2014/10/30

都甲幸治著『生き延びるための世界文学』が届いた!

都甲幸治さんの新著『生き延びるための世界文学:21世紀の24冊』(新潮社刊)を送っていただいた。
 Muchas gracias! 6月に出た『狂喜の読み屋(散文の時間)』(共和国刊)──これもまた充実の一冊だった──につづいて、トコーさんの切れのいい文章がさわやか!

一作一作に対する彼の読みは、作品の表層をいかにも「奇抜な見立て」を前面に押し出して、作品を乗っ取るように切っていく評とはまるでちがう。それを書いた作家の意図も含めて、作品の深い奥をさぐりながら確かなものに迫ろうとする、非常に真摯な態度が感じられるのだ。そのことが「生き延びるための」というタイトル内のことばと響き合って、この本の最大の魅力になっている。
 そこにはまた「ことば」に対する信頼が薄れつつあるこの時代に、人が人として、まさに「生き延びる」ための指標が埋め込まれている。手がかりとしての、くさびを打つための一冊ともいえる。

 届いたばかりなので、まだ J・M・クッツェーを論じる「消された過去」しか、ちゃんと読んでいないけれど、クッツェーの最新作『イエスの子供時代/The Childhood of Jesus』(2013)を論じる章はもう納得!の文章である。書き出しはこうだ。少し長いけれど引用する。

 初めて会うクッツェーはシャイで寡黙なおじさんだった。
 2013年3月初めに開催された東京国際文芸フェスティバルのレセプションで、僕は彼と少しだけ言葉を交わす機会を得た。写真では俳優のクリント・イーストウッドをもっと格好良くしたような彼だが、実際に会うと、柔らかくて温かい感じの、笑顔が印象的な人だった。僕が「『悪い年の日記』も『ペテルブルグの文豪』も読みました。どれも本当に素晴らしくて」と言っても、「そう」としか返してくれない。あまりに口数が少なくて、僕はかなり焦ってしまった。
 でもそれは嫌な印象ではない。逆に、もっともらしい言葉で空間を埋められる方がよっぽど嫌だっただろう。相手の言葉をきちんと聞き、言葉を選んできちんと答える。それは、僕が抱いていた小説家、あるいは批評家といった、言葉を売る仕事をしている多くの人々が持つ、言葉を支配しているようでむしろ言葉に使われてしまっているような態度とは異なっている。この人は信用できるという感じがした。

 こういうアプローチで語られていくクッツェー論は、あまり例を見ない。見ないだけにとても新鮮だし、とても共感できる。これなら他の作家を論じる章も、あまりアメリカ文学に詳しくない人が読むとしても、しっかり頼りにできそうだ。そう、都甲さんがクッツェーに対して「信用できる」と直感したように、上の文章を読んだわたしも、この本のことばは「信頼できる」と確かに思うのだ。
 以前、雑誌『新潮』に連載されていたとき読んだものもあるけれど、頭はそのほとんどを忘れている。まだ23冊分あるのだ。秋の夜長に、さあ、どんどんページを繰ろう! 
 
 しかし、困ったな。半分ほどきたクラークソンの本も読破しなくちゃならないのだ。

2014/10/22

『J・M・クッツェー:カウンターヴォイス』by キャロル・クラークソン

冷たい雨が降る日。ふと目をあげると窓の向こうに、色づく杏の葉が見える。雨に濡れるとひときわ鮮やかさを増す色合いを楽しみながら、キャロル・クラークソンの『J.M.Coetzee:Countervoices』を読む。

 クラークソンは J・M・クッツェーの研究者でケープタウン大学の教授だ。2012年12月にクッツェーが同大学で『The Childhood of Jesus』から朗読したとき、彼を「Welcome home, John!」と紹介した人である。

 この本は2009年に出た。近刊書として本のタイトルを目にしたのはちょうど『鉄の時代』の解説を書いているときで、早く読みたいと思ったものだ。拙訳『鉄の時代』は2008年9月刊行だったので、結局、解説の参考にはできなかったけれど、それでもおおまかな備忘録的な意味を込めて、解説内に「カウンターヴォイス」という語を入れておいた。というわけで「カウンターヴォイス」はそれ以来ずっと宿題のようになっているのだ。

 クッツェーの自伝的三部作『サマータイム、青年時代、少年時代』を訳し、自伝とフィクションをめぐる作家の立ち位置を考えながら解説も書き、本自体の出版も無事に終えたいま、あらためてクラークソンのこの本を読みなおしてみる。彼女は、クッツェーが自分を語る英語内で一人称と三人称を意識的に使い分けることについて、言語学的な背景と倫理学的な背景の両方から迫っていく。ちなみにクッツェー自身は60年代の構造主義言語学を学んだ人であり、その理論を十全に取り込み、それを超えるべく実験的作品や批評を書いてきた作家である。この本は、クッツェーのそういった試みを、作家の文章や発言を具体的にあげながら解明しようとするスリリングな著作なのだ。

以下に目次を。これを見るだけでも、興味がそそられるではないか。

 Introduction
   1  Not I
   2  You
   3  Voice
   4  Voiceless
   5  Name
   6  Etymologies
   7  Conclusion:  We
   Notes
   Bibliography
   Index

 2009年刊なので、この本が扱っている自伝的作品は『少年時代』(1997)と『青年時代』(2002)までで、2009年の『サマータイム』は残念ながら出てこない。だが、彼女の議論の延長線上にこの三作目をのせて考えてみると、ぱっと視界が開ける瞬間がある。クッツェー作品には美学と倫理学のまれにみる幸福な結婚があるのだ。

 Not I はベケットから。最後の結論:We までの展開は? 読者と書き手の、自伝をめぐる暗黙の了解事項をどう揺さぶるか。読者としての書き手の位置は? You と I のあいだに入る三人称。he を I で書き換えてみると見えてくるもの。
 日本語は、もともと You が明確に存在しないところが厄介だ。彼我の境目もはっきりしないのはさらに厄介(「あわれ」は、あれ、と、われ、がミックスしたものか?)なんてことを考えながら読んでいく。
 記憶は時間の経過とともに上書きされ、作られていくことは紛れもない事実だ。そこを明確に意識化しないと『少年時代』や『青年時代』で三人称現在が用いられている意味は理解できないかもしれない。また、語る者と語られる者がきっぱり分離して、作品内で熾烈な格闘をする『サマータイム』は容赦なく読者を試してもくる。クッツェーを読むといつも、自己検証能力がびしびし鍛えられる。そこがクッツェー作品の最大の魅力なのだ。

 ちなみに、クラークソンのこの本は2013年に学術書としてはめずらしくペーパーバックになっている。多くの人に読まれている証拠だろうか。そういえば、2年ほど前に来日したデレク・アトリッジ氏が「キャロルの本は読んだ?」と聞いていたことも思い出される。

2014/10/14

この詩を読んでわたしは泣いた

小さなKに ──2012年3月11日


あとどれくらい 地上(ここ)にいておまえを
小さなおまえを抱いていられるのか
あと何度 朝陽のなか なかば眠たげなおまえのオハヨウを
新鮮な炎のように
聞くことができるのか
あと何度 おまえの靴が窮屈になるたび
手をつなぎ
一緒に買いに行くことができるのか
おまえが五十歳になるとき
わたしは地上にはいない いや それどころか
おまえが二十歳になる日さえ あまりに遠い
おまえはその日 生まれたての
あの血まみれの赤ん坊とは 似ていないだろうけれど

おまえが死ぬ日
それがもし 老いのもたらす結果であるなら
わたしは喜ぶだろう
おまえの命が 残らず燃え尽きたことを
そしてそれがもし
不慮の事故や災害がもたらしたものであったとしても
やはりわたしは
いつかは
喜ばねばならないだろう
おまえが地上を駆け抜けたことを

そしてわたしはいとおしむだろう
おまえの瞳に映るはずだったすべてを
おまえが呼吸するはずだったすべてを

手をつないで歩いたときの
小さな小さな手の柔らかさを
消えない炎として
いつまでもいとおしむように
                
    清岡智比古『きみのスライダーがすべり落ちるその先へ』(左右社刊)より

*************************
詩集をいただいた。清岡智比古さんの『きみのスライダーがすべり落ちるその先へ』(左右社刊)だ。
 全編、スライダー、ストレート、カーブ、などなど野球の投球と思しきことばが編み込まれている。引用した詩は、ことばの変化球で勝負する詩人の、しかし、直球に近い詩と読める。最初、この詩を彼のブログで読んだときから、ボールはたしかにこちらの胸に届いていた。打ち返せないからストレートに胸にあたって、ちょっと痛かった。311から一年後のことだ。

 今回は詩集のなかで、ふたたびこの詩と出会って、そのページだけぱっくり口をあけて吸い込まれるような感覚を覚えた。ことばのボールが、ばしばしと飛んできた。胸にあたるまえに、素手でそれを受けとめたとき、ことばは確かな重みをもって胸に響いた。痛くはない。痛くはないが、涙を誘うのだ。胸の奥で。読み手のなかの遠い記憶をゆさぶり、くっきりと形を描きながら。
 後ろから駆けてきて、その子がするりと小さな手をこの手のなかに滑り込ませたときのことを。両手をつないで歩いた夕暮れのあのときのことを。見上げる澄んだ瞳。いずれ時がたてば・・・いずれ地上から失せて・・・でも胸のなかにあふれる思い。なにかに向かって跪きたくなるような感謝の気持ち──gratitude.

 清岡さんのことばのボールが弧を描いて蒼穹を渡っていく。時間軸を縦横に行き来することばたちが、あるときは春風、あるときは薫風、またあるときは微風となって、読む者の頬をさわやかに撫でていく。ときに秋風となって局所的に強く吹くことはあっても、決して、昨夜のような烈風にはならない。(台風19号の余韻のなかで。)

2014/10/09

パトリック・モディアノがノーベル文学賞を受賞

ラドブロークでの下馬評が2位から最後は1位にあがった、ケニアのグギ・ワ・ジオンゴでしたが、今年はフランスへ。Congrats!

 パトリック・モディアノ、1945年生まれ。

『パリ環状通り』を最初に読んだのはいつごろだったのだろう? 本棚の奥にあるはず。ちょっと探してみたけれど、あまりに埃がひどくて断念!
 Wikiで調べると、邦訳が出たのはなんと1975年。そうか、引越のたびに書棚に確認してきた本だったなあ──と思ったら、灯台下暗しで、いちばん手前にあった! 1975年8月24日発売、講談社刊。全194ページ。野村圭介訳。

 そうだ、「ルシアンの青春/Lacombe Lucien」という映画を観たこともあった。監督はルイ・マル、友達といっしょに観た白黒映画だ。
 自転車を押して田舎道を歩く主人公の背中が印象的だった。テーブルの上にばしっと置かれるおおきなパンの塊、パン・ドゥ・カンパーニュというのはこれか、というのもこの映画で知ったっけ。映画館はATGだったと思う。

 ルシアンの青春ならぬ、わたし自身にとっての青春に微妙に重なる作家だ。それ以後、子育てに追われたので、モディアノ作品との縁はふっつりと切れてしまったけれど。調べてみると邦訳がそれ以後、何冊も出ているんだ。そうだったのか。

2014/10/08

チママンダ・ンゴズィ・アディーチェの最新動画です



追記:2014.10.16──アディーチェの発言からの引用を少し。

話し合わないほうが、誰もが心地よいため、口にするのを避ける。
「故意の忘却」の結果、人は歴史を繰り返す。

2014/10/05

秋になるとムスタキが聴きたくなって

Ballade Pour Cinq Instruments par Georges Moustaki
(六つの楽器のためのバラッド/ジョルジュ・ムスタキ)



Pour faire pleurer Margot
Pour faire danser grand-mère
Pour faire chanter les mots
De ma chanson douce amère
Laisse glisser ton archet
Le long de la chanterelle
Donne-moi le la caché
Dans l'âme du violoncelle

Oh la flûte emmène-moi
Sur les rivages de Grèce
Là-bas elle était en bois
Et son chant plein d'allégresse
Oh la flûte pardonne-moi
Si je deviens nostalgique
Si je divague parfois
En écoutant ta musique

Posée contre ton épaule
Ton amie la contrebasse
Joue discrètement son rôle
Discrètement efficace
Je ne sais qui soutient l'autre
De l'homme et de l'instrument
Unis comme deux apôtres
Ou peut-être deux amants

Et sur les rythmes du coeur
Les tambourins les crotales
Font revivre les couleurs
De mon Afrique natale
Réveille-moi aux accents
Des pays que je visite
De ma vie qui va dansant
De ma vie qui va trop vite

Et je voudrais rendre aussi
Un hommage à ma guitare
Mon inséparable outil
Qui partage mon histoire
Qui m'aide à trouver les mots
De la chanson douce amère
Qui a fait pleurer Margot
Qui a célébré grand-père

ちょっと音が割れるのが残念ですが・・・

2014/10/01

つんのめるようなエンプティネス──「水牛のように」10月号

日中は暑いくらいの陽射しで、秋晴れの日がつづいたのは昨日までで、今朝は曇り、そしていまは雨が降っています。10月になりました。
「水牛のように」に今月も文を寄せました。タイトルは:

 つんのめるようなエンプティネス

中身は読んでのお楽しみ!

 10月から福島第一原発1号機の被いが撤去される、というニュースが流れています。つまり東京、神奈川近辺にも細かい粉塵がまた流れてくる可能性が高いということです。マスクを買い置きして、風の強い日はしっかり防御、洗濯物もできれば室内に干すほうが賢明かもしれません。とくに小さな子供の衣服などは・・・。

 それにしても、正確なニュースが流れなくなり、みんな少しずつ疲れてきて、気にするほうが病みそうだ、という気分が広がっているのでしょうか。でも、こんもりとしたキンモクセイの樹木からはずいぶん遠くまで香りが漂ってきます。なぜかそういう、植物や動物たちに励まされる秋。人間だって生き物のはしくれですから、愚かしい生き物に成り果ててはいるけれど、なんとか他の生き物にあたえるダメージを最小限に食い止めながら、ささやかに生き延びる手だてを打ちたいもの。

 香港からも、台湾からも、若い人たちのまっすぐなメッセージが届けられ、それに唱和する中国本土の若者たちの映像も facebook や twitter に流れてきて、励まされることしきりです。
 愚かしくも恥知らずな、この土地の為政者たちの姿に力萎えてばかりもいられません! 受け取られたメッセージには、いつだって、応答しつづけなければならないのですから。

 ひさびさにブログの背景画像や色遣いなどを変えました。背景の写真は、3年前にケープタウンへ旅したときに、内陸部へ向かった道中で撮影したブッシュのなかの羊です。
 なぜか、やり方を忘れてしまって、ブログタイトルの位置が中央にならない。あれ? ん? 誰か教えて!