2014/09/27

オースターとクッツェーの朗読をたっぷりと!

 ポール・オースターとJ・M・クッツェーの往復書簡集『ヒア・アンド・ナウ 往復書簡2008-2011』(岩波書店)が発売になりました。
 これで一連のクッツェーをめぐる仕事は一段落、といきたいところですが、11月のビッグイベントが待っています。アデレードで開催される Traverses: J.M.Coetzee in the World。さっそくこの訳書にも参加していただかなくちゃ。

 この本から著者2人が朗読している動画があります。クッツェーとオースターが、まるでパッチワークキルトのように、あちこちの部分をうまく繋ぎ合わせて読んでいきます。2014年4月、アルゼンチンのブエノスアイレスでのステージで、動画は三部構成になっています。どうぞお楽しみください。

その1


その2


その3


2014/09/25

Disgrace におけるクッツェーと「英語」その2

さて、その引用箇所である。原文は:

──He [David] would not mind hearing Petrus's story one day.  But preferably not reduced to English.  More and more he is convinced that English is an unfit medium for the truth of South Africa.  Stretches of English code whole sentences long have thickened, lost their articulations, their articulateness, their articulatedness.  Like a dinosaur expiring and settling in the mud, the language has stiffened. Pressed into the mould of English, Petrus's story would come out arthritic, bygone.(Disgrace, p117)

「感情」を表現する語を焼き払うよう推敲しているというクッツェーの文体に即して、できるだけ淡々と訳してみる。

──彼[デイヴィッド]はペトルスの物語をいつか聞いてもいいと思う。だが、できれば無理に英語にせずに。英語は南アフリカの真実を伝える媒体として不適切との確信は強まる一方だ。文のすみずみまで英語文法を適応させようとするあまり、文全体が濁って粘つき、明晰さを失い、明確に述べることも、述べられることもない。絶滅寸前の恐竜が泥土に足をとられたように、この言語は身を強ばらせている。ペトルスの物語も英語という鋳型に押し込められるや、関節炎を患い、古色蒼然たるものとなってしまうだろう。

 ここを初めて読んだときに思い出したのは、90年代初めに南アを訪れたある人のことばだった──タウンシップで黒人たちと話していて思ったの、英語で話をするんだけれど、そのときは真面目に、外向きの顔で、きちんと話そうとするのが分かる。でも内輪でズールーやコーサといった言語でくだけた会話をするとき、彼らの表情が変わるのよ。顔つきが、まるでNHK教育チャンネルから民放チャンネルに切り替わったみたいに、ぱっと変わるの。すごくリラックスした感じになる。

 このTVチャンネルの比喩は面白い。公式の表向きの言語と、本音が語れる親密な言語の違いをあらわす絶妙の表現である。大きくなってから学習して獲得した言語は、その人の個人史や環境によって重さ、位置づけなどはさまざまだ。旧植民地の先住系、元奴隷などの系譜の人たちが、仕事を得るうえで学ばざるをえない言語が宗主国の言語である。非インテリの人間にとって、それはどういうことか? 読者は想像する必要がある。
 南アフリカ、と一般化することの危険性をあえて承知で言うなら、ここでクッツェーが述べている「南アの英語」を媒介に、ルーリーのようなインテリ男が農民ペトルスとコミュニケーションしようとすると、英語(ペトルスにとっては仕事のための言語、解放前までは支配者から命令される言語)という分厚い皮膜を通した、歯がゆいものにならざるをえない。むしろ「ペトルスの物語」を聞くなら、その母語によって語られる、もっと本音が出た繊細なものとして聞きたい。細やかな感情を表現でき、本音の底まですくいとることが可能な言語で語られる物語を、と主人公は言っているのだ。たぶんコーサ語を母語とするペトルスの物語が「英語」に押し込められるなら、やりとりは細やかな感情の伝わりにくい、不完全なものにならざるをえない、と。

 作品内で登場人物に語らせながらも、ここにはクッツェーという作家の「本音」に近いものがちらりと見えはしないか。うわべを取り繕うことを忌避し、本来の対話が成り立つ条件にこの作家はこだわる。インタビューではそれはありえない、と。そこには、ことばで構築した信念によって生きてきた人間の不器用さも露出している。沈黙を読み取ることで真実を伝えたい、心を通わせたい、とするこの作家の根源的な願望が書き込まれてもいる。(上の引用箇所直前にある、ペトルスといると at home だという表現は、この白人インテリ男の善意/勝手な思い込みを描いているとも取れなくもないが、それはまた別の機会に。)
 上の引用は、したがって、南アという土地で歴史的条件を背負って個別の生を生きる人間たちを描きながら、クッツェー作品にとって普遍的な要素が深々と埋め込まれている、大いに注目すべき箇所なのだ。

「言語」と繊細な「表現」をめぐるクッツェーのこういった感覚、思想、立ち位置は近々刊行されるポール・オースターとの往復書簡集『ヒア・アンド・ナウ』(岩波書店)で詳しく語られることになる。現在74歳のクッツェーが、68歳から71歳までのあいだにポール・オースターに宛てて書いたこの書簡集では、手紙という形式によって、いよいよ本音に近い、率直な語りが展開される。自伝的三部作の『サマータイム』(インスクリプト)を書いていた時期とも重なり、まるでこの作品の種明かしのような話も出てくる。読者はこの作家の一皮も、二皮も向けた姿を垣間見る瞬間に立ち会うことになるはずだ。
 映画「Disgrace」でルーリーを演じるマルコヴィッチは「きみが言っていたようにミスキャスト」とオースターが明言していることも付け加えておきたい。

2014/09/24

Disgrace におけるクッツェーと「英語」その1

南アフリカ最大の文学賞である、M-Net 賞が一時中止になったと先日発表された。
 この賞は1991年に、それまでのCNA賞を受け継ぐものとして創設され、南アフリカ解放後に公用語となった言語で書かれた作品もまた対象としてきた。英語やアフリカーンス語だけでなく、コーサ、ズールー、ンデベレ、ソト、などいくつかの言語で書かれた作品も受賞対象だったが、それがなくなるということは、出版産業のなかでメジャーではない言語の文学には大打撃となる。これは想像にかたくない。
 これまで訳した作品との関連でいうと、2001年にゾーイ・ウィカムの『デイヴィッドの物語』がこの賞を受賞し、2005年にはズールー民族詩人であるマジシ・クネーネが、その生涯にわたる業績に対して受賞している。

 さて、この22ー23日、京都の立命館大学衣笠キャンパスで開かれた「世界文学 言語横断ネットワーク」の第一日目に参加してきた。最初のセッションのなかで、クッツェーをめぐる発表があった。それは『夷狄を待ちながら』と『恥辱』の関連性を、ランサム・センターが所蔵するクッツェーの創作ノートを参照しながら論じる興味深いものだった。
 発表者のKさんは南アにおける英語についてクッツェーが記述する部分にも注目していたので、わたしもひと言コメントした。コメントの内容はおもにドロシー・ドライヴァーが(かなり前に)発表した論文の情報から「南アでは英語を母語とする話者が減ってきているという統計」のこと、さらに、バンツー系の人たちが受けてきた教育制度のなかで英語がどのような位置にあるか(小学3、4年生までは個々の民族言語によって学習し、それ以後は英語で学習する)だった。そのとき言い足りなかったことをここで補足しておきたいと思う。

「英語は南アフリカでは at home ではない」というクッツェーのことばとも響き合うことだが、『恥辱』では「英語」をめぐってかなり突っ込んだ議論が展開される。それは「コミュニケーションの不可能性」と解釈されることが多く、そう聞くとなんとなく分かった気持ちにさせられてしまう。しかし、それで分かったといえるのか? とわたしなどはずっともやもやとした疑問を抱えてきた。「コミュニケーションの不可能性」という表現は、一見、的を射たものでありながら、むしろ、重要なことを見えなくしてはいないだろうか? それがどういうことか、と問うことを忘れさせてはいないだろうか? と思ってきたのだ。
 
『恥辱』では英語が人びとの暮らしのなかでどのような位置にあるかが具体的に述べられている。描かれているのではなく、主人公デイヴィッド・ルーリーの口を借りてクッツェー自身が述べているといっていいだろう。それを見て行くうえで、ペトルスという、母語も、民族も、階級も異なる一人の男と、英語英文学を教える主人公とのやりとりはきわめて示唆に富む部分である。
 ルーリーは52歳の元大学教授、英文学を専攻する。とくにロマン派の代表的作家、バイロンの研究をやっているという設定だ。(バイロンはクッツェーがテキサス大学時代に集中的に読んだ作家である。)セクハラを追求されて大学を辞め、娘ルーシーのやっている農場に身を寄せた主人公が、そこで娘の農場仕事を手伝っている男ペトルスと出会う。過去の社会構造と解放後の現在の人間関係を比較しながらつぶやくルーリーと、白人に奪われた土地の返還要求手続きを済ませたという農民ペトルスとのやりとりのなかに、南アにおける英語の位置が具体的に、端的に表現されているのだ。22日の発表でも引用されていた以下の部分は、わたしが「南アの英語」について大いに気になってきたことと深く結びついている。

つづく

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付記:さっそく日付の間違いを指摘してくださった方がいます。21-22日、と書きましたが、正しくは22-23日で、訂正しました。Sorry! & Merci!

2014/09/16

誕生日おめでとう! チママンダ!

今日はチママンダ・ンゴズィ・アディーチェの誕生日。彼女は1977年生まれです。

 クッツェーの三部作に没頭しているうちに、彼女の長編『アメリカーナ』が出て、それが全米批評家賞を受賞して、またまたベストセラーになって、とにぎやかなニュースが流れました。
 新しいニュースを追いかけているうちに、そうか、今日はチママンダ・ンゴズィ・アディーチェの誕生日だった、と気づきました。

 ここで、知る人ぞ知る、とっておきの情報を提供します。彼女はしばらく前にこんなサイトを立ち上げました。


 The Small Redemptions of Lagos

Home から We admire まで7つの部屋に分かれていますが、Ifem and Ceiling なんてのもあります。そう、『アメリカーナ』の主人公イフェメルとオビンゼの愛称、ニックネームのついたコーナーです。
 タイトルは、なんだろう、「ラゴスをちょっとだけ救出」とか「ラゴスのちょっとした取り柄」とか、いろんな意味が含まれていそうです。もともとは2012年のフランクフルト・ブックフェアでならべられた短篇のタイトルのようですが、内容はもちろんこの長編から取られています。
 
 『アメリカーナ』はナイジェリアからアメリカへ渡り、いろいろ苦労しながらも大学へ進み、さらにブログを立ち上げて成功した女性イフェメルが主人公。ここで繰り広げられるブログは、さて、これからどんな展開になっていくのでしょう。翻訳を進めながら、ちらちら、楽しみながら読んでいくことになりそうです。

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付記:2014.9.24──あらら、いま気づきました。アディーチェの誕生日は9月15日です。てっきり15日にアップしたつもりが、一日ずれていました。Sorry!

2014/09/14

今日は ハンス(Hans Faverey) の誕生日!


ふと思い立って、こちらに再掲載します。今日はスリナム(旧オランダ領ギアナ)生まれのオランダの詩人の誕生日。
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 菊の花たちが
 挿してある花瓶はテーブルのうえにあり、
 窓辺にある、が、それらは

 窓辺にあるテーブル
 のうえの花瓶
 の菊の花たち
 ではない。

 ひどくきみを悩ませ
 きみの髪を乱す風、それ

 はきみの髪をかき乱す風で、
 髪が乱れているときは
 そのためにもう悩まされ
 たくない、ときみが思う風だ。

 氷のように透明で明晰な詩を書いた詩人、ハンス・ファファレーイ(1933〜90)は1977年、第三詩集『菊の花たち、漕ぎ手たち』で掛け値なしの評価をえた。右の詩はその詩集に収められた同名の詩の冒頭である。オランダ領ギニア(現スリナム)の首都パラマリボで生まれたファファレーイは、五歳のときに母や兄とアムステルダムに移り、以来この地で暮らした。生地スリナムを去ったのはまだ幼いころで、その経験が作品内に反映されることはない。カリブ海出身について直接ふれることもきわめてまれだ。

 この詩人の情熱はもっぱらヨーロッパ文化から受けた遺産に向けられる。詩篇の多くは自宅のあるアムステルダムを背景にしているようだが、特定できるものは少ない。彼の詩にはローカル色の徹底した欠如がある。
 作品から詩人の日常を知ることもできない。だが彼自身が述べているように、自伝的なものは断片化され、集積されて詩の内部に忍び込み、豊かな連想をかき立てる。実際、ファファレーイの詩にみられるこの知的で地理的なコスモポリタニズムこそが、詩人の生地カリブ海の、クレオール文化のエコーを聞き取る場なのかもしれない。なぜなら、彼の描く風景は、切り離されながら彷徨う、移り住む者の眼差しを通したものだから。

 ファファレーイが旅に出るのはもっぱら学生のころから訪れたクロアチアだ。ここで後に妻となる比較文学者、レラ・ゼチュコヴィッチと知り合い、以来、夏ごとに訪れる地中海の風景が、時を超えたエーゲ海風景へと溶け込み、ホメロスやサッポーへのオマージュとして詩篇に織り込まれることになる。

 折りに触れて幾度もきみを愛さなければ、
 ぼくにはきみがまったく未知のものだから
 ぼくという存在の核とほとんど

 おなじくらい未知であり、それは
 ぼくの名前の記憶が、きれい
 さっぱりと消えたあとも

 永くつづく羽ばたきだ。ときどき、
 ふとわれに返ると、ぼくたちの家が
 さわさわと音をたてだし、大声で
 きみの名を呼びたい思いにかられるとき、

 ぼくは、この頭のなかにいるきみを
 ふたたび見つける、……

 これは88年の詩集『忘却にあらがい』所収の「甦った、ペルセポネ」の冒頭だが、ここにみられる「剥離する意識」はくりかえし彼の作品にあらわれる主題だ。自分はいったいだれなのか、どこにいるのか、このまま存在しつづけることが可能なのか。そんな不安を、意識の層を何枚も剥がしながら書き留めようとする姿勢がこの詩人にはある。
 事物の絶え間ない動きによって、いずれだれもが飲み込まれていく沈黙と忘却。それに抗うこともまたこの詩人のテーマとなる。「時を止める」ために用いる方法は「ゼノンの矢のパラドックス」のイメージだ。時間を小さく区切れば区切るほど、空中を飛ぶ矢の飛距離は短くなり、区切りを無限に小さくすれば時間は静止するという逆説。

 時を止めるいまひとつの方法として浮上するのは記憶だ。だが実際の出来事とその記憶はむろんおなじものではない。81年の詩集『光降る』の次の詩は、ハンスとレラがクロアチアの叔母の庭を訪問したときのものだ。

 記憶が、みずからの意思で
 したいことをするように、ぼくたちは
 いま一度かぶりつく、ほぼ同時に
 そろって、トウモロコシの畝
  
 のあいだで、彼女は彼女の
 杏に、ぼくはぼくの杏に

 これは記憶そのものが無情にも変化することを、痛烈に喚起する詩行である。
 動きによる腐朽を食い止める方法としてさらに、ファファレーイは哲学を取り込む。無我の境地へいたるための瞑想によって、おのれを世界から遠ざけるのだ。その思想の背景にはソクラテス以前、とりわけヘラクレイトスの影響が色濃くみられる。火を万物の流転の核とする苛烈な思想だ。たとえば先の「菊の花たち、漕ぎ手たち」の次の詩行。

 あらゆるものに内在する
 虚空は、現実に
 あり、かくも激しく動いて、
 やがて最後のことばの
 響きに混交する、

 (それはいま、唇を通過する
 ことを拒み)、まず唇を愛

 撫し、躊躇うことなく唇を
 抉る。……

 この詩篇の最終部がまた印象的で、ファファレーイの手になるとオランダでさえ、水路や畑がひどく不分明になっていく。

 徐々に──近づいて
 くる、八人の漕ぎ手
 たちは、しだいに内陸へ入り

 みずからの神話のなかに入り、
 漕ぐたびに、故郷から
 さらに離れ、力のかぎり漕ぎすすみ、
 水が消えるまで広がり、
 そして彼らは風景全体をへり

 まで充たす。八人は──
 さらに内陸へ漕ぎすすみ、
 風景は、もはや水が
 ないため、膨れあがる
 風景に。風景を、
 さらに漕ぎすすみ

 内陸へ、陸に
 漕ぎ手たちの姿なく、漕ぎ
 争われた陸となる。

 私がファファレーイを知ったのは J・M・クッツェー訳によるオランダ詩のアンソロジー『漕ぎ手たちのいる風景』のなかだった。出身地こそ南アフリカと違うけれど、クッツェーもまたオランダ系植民者の末裔である。彼はファファレーイを「その世代でもっとも純粋な詩的知性の持ち主であり、その詩は宝石のように美しく、本を閉じたあとも永く、エコーのように心に響く」と絶賛する。
 硬質な語と語のあいだに響く沈黙、そこに滲み出るもの──そんな魅力が、国境や言語を越え、時間さえも超えて、読む者の心を震わせるのだろう。

*英訳版の使用を快諾してくれたF・R・ジョーンズ氏、紹介の労を取ってくれたJ・M・クッツェー氏に深謝します。

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「現代詩手帖 2009年1月号」に書いた文章に少し加筆しました。
写真は、フランシス・ジョーンズ編訳のアンソロジー『忘却にあらがい/Against the Forgetting』(A New Directions Book,2004)。

2014/09/13

Let's Live Together



映画「半分のぼった黄色い太陽」のための曲。イボ語、ヨルバ語、ハウサ語、英語で歌われているようです。いっしょに生きよう。いっしょに暮らそう。中国語や韓国語、日本語で歌われてもいいよね、これ。

2014/09/11

ラゴスで今年もファラフィナ・ワークショップ


ケニア出身の作家、ビンニャヴァンガ・ワイナイナがナイジェリアでインタビューを受けています。

1月にカミングアウトをして世界中のメディアのトップ記事をにぎわしたワイナイナでしたが、今回で9回目になるというナイジェリア訪問は(ファラフィナ・ワークショップ参加のためかな)かなり突っ込んだ話をしています。お薦めです。アフリカの文化事情に興味のある方には、とりわけ。興味のない方にも「アフリカ文学」というなんとも大雑把な旧いラベルで、あの大陸出身の作家たちが書くものを分別したがる読者にも/笑。

 ヨーロッパを中心に「西欧およびアメリカの外国文学」を追いかけてきた、日本に住み暮らす「われわれ」読者にとって、「アフリカ文学」はそれとちょうど対をなす概念だったのかもしれない、といまさらながら気づきます。旧来の「アフリカ文学」というくくりかたそのものが、それぞれの地域の差異をローラーで押しつぶすような、乱暴なものの見方だったのではないかということです。

 それは、インド出身の作家も、中国出身の作家も(じつに多様な)、もちろん日本出身の作家も、ぜんぶ「アジア文学」と呼んでしまい、それでOK! ということに等しいかもしれません。(言語の問題がまた複雑・・・。)
 そういう色眼鏡を通した「アフリカ文学観」そのものに、アディーチェもワイナイナも異議を唱えているように思えます。

 たとえば、アディーチェの作品には「アメリカ」がふんだんに出てくるし、それも金持ちばかり出てくるから、あれは「真正の」アフリカ文学とはいえない、という無茶な意見がいまだにこの土地にも見られますが、おおっと、金持ちばかり出て来たら「アフリカ文学」じゃない、という意見の裏には、「貧困、饑餓、紛争・・・」を描くものこそがアフリカ文学、という恐るべき固定観念がしみついています。
 アディーチェのような作家にしてみれば、いつまで外側から、他者から「真のアフリカはこれ」なんて教えられなければならないのかっ! と怒り出しそうな意見ですね。

 それって、あえていってみれば「ハラキリもゲイシャも出て来ないムラカミの作品は真正の日本文学じゃない」といっているようなものです。まったくの時代錯誤といわざるをえません! 
 
 とにかく、今年もまたナイジェリア国内のビール会社の資金援助を受けて、ラゴスで10回目の Farafina Creative Writing Workshop はにぎやかに開催されたようです(メセナがあの国ではしっかり育っているんだなあ、と思いますね)。「自分(たち)の物語を書く」という若い作家たちが確実に育っている!

 アディーチェはナイジェリアの社会で女性のおかれている位置をなんとかしたい、そのために人の意識を変えたい、それには・・・と考え抜かれた方法論でさまざまな活動をしています。それもあくまで作家として。そのアディーチェの物語が、アフリカ人向けに書かれてないなんていうのは、ちょっとちがうかも! ですね。もちろん、自分の好みに合わないと思う人だってアフリカにはいるだろうし、もちろん日本にもいるでしょう。たんにそういうことでしょう。

2014/09/09

北海道新聞にクッツェー三部作の書評が載りました

クッツェー自伝的三部作『サマータイム、青年時代、少年時代』の書評が8月31日付北海道新聞の書評欄に載りました。今日、ネット版にもアップされたようです。評者は楠瀬佳子氏です。

 長年、南アフリカと関わり、そこに住み暮らす人びとと直接、人間関係を築きあげてきた人ならではの視点で書かれています。

   Muchas gracias!

2014/09/07

秋の気配、ふたたび日々の翻訳へ


ぶりかえした暑さも昨夜の雨でどこかへ。本格的に、秋の気配が近づいてきた。虫の音も冷たい空気のなかで澄んだ音色を響かせている。
 
 力を出し切ったクッツェー三部作、オースターとの往復書簡集、イベントなども終わり、本格的にチママンダ・ンゴズィ・アディーチェの『アメリカーナ』に取り組まなければならないときがやってきた。すでにかなりの量は訳してあるのだけれど、ここへきてぐんぐん進む。毎日進む。

夕方近くなって散歩に出た。散歩に出るとパソコン画面をにらんでいる時間から解放されて、頭のなかで自由にことばが動きはじめる。黄色く色づいた桜の葉、つげの茂みに落ちた黄色い大きな葉を見て思うのは、しかし、やっぱりクッツェーの新作についての閃きだったりするところが悩ましい。

 春先に枯れ枝を根元から刈り取っても、またしっかり生えてくる萩。今年も赤紫のグラデーションの美しい小花をたくさんつけて、風にゆられている。

 西アフリカの大都市で育った女性が、アメリカに渡って体験するさまざまな大波、小波。移民労働の世界。肌の色の違い、髪の毛の縮れぐあい。それが決定的な要素となることの意味。物語はナイジェリアという土地を超えて、アメリカの境界も飛び越えて、いまやわたしたちの住む社会にもとどけられる。
そこには「アフリカ文学」という従来の枠には収まり切らない、若い書き手の作品があるのだ。そのこととアフリカの現実を切り離して考えていいということでは決してないのだけれど、それも、これも、また、現在のこの地球に住み暮らしている人間たちの、深くて複雑な内実なのだというしかないのだろう。心して訳していきたい。このとびきりの面白さを、早く読者と分かち合いたい。

2014/09/05

今日、発売の「ミセス」に三部作の紹介が!

今日発売の雑誌「ミセス 10月号」に、クッツェー三部作の紹介記事が載りました。書いてくれたのは小野正嗣さんです。小野さんはこの6月に、ノリッジで開かれた文芸フェスティヴァルで実際にクッツェーさんと同席したらしい。とっつきにく人かと思っていたけれど、予想ははずれ! とてもシャイで控え目な感じの人だったと書いている。

「この自伝的三部作には・・・いまや世界文学の中心的存在であるクッツェーが実はどれほど辺境の人であるかがよくわかる」と。そうなんですね、そうなんです。

「やや天然ボケ的なところもあってすごく感じがいい」とも書かれていて、笑ってしまった。
 今日から店頭にならんでいます。ぜひ、読んでみてください。元本もね!

***
写真を載せましたが、ぼんやり見える程度にしたつもりが、案外くっきり出てしまうのですね。著作権の問題もあるのではずしました。あしからず。
 

2014/09/02

クッツェーの書いたシナリオが出版された

クッツェーの2つの小説作品 ──「In the Heart of Country」と「Waiting for the Barbarians」── が作家自身の手によってシナリオに書き直されていた。それがケープタウン大学出版から本になって出版される。ウェスタンケープ大学のヘルマン・ヴィッテンベルグ(ハーマン・ウィッテンバーグ)の解説つき。そう報じる記事が出た

「In the Heart of Country」をもとにマリオン・ヘンセル監督が「Dust」(日本では「熱砂の情事」?????というタイトルでビデオで売られている)という映画を作成したのが1985年。この映画の出来映えには、クッツェー自身いたく不満だった。無理もない、自分のシナリオが使われなかったのだから。

 その不満は『ダブリング・ザ・ポイント』で作家自身が語っていたし、カンネメイヤーの伝記にも詳述されている。ジェーン・バーキン主演、スペインでロケされたこの映画、光が南アフリカの苛烈な光とはまるで異なる、と件の記事の著者は語っている。そうだろうなあ。それは容易に想像できそうだ。

 「Waiting for the Barbarians」のシナリオは、フィリップ・グラスによって舞台化されたときのものだろう。これは2005年にドイツのエルフルトで初演され、2012年には南アフリカのバクスター・シアターでも演じられた。

2014/09/01

水牛:なぜ、J・M・クッツェーを訳すのか?


いやはや、すっかり秋めいて。


    なぜ、J・M・クッツェーを訳すのか?

 雨の池袋の夜のこと、イベント「これでわかるクッツェーの世界」が終わって、みんなでワインを飲んでいるときだった。隣の席の人からそんな質問を受けた。う〜ん、それに答えるには、ことばがたくさん必要なのだ。
 というわけで今月の「水牛のように」に、しっかり書かせていただいた。

 こちらです!

いやあ、今月の「水牛」はとっても盛りだくさんで、面白い!

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PS: 2014.9.2──ここ数日、J.M.クッツェーの第一作目『Dusklands/ダスクランズ』を20年ぶりに、しっかり再読していた。一度目にはぼんやりとしか見えなかった細部が、あざやかに立ち上がってくる瞬間を何度も経験した。読書って、不思議! 面白い! やめられない/笑。