennis it is of course Roger Federer. Both keep standing the test of time, demonstrating the kind of genius that combines industry, improvisation, intelligence and intuition. Qualities that have made them classic players in their respective fields, and qualities that you will find when you read the work of JM Coetzee. 
Madame president, it is my privilege now to present professor John Maxwell Coetzee for the award of Doctor of Literature and to invite him to address this assembly.

 さらにクッツェー自身のスピーチでは、まず、彼はSOASでは学んだことがはないが、すでに故人となった弟のデイヴィッドがSOASで学んだこと、彼がいまここにいたらなんというだろうかと思うと述べます。「僕は講義に出て試験を受けて学位を取得しなければならなかったのに、あんたはただ卒業式にやってくるだけかよ。頭にくるな」といったことでしょうと……略。
 また、自分は長いあいだケープタウン大学で教えていたが、同僚にはSOAS出身者が何人もいて、70年代、80年代の暗い時代、右からも左からも、もっと民族主義的な態度を取れというプレッシャーを受け続けたが、それに抗して彼ら、彼女たちが知的に洗練されたことばで、どのようにわれわれが自らを理解し、どのようにわれわれの文化や歴史を理解するかを提示しつづけた、と述べて、彼らがアカデミックとしての責任を例示したことに自分が連座できたことを誇りに思う、と述べています……略。
 以下がジョン・クッツェーの短いメッセージ:


Thank you first, Kai, for your kind words. It is an honour for me, and a pleasure, to be asked to say a few words to the new graduates of the School of Oriental and African Studies. 
I was never a student at SOAS, but brother David was. David is, alas, no longer with us, but I can imagine what he would have said about the present occasion: “I had to attend lectures and sit exams to obtain my degree, while you have to do nothing but rock up for graduation day. It is an outrage.”
For many years I taught at the University of Cape Town, where among my colleagues were graduates of SOAS teaching History, Anthropology and African Studies. Through the dark decades of the 1970s and the 1980s, these men and women resisted pressures from left and right to give their teaching and scholarship a more nationalistic slant. They continued to present an intellectually sophisticated account of how we understand ourselves, of how we understand our culture, of how we understand our history. 
I was proud to be associated with the example they set of academic responsibility, and I am proud today to be associated with the institution where they were nurtured. 
Those of you who plan to follow careers in higher education will, I hope, carry the values of SOAS with you into the future. 
Thank you.

 75歳のジョンが破顔の笑みを浮かべながら、70歳のグラサ・マシェルとしっかり握手するところを見て胸が熱くなりました。

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