2012/06/27

世田谷美術館「駒井哲郎展」に行ってきた

先週の雨の日、砧公園にある世田谷美術館に行ってきた。前から行きたいと思っていた版画家、駒井哲郎の展覧会である。

駒井哲郎(1920-1976)という名は、安東次男との共同作品『カランドリエ』『人それを呼んで反歌という』という詩画集に心うつ作品を残した人として、わたしの学生時代の記憶のなかで大きな位置を占めていた。

今回の展覧会はその駒井哲郎のほぼ全生涯にわたる作品が展示されていて圧巻。あの線描と落ち着いた渋い色遣いが大好きだったので、作品をまとまったかたちで見ることができて本当に感無量だ。なつかしい本や、雑誌の表紙なども展示されていて、一枚一枚たどっていくと、何層にも重ねられた記憶の時間のトンネルを抜けていくような不思議な感覚に襲われた。そしてあらためて思ったのは、この時期の日本のアーティストたちというのは、その創作のエネルギーの大半を自意識との格闘に費やしたのではなかったか、ということだ。

これは資生堂名誉会長の福原義春氏のコレクションだ。福原さんとは以前、NHKの「週刊ブックレビュー」でごいっしょさせていただいた。4月29日の「コレクションを語る」というトークはぜひ聴きにいきたかったが、残念ながらかなわなかった。
毎週土曜日には子供から大人まで参加できる版画のワークショップも開かれている。期間は7月1日が最終日。残すところあと4日だ。できれば、もう一度行きたい。

2012/06/21

ノリッジ世界文学フェスにクッツェーが参加

ノリッジで開かれた Worlds Literature Festival 2012に参加したJ・M・クッツェーの映像です。なにを読んだのでしょうねえ。

                                                
With J.M.Ceotzee, Tim Parks and Anna Funder
Rebecca Swift, Samantha Harvey, Frances Leviston, Eleanor Catton, Joe Dunthorne and JM Coetzee. (from left to right)
Image courtesy of Martin Figura

2012/06/20

もう一度よく見てみようか!


報道からカットされた映像だそうだ。いまいちどよお〜く見てみたい。わずか15カ月前のことだ。この茶色い雲はいま、どこまで広がっているのか。昨日の台風の雨や風で、福島原発はダメージを受けたはずだし、これからも受けつづける。そのたびに、情報がない一般の人ははらはらし、おろおろし、現場の人は命がけで厳しい作業をつづけなければならない。いまいちどよ〜く見てみよう。

なぜ再稼働ができるのか? 多くの人が反対しているのに。命をないがしろにするこの国はいったい、どういう国だろう? 決定権を握る人たちは「国」が滅びてもいいと思っているのか? この場合「国」に含まれるのは、危なくなったら脱出できる資金や手だてをもっている人ではなく、生まれついたその土地から出られない者たちと、そこで生きている全生命を含んだコミュニティのことだ。

なぜ再稼働などできるのか? どう考えても安全ではないものを安全と言いくるめる「虚偽のことばのからくり」を打ち破らなければ、事態は変わらない。いったい、どうすればいいの?

明日は夏至だ。

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2014.8.10
3年以上がすぎたが、明らかになったことを再度ここで認識しておきたい。


2012/06/14

ワークショップで話をします──獨協大学で

お知らせです。今月26日に獨協大学の「英語学専攻ワークショップ」で話をすることになりました。

「アフリカ」文学とSingle Storyの危険性

日時 | 2012-06-26  15:00 ~ 16:30
場所 | A-504教室
講師 | くぼたのぞみ 氏 (詩人・翻訳家)
対象 | 大学院生、本学学生
主催 | 外国語学研究科英語学専攻

講師紹介:翻訳対象の作品には南アフリカ出身のノーベル文学賞作家、J・M・クッツェーの「鉄の時代」、「マイケル・K」、「少年時代」や、南アフリカ出身でボツワナへ出国した作家ベッシー・ヘッドの短編集、ナイジェリア出身のチママンダ・ンゴズィ・アディーチェの短編集など、アフリカから発信される文学が多い。また、メキシコ系アメリカ人作家サンドラ・シスネロス、ハイチ系アメリカ人作家エドウィージ・ダンティカ、カリブ海のグアドループ出身の作家マリーズ・コンデなど、国境、言語、民族といった境界を越え、往還する作家も手がける。新刊『明日は遠すぎて』(河出書房新社)(2012年3月)


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 翻訳の楽しさ、アフリカから出てくる文学の面白さなど、これまでやってきた仕事を中心に、獨協大学教授の上野直子さんとの対話形式で話をします。

 基本、インプロビゼーションでやりますが、記憶に新しいアディーチェの新作短編集『明日は遠すぎて』はもちろん、訳了したばかりのウィカムの『デイヴィッドの物語』や、翻訳中のクッツェーの自伝的三部作の最終巻「Summertime」などなどについて、さらにはクッツェーの伝記をめぐる裏話も飛び出すかもしれません。

タイトルは招いてくださった上野直子さんがつけてくれました。学外の人も聴講できるそうです。お時間のある方、ぜひ、のぞいてみてください。

獨協大学へのアクセスはこちら
file://localhost/Users/morinozomi/Desktop/獨協大学.webarchive


2012/06/12

ジュノ・ディアスのレイ・ブラッドベリー追悼記事

「ニューヨーカー」にジュノ・ディアスが、先日他界したレイ・ブラッドベリーへの追悼記事を書いています。泣かせます。最後の部分をちょっとだけ引用すると・・・。

「それはフィクションの持つ力を初めて本当に味わったときだ。文学がなにを成し遂げることができるか。文学がどんなふうに心慰め、教え、インスパイアし、そしていちばん大事なこと、変容を可能にするか。ブラッドベリーはぼくが天職への道に進むことを助けてくれた。彼はぼくの人生の偉大な贈り物であったし、これからもそうでありつづけるだろう」──詳しくはこちらへ!

2012/06/08

アパルトヘイト時代に逆行する南アフリカの情報保護法──さすがのクッツェーも反対を明言!

昨年11月22日火曜日、ケープタウンに滞在していたとき、アパルトヘイト時代へ逆行するような情報保護法が国会を通過したというニュースを聞いた。その日はブラック・チューズデイと呼ばれている。
その日わたしは朝からタウンシップに出かけ、午後はテーブルマウンテンにのぼり、国会前でデモが行われているのを見逃してしまった。曜日を勘違いしていたこともあったけれど・・・ 

南アフリカ国内だけでなく、アフリカ全土に大きな影響をおよぼす可能性のあるその法案には、南アフリカ国民だけでなく、多くの南ア出身者が反対意見を述べつづけていることは以前から伝わっていたが、先日、ガーディアンがナディン・ゴーディマや J・M・クッツェーから取材した発言を掲載したので、ここに訳出する。

ゴーディマ:「この法案が出てきた理由は明らかです──政府は、法律の意図が腐敗を隠蔽しようとすることだという真実を隠そうともしない・・・わたしはアパルトヘイト体制時代に書いて、アパルトヘイト体制とたたかいました。三冊の著書が発禁になりました。いま私たちがやっていることは、新たな装いの下でアパルトヘイト時代の検閲制度にもどることです」

クッツェー:「この法律の意図は見え透いています、とことん調査しようとする厄介なジャーナリストを活動困難にするためであり、さらに一般的には、無能な、腐敗した官僚制度が窮地に陥ることがないよう助けるためです・・・法律の主唱者たちを大胆にしているのは、どうやら2001年以来、西欧世界のいたるところで起きている動きのようです。国家による、さらに疑わしい行動のまわりに防護壁を立て、その壁を破ることは犯罪にしようとする動きです」

アパルトヘイトからの解放運動をたたかった現在の南アフリカ与党 ANC内に、政権取得以前からすでに武器売買をめぐる汚職や腐敗、あるいは人権蹂躙を行っていることは多くの人たちが指摘してきたことだ。まさに「権力は腐敗する」を絵に描いたような構図だ。
秋に訳が出るゾーイ・ウィカムの『デイヴィッドの物語』は、そんな解放運動の内部事情を彷彿とさせる作品でもある。

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付記:クッツェーとゴーディマは長いあいだ、なにかというと比較されてきた2人の南ア出身のノーベル賞作家だった。こうして見ると、あらためてその違いがわかる。ゴーディマがアパルトヘイトと南アフリカという国についてみずからの経験を交えて批判するのに対し、クッツェーは現在、世界中で起きている(政治、経済などの)動きをふまえた、国家の行動として南アフリカ政府の動きを批判している。
このスタンスの違いはそっくりそのまま、作品を書くスタンスの違いにも投影されてきたといえる。

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さらに付記:6.11──いちばん上の写真はケープタウンのガヴァメント・アヴェニューにある国会。アパルトヘイト末期を舞台とした『鉄の時代』で、主人公ミセス・カレンが「恥の館」と呼んで、火の点いた車ごと突入しようと考えた建物だ。

2012/06/02

これはお薦め!──『21世紀の世界文学 30冊を読む』

待望の本が出た。

 都甲幸治さんの『21世紀の世界文学 30冊を読む』(新潮社)だ。これを読むと、この切羽詰まった日本で「世界文学の可能性」がスパッと見えてくる。
 ちょっと長いけれど「あとがき」から引用する。

「完全にフラットになった世界の中で、自分と同じような問題を抱え、苦しんでいる人々と繋がる。そうした当たり前のことが、ようやくインターネットなどの力で実現するようになったんだと思う。憧れに基づく愛なんて浅すぎる。深い関係においては、表面的な思い込みなんて役に立たない。考えてみればこれはわくわくする状態だ。だって隣の人より、地球の裏側の友達のほうが自分のことをよくわかってくれるかもしれない状況なんだから。そうした意味での世界文学は最近始まったばかりだ。むやみに仰ぎ見ることをやめてはじめて、他者を腹の底からきちんと尊敬できるようになるんだと思う。そのとき、外国と日本という境界なんて心の中から消えているといい」

 ここを読んでわたしも「腹の底から」熱いものがわいてくるのを感じました。それを「ださい」なんていわせません!

 かのジュノ・ディアスの訳しおろし短編「プラの信条」も入ってますよ〜。
 超、おすすめです!!!

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付記:タイトルは正確にいうと「21世紀の英語で書かれた世界文学」かもね。あ、例外がひとつ、ロベルト・ボラーニョはスペイン語から英語への翻訳です。

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付記の付記:「英語文学」だけで「世界文学」といえるのか? という内容のご意見を複数の方からいただきました。たしかに、ではあります。しかし、この本をわたしが「買う」のは、翻訳文学に対する訳者、読者の従来のスタンスそのものを大きく変えようとする力がみなぎっているところです。それは世界との向き合い方、他者との関わり方を変えようとする切実さでもあって、そこがいいと思う。