2011/03/27

「ことばのポトラック」でいいそびれたこと

今日は渋谷の「Saravah東京」で大竹昭子さん企画の「ことばのポトラック──3.11のかなしみをのりこえるために」が開かれた。緊張感のあるなか、音楽や歌もあって、とても良い会だった。参加者は出演順に以下の通り!

司会 大竹昭子
第一部
 佐々木幹郎
 くぼたのぞみ
 古川日出男
 東直子
 管啓次郎
 Ayuo(管&Ayuoのジョイントを含む)

第二部 
 潮田明
 平田俊子
 堀江敏幸
 南映子
 間村俊一
 小池昌代
 佐々木幹郎(かのうしょうこ&小沢あき/歌とギター)

 帰りの電車のなかで「やっぱりこれだけはいわなきゃいけなかったなあ」と思ったことを以下に書いておく。3編読んだ詩の最初の詩が「ジョンのために」という副題がついている詩で、なぜ今回それを選んだかというと、この作家(J.M.クッツェー)はこんな発言をしていたからだ。順番が初めのほうだったせいか、緊張感が抜けないまま、いいそびれてしまった。

「じつは、わたしはひとりの人間として、ひとりの人格として、この世に苦しんでいる事実があるということによって打ちのめされるのです──それは人間の苦しみにかぎらないのですが──つまり、自分の考えていることが混乱と無力感のなかに投げ込まれるのです。わたしのフィクションとして構築されたものは、打ちのめされることに対抗する、卑小で、愚かしい防御なのですが、わたしにとっては紛れもなく、そうなのです」Doubling the Point, p248(『鉄の時代』あとがきより、p256)

 詩を書くことも、翻訳をすることも、わたしにとってはいま、この「打ちのめされること」へのあらがいそのものとなっている。そのことをみんなとシェアしたかった!

 55の客席は満席。お断りしなければならなかったほどの申し込みだったそうだ。 
 ステージのようすはいずれ4月になってから東京FMで放送され、朗読された詩や歌や句なども冊子として印刷されるそうだ。CD化のプランも進行中だと聞いた。

2011/03/25

ことばの力、メディアのあり方

 ことばに関わる者として、ことばがどのようにこの間、あつかわれてきたか。どのように働いてきたか。どのように受け取られてきたか。ずっと考えてきました。
 TVや新聞などで公表される被害の報告、原発の情報、放射能の被害情報、などなど。

 3.11以来、海外メディア(おもに英語圏)がどのようにこの事故について、とりわけ原発事故について報道してきたか、鋭く、丁寧に、具体的事例をあげながら分析した人がいますので、ご紹介します。情報を受け取り判断する側のことも含めて書かれていますので、大変、参考になります。

 ここです

 また、沖縄の基地をどうするかという日本社会の問題を追いかけているブログを、定期的に読んできましたが、今回の地震、津波、そして原発事故について発信するこの方のことばも、私は高く評価したいと思っています。野菜についての今日の発言も、落ち着いて耳をかたむけたいものでした。

付記/画像はネットから拝借しました。

2011/03/22

ことばのポトラック──大竹昭子さんが緊急企画

カタリココでおなじみの大竹昭子さんの緊急企画で、きたる27日(日)に渋谷のサラヴァ東京 で「ことばのポトラック」が開かれます。わたしも声をかけていただいて出演し、詩を朗読します。

 こんなときに、ことばは、ことばで、ことばとともに、なにができるか? 音楽もあります。

 ぜひ、みなさん、来てください。

http://katarikoko.blog40.fc2.com/blog-category-0.html

 場所:サラヴァ東京
東京都渋谷区松濤1丁目29-1 渋谷クロスロードビル B1 TEL/FAX 03-6427-8886

 時間:2011年3月27日午後12時半開始

 ランチブッフェ形式で予約もはじまりました。詳細および予約は「ことばのポトラック」へ。

2011/03/21

ことば発見──切り抜き帳

今日、友人のブログで面白いことばを見つけた。

われわれの思想的弱さは「学校に通ったから考えるようになった者」の弱さだ。仕事と放浪により考えることへと追い込まれていった者の思想には、まったく別の手触りが生じる。しかも彼は一時期盲目だった!

 エリック・ホッファーという人の書いた本『エリック・ホッファー自伝』(中本義彦訳、作品社)についてのコメントである。なかなか示唆的。

 でもその友人はわたしなんかよりはるかに長い時間「学校に通った」人であり、いまも学校で(?)教えることを仕事にしている人だ、そこがまた面白い。その友人のブログはこちら

2011/03/18

日記ふうに

 机にむかうと正面の窓からカンヒザクラの紅色の花がみえる。大きく揺れた先週の11日にはまだ、ほんの少し咲いていただけの花が、今日は明るい光のなかで勢いよくつぼみを開いている。つぐみも鳴いている。(写真はネット上のものを拝借)
 
 福島第一原発はいくばくかの放水はあったものの、熱はとれないし、まだまだ危険な状態がつづいている。熱を下げるための、爆発を起こさないための、賢明の努力がつづいているようだが、浜岡原発は東海沖地震の予測/警告にもかかわらず運転をつづけているというニュースも入ってくる。

 奇跡的にこのまま熱をさますことに成功しても、事態は長期におよぶ。腹をくくって暮らすしかないのだろう。ときどき美しいものをながめたり、肩のこりをほぐしたり、友人の声を聞いたりして。

 私はこの一週間にアディーチェの第二短編集に入れる短編を数編、すでに訳してあったものを見直してしあげた。こういうときは節電のためにもあまり出歩かずに、できる範囲で対策をとりながら、いつもの仕事をする、それがいちばんのように思える。定期的にニュースをチェックしながら、国境なき医師団に少しの寄付をして、家族、友人などの安否もちらほら確認しあって。

 車を日常的につかっている友人のなかには、しばらく車を使わない、と決めた人もいる。自分の足を使う。できるだけ公共機関を使う。そうすればガソリンなどのエネルギーを節約できるから。そうね、その分、空も青くなるかしら、とわたしは笑って答えた。

 買い物は、停電との兼ね合いもあるけれど、生鮮食料品だけ足りないものを買い足す。料理もふだんどおり行っている。
 暖房は灯油ストーブと旧式のガスストーブなので電気は不要。
 
 ひょっとすると6時20分から停電になるかもしれないと思われた、昨夜のわが家の夕食メニュー:
 
  鮭のバジルオイルソテー
  グリーンサラダ
  小松菜と油揚げの煮浸し
  なめこのみそ汁
  白菜漬け
 
 いつもより少し早めに準備にかかり、サラダや煮浸しを先に作り、5時半ころに鮭をフライパンにならべて焼く。
 電気釜でご飯をたくことをのぞけば、料理はすべてガステーブルでするので、停電になっても加熱にはこまらないが、ファンがまわらなくなるので停電予定時間前に調理はすべて終了。テーブルにろうそくを準備して、各自がペンライトや懐中電灯を一本身につけることにする。
 
 結局、昨夜は停電はなかった。今日はまた今日の風が吹く。窓の外の陽の光が本当にきれいだ。

2011/03/17

被ばくについての考え方

福島第一原発の状況が予断を許さなくなっています。
地震と津波による被害を受けた方々は大変な思いをしていらっしゃるかと思います。さらに原発の事故で避難を余儀なくされている方々も。

私は東京を離れるつもりはありませんが、乳幼児、十代の若者たちなど、これからの世代を担うひとたちが、じつは、放射線や放射能物質による被害をもっとも大きく受けることは、あまり伝えられていません。その点に注目した情報を以下にあげますので、お役立てください。いたずらにパニックにならず、冷静に考えて、できることは着実にやる、ということが大切だと思います。

原子力資料情報室」の「被ばくについての考え方」のページをコピー&ペーストします。In English → http://www.cnic.jp/english/


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放射線被ばくの考え方を整理してみた。(投稿者: 原子力資料情報室 投稿日時: 2011/3/17 18:46:48)

被ばく線量の推定には、本来ならどのような放射能がどれだけ放出されたのかという基礎的なデータが必要だが、これが公開されていない。そこで、今の段階では、かなり粗いものであっても、各個人が自分の被ばくを推測して、判断する目安を得ることは有益だろう。

�単純に被ばくを計算する

例えば、住んでいる地域で20マイクロシーベルト/時の線量が測定されたと仮定しよう。

この線量の状態が続くと仮定して、時間を掛けると、とりあえず被ばく線量が出てくる。24時間では480マイクロシーベルトとなる(20×24=480)

�内部被ばくを計算しよう

人間は呼吸をしているのだから放射能を体内に取り込む。この線量を計算することは難しいが無視することはできない。初めに書いたようにどの放射能がどれくらい出ているか分からないからだ。ここでは大まかに2倍とする。そうすると、24時間で960マイクロシーベルトとなる(480×2=960)

�乳幼児や子供は放射線への感受性が高い

乳幼児や子供、成長期の若者は放射線への感受性が高いと考えられている。ここでは2倍とする(ヨウ素131では10倍になるとの評価もある)。

乳幼児や子供は、24時間で1,920マイクロシーベルトとなる(960×2=1920)。

�被ばくの影響を考えよう

専門家がいう「直ちに人体に影響を与える量」とは急性障害を与える量250ミリシーベルト(250,000マイクロシーベルト)のことを意味しているようだ。あるいは、人によっては100ミリシーベル トの被ばくのことを意味しているように思われる。これを基準に考えることは高い被ばくを容認することになる。

微量は被ばくでも発がんのリスクを高める。発がんのリスクは被ばくの量に応じて高くなる。例えば、国際放射線防護委員会は1ミリシーベル トの被ばくで、将来10,000人に1人のガン発生が考えられるとしている。この評価には、倍くらい厳しく見るべ きとの意見もあり、その場合5,000人に1人となる。

�被ばくは極力避ける方が望ましい。が、少しの被ばくで大慌てする必要もない。

被ばくを低く抑えるには、�離れる、�時間を短くする、�身に付かない(吸入しない)ようにすることが原則。モニターの値が高い時にはできるだけ外出を控える、外出は短くする、マスクなどで防護する、などの対策 が考えられる。屋内は屋外に比べて、被ばくは2~3倍くらい少なくなる。

モニターの数値は首相官邸「平成23年東北地方太平洋沖地震への対応」で得ることができる。

http://www.kantei.go.jp/jp/kikikanri/jisin/20110311miyagi/index.html


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付記:地震、津波、これは天災です。しかし、原発事故による被ばくやその結果おきるさまざまな被害、これは明らかに人災です。

2011/03/09

J. M. クッツェーの顔がコインに!

南アフリカの「ミント・カンパニー」は1991年から毎年300枚の「プロテア」コインをつくってきた。1991年といえばネルソン・マンデラが解放された翌年である。コインのそれぞれの年のテーマがおもしろい。
 

 たとえば最初の1991年は「看護」、南アフリカにおける看護の歴史100年を祝って、だそうである。そのほかの主だったテーマをあげると、1996年が「憲法」、1997年が「女性」、1999年が「南アの鉱山業」、2000年が「ワイン醸造業」、2004年が「民主化10年」、さらに2005年は「ノーベル平和賞受賞者ルトゥーリ」、2006年「同ツツ主教」、さらに2007年の「マンデラとデクラーク」とノーベル平和賞がつづく。

 なんといってもおもしろいのは、その翌年2008年のテーマ「メイド・イン・南アフリカ」で、コインのイメージとなった人物は「マハトマ・ガンジー」。
 つまり、ガンジーは「南アフリカ産」なのである。この意味を知っている人は思わず、にやりとするはず。


 さてその翌年、つまり2010年にプロテアコインのイメージとなったのは「ノーベル賞作家のナディン・ゴーディマ」。シリーズは似たようなものがつづくとこれまでのテーマを見るとわかるから、2011年のテーマが作家、J.M.クッツェーであっても驚くにはあたらないだろう。

  とはいえ、オーストラリアへ移住してすでに9年になる彼も、故国南アフリカの金貨に彫られるのはの、まんざらではないだろうな。わざわざ在オーストラリアの南アフリカ高等弁務官、コレカ・ムクルワナがアデレードのアートギャラリーまで出向いてクッツェーにコインを手渡したというのだから。

2011/03/01

水牛のように── 詩を書いて

水牛のように」という月刊の Webマガジン(といっていいのだろうな)に詩を連載しはじめて約2年になる。1、2度休んだことがあるけれど、ほぼ毎月書いてきた。

 それらの詩はこのブログの右側「café」にリンクさせてあるので、いつでも読むことができる。

 たいていの詩に、ある山の名前が出てくる。「ピンネシリ」、アイヌ語で「男の山」という意味だそうだ。でも、どういうわけか、そのことを知ったのはつい最近で、いや、どこかで何度か聞いたことがあったかもしれないが、記憶されず、深く認識されないままきてしまった。なぜだろう? いくつか思い当たることはあるのだけれど、どれも決定的な理由とはいいがたい。
 
 幼いころ、北海道の地名はおおかたがアイヌ語起源であることは、母から聞いて知っていた。そのときは「ふ〜ん」と思うだけで、それが意味するところまでは考えることができなかった。考えないまま北海道を出てきてしまった。
 考えなければいけないと気づいたのは、それからずいぶん時間が経ってから、幼いころは「滅んだ」と教えられたアイヌの人たちは「滅んでなんかいないのだ」と知ったときだ。勝手に「滅んだ」と決めつけたのはシャモ(和人)であって、滅ぼそうとしてきたのもシャモだと知ったときだ。村の小学校では開拓史の苦労話ばかり教えられた。そういう時代だったのだろうか。いやそれだけではない。

 80年代になって早稲田大学で「アイヌ語」を学ぶ講座があることを知ったけれど、そのときは、ちいさな3人の子どもたちの世話に明け暮れ、始まったばかりの「アンニョンハシムニカ」をきくことで精一杯だった。しかし、それも長くは続かなかった。ハングル文字が出てきた時点で、ほぼギブアップ状態になってしまったからだ。

 ひょんなことから、南アフリカの作家の小説を訳すことになり、南アフリカ文学、南部アフリカ事情に深入りすることになったときだっただろうか、幻視の地平線はるか遠くに、青い山なみがぽっかりと浮かんできたのは──。
 それでもすぐに日本の北へ向かうことはなく、ひたすら南アフリカの文学に──とりわけ、J・M・クッツェーという、ヨーロッパからの植民者の末裔としてケープタウンに生まれた作家の作品群に──さらにはアフリカから出てくる文学に惹きつけられ、こだわりつづけてきた。

 距離感がほしかったのだろう。私自身が植民者の末裔であるとあらためて知ったとき、そのことを考えるための歴史的な時間軸に裏打ちされた「遠くから見る堅固な足場」が必要だったのだろう。

 自分が生まれた土地を曇りなく、しかも、余計な感情を交えずに、冷静に見る視点ができるまでに30年近くかかったことになる。まさに「水牛のように」である。やれやれ。
 そしていま、ようやく「ピンネシリ」と向き合えるようになった。そう思う。

(左の写真はネットから拝借しました。あしからず)