2010/12/21

アムステルダムで新作を読むクッツェー

2010年5月13〜16日、アムステルダムで開かれた催し「Is dit JM Coetzee?/Is this JM Coetzee?」で「Summertime」を読むクッツェーの映像が、ネット上からカットされたようです。(参照:5月26日のブログ)(2017.12.21付記:ここで観られます!

 でも、この催しのなかで新作を読むクッツェーの映像がありました。直接飛べないみたいので、このサイトの右上「Video」をクリックしてください。

「エリザベス・コステロもの」に属する作品です。猫について、動物の生命について、人間の生命、選択について、スペインの田舎に住むエリザベスと、訪ねてきた息子ジョンとの白熱した会話が楽しめます。

2010/12/13

チママンダ旋風が残したもの

チママンダ(わたしの神は倒れない)というすてきな名前の人は、濃い青のフレンチスリーブのトップに黒っぽいパンツ姿で、荷物をのせたカートを押しながらゲートから出てきた。一瞬、思ったより小柄だと感じたのは錯覚で、その姿は『半分のぼった黄色い太陽』の原著カバーを高くかかげる出迎え陣のほうへ近づくにつれて、ぐんぐん大きくなった。初めまして、ようこそ、笑顔、そして笑顔。たがいにことばを交わしながらハグするころには、みんな、以前から知りあいのような気分になっていた。

 国際ペン東京大会の「文学フォーラム」に招待されて初来日したナイジェリア出身の作家、チママンダ・ンゴズィ・アディーチェはこの9月に33歳になったばかり。コンパクトにぎゅっと詰まったスケジュールをこなし、さらに日帰りで京都の旅を楽しんで、無事帰国した。

「文学フォーラム」2日目の9月24日は俳優の松たか子が美しい音楽をバックにアディーチェの短篇を朗読し、満席の会場を魅了。朗読したのは2007年、世界にさきがけて出た日本オリジナル短編集『アメリカにいる、きみ』に入った同名の短篇だ。2009年の英語版短編集ではタイトルが「なにかが首のまわりに」と変わり、内容にもかなり手が入っていた。ラゴスからアメリカへ渡った「きみ」と渡米先で仲良くなったボーイフレンドの立ち位置の差が、よりくっきりと書き込まれていたのだ。急遽、改訳して来日にそなえたが、新バージョンへの加筆内容には、ここ数年の作家アディーチェの微妙な変化を読み取ることができる。

 朗読が終わり、スピーチのためにステージにあがったアディーチェは、やや低めの落ち着いた声で自分の生い立ちや渡米体験をまじえて、アフリカに対する北側社会のステロタイプなものの見方について語った。準備はあまりしないそうで、ときおりメモに目をやりながら、即興で、途切れることなくことばを紡いでいく。まさにストーリーテラーだ。
 語られたエピソードのなかでもとりわけ印象的だったのは、獄中のネルソン・マンデラがチヌア・アチェベの作品を読んで長い刑期を耐えたという話だ。アディーチェは「アフリカ文学の父」アチェベに最大級の讃辞を惜しまない。英米人の書いた本ばかり読んで育った幼いころは、本に出てくるのは白人しかいないものと思い込んでいたが、アチェベの作品を読んで初めて、黒人も、つまり自分のような人間も本のなかに登場していいんだ、と知ったのだという。この体験を彼女は来日中、くり返し語ることになった。

 1930年生まれのチヌア・アチェベはナイジェリア出身の、アディーチェとおなじイボ民族の作家で、代表作『崩れゆく絆(Things Fall Apart)』は英語文学の必読書として世界中で広く読まれている。そんな作家へのオマージュとしてアディーチェは初長編小説『パープル・ハイビスカス』の出だしを、先の作品タイトルで書き出している。
 スピーチのなかで語られたもうひとつのエピソードは、獄中で『半分のぼった黄色い太陽』を読み、心の支えとしたある女性政治囚のことだった。ペルーの刑務所に収監されていたその女性が解放後に語ったインタビューで、アディーチェの小説をあげていたのだ。

 二つのエピソードは「文学はなんの役に立つか」という問いが、北側社会ではいささか古びたように思えても、視点を変えると、じつはまったく古びていないことにあらためて気づかせてくれるものだ。その問いに真っ向から答えようとする作家が、チャーミングな笑顔を見せながら目前にいた。日本ではアチェベの作品は翻訳が少なく、いまではほとんど入手困難と伝えると、おお、それじゃ、わたしのスピーチ内容がちゃんと伝わらなかったのじゃないか、と残念がっていた。
 26日に早稲田大学で開かれたワークショップでは、直木賞作家、中島京子や学生4人とともにステージにのぼり、自分がその影のなかで育ったビアフラ戦争について書くこと、あるいは、書くことそのものについて、しなやかに、真摯に応答していた。

 翌27日は朝から夕方までインタビューがぎっしり詰まっていたが、これも大好きなチョコレートケーキを食べて元気を補給しながら最後までこなした。ときにアディーチェにとっては、わあ、ステロタイプ、と感じられたであろう質問にも(質問者の側にしてみれば、それが一般的な日本人読者のアフリカに対する見方なのだから、きいておかねばと思うのも無理はなく)、茶目っ気たっぷりの目をくりくりさせながら忍耐強く、すばらしく機転のきいた受け答えと細やかな気遣いを見せた。

 彼女が何度も強調したのは、長いあいだ欧米人がアフリカのことを書いたものが読まれてきたが、それはアフリカを外側から見て書いたもので私たちの物語ではなかった。いまはアフリカ人が等身大のアフリカを内側から書き、それがアフリカの物語として読まれるときだと思う、ということだ。

 こうしてチママンダ旋風が残した肥沃なことばの土壌に、これからなにを実らせるか、それがことばを手渡された者の楽しい宿題となった。

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付記:「群像」12月号に掲載されたエッセイです。

2010/12/11

アディーチェ「GLOBE/著者の窓辺」がアップされました

朝日新聞(11月11日朝刊)のチママンダ・ンゴズィ・アディーチェへのインタビュー記事が、ネット上でも、次のサイトで読めるようになりました。

 GLOBE/著者の窓辺


(『半分のぼった黄色い太陽』について)--- 家族からは「乗った列車が事故にあっても、あなたは生き残るだろう。なぜなら、この本を書き上げなければならないから」と言われました。

--- 南アフリカのネルソン・マンデラは獄中にいて、できる限りの本を読み、それが支えになったと言っています。なかでもナイジェリアの作家アチェベの『崩れゆく絆(きずな)』はとても重要な作品だったそうで、「この作家がいれば刑務所の壁さえ崩れ落ちるのだ」と言っています。

2010/11/29

待望の「新版 アフリカを知る事典」

出ていたんですねえ! さっそく買いました。今朝、注文して、夕方には手元に届くところがなんともすごい。日本の、いや、東京だけだと思うけれど、このスピードはすごい。なんというか・・・。アフリカのポレポレタイムの対極!
 
 一昨日もおなじ版元の本、いや雑誌の話だったけれど、これはまったくの偶然。
「アフリカ」をやってる人で、この事典の存在を知らない人はいないし、固有名詞や歴史状況などこの事典を調べない人はいないだろうな、と思う。翻訳やっていて、Google もない時代、この事典にどれほどお世話になったかは、もう計り知れない。いまも、細かなことはやっぱり確認のためにひく。ただ、初版が1989年で、改訂新版が1999年、そろそろ新しい情報がほしいなあ、と思っていたところで、やっぱり出ましたね、ほぼ10年後に。ありがたい!

 さっそく「南アフリカ」の項をぱらぱらする。おお、ズマ政権まで記述されている(まあ、当然か)。もうひとつ、おお、と思ったのは「ンクルマ/Nkrumah」だ。いわずと知れたガーナの初代首相、初代大統領。長いあいだ「エンクルマ」と表記されてきた名前が、ついに「ンクルマ」になった。

「n」で始まるアフリカ人の名を日本語のカタカナで表記するとき、むかしは苦しまぎれに「エン」とつけたけれど、最近はアフリカにはざらにある名前のかたちと知られるようになったからか、「ン」でそのまま表記することが多くなった。たとえばチママンダ・ンゴズィ・アディーチェの「ンゴズィ」は Ngozi のカタカナ表記。本当はちいさな弱拍の「」なんだけれど、この文字を小さく表記することは日本語では一般的ではないので、いたしかたなく「ン」のまま。

 とにかく、ぎっしり、みっちり情報が詰まっている。表紙はかの有名な、ティンガティンガ。しばらくはこの一冊で遊べる。

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付記:しかし、新たに見出し語として加わったチヌア・アチェベの代表作「Things Fall Apart」が「部族崩壊」となっているのは解せない。おおむかし「クッツェー」を「コーツィー」と紹介した人が命名したものと聞いているが、『崩れゆく絆』としてようやく定着してきたところだったのに、残念だ。

2010/11/27

つらら食い──北海道、石狩の「皿の上の雲」

今月の「月刊百科」に載っている中村和恵の「世界食堂随聞記」は傑作! つらら、を食う話です。

 ああ、つらら! 食いました、わたしも。石狩ではなく、空知のつらら、でしたけど。

 緑色のトタンの三角屋根から軒に吊り下がった、でっかい、でっかい、つららをじゅうのうで、いやスコップでだったか、カチンカチン割って落として、そのうちの、ちょっと細くて透明な、可愛いつららをぽきりと折り取り、紐で両肩からつるしたミトンをはめた手でしっかりつかみ、粉をまぶしたような雪を丁寧にぬぐって、おもむろに口に入れる。痛い! とんがった先がほっぺたの裏を突く。ガリガリ。うん、うまい。ファンタスティックな、不思議な味だ。

 ちなみに、北海道では手袋は「はめる」ではなくて「はく」といいました。いまもいうかな? 東京に出てきてもうずいぶんになりますが、この口調はいまでもつい出てしまい、よく家人に笑われます。

 つららばかりか、雪も食いました。まっさらな粉雪、気温が零点下もぐんと下がると、ふわふら落ちてくる雪が結晶そのものになって、目に見えるのです。視界は、白さの欠片もない東京に長くなって、いまさらながらに考えると、もうファンタジーそのもの。ああ、そうか、わたしは子ども時代、別に幻想小説なんか読まなくても、幻想に包まれる暮らしをしていたのかもしれない。
 
 そんな子どものころの記憶を、エッセイスト、中村和恵は見事にすくい取って、目の前にならべてくれます。北国が好きな人、雪や氷が好きな人、必読です!

2010/11/26

Nefeli's Tango/Here Comes the Sun など

このところ音楽のことを書いていない。最後に書いてからもうずいぶんになる。なぜか?
 答えは簡単、あまり聴いていなかったからだ。いつのまにか遠ざかっていた。それほど今年の夏は暑く、それにつづく秋も、さまざまな理由でゆっくり音楽を聴く時間に恵まれなかった。

 音楽を耳に注がない時間が長くなると、心が渇いてくる。放っておくと渇いた心がひび割れる。今年は、ひびが入る寸前まで行ったような気がする。ようやくそこから抜けることができた。ある「事件」のおかげだ。

 2日ほど前のことだ。あるパーティーで思いがけず音楽が流れてきた。50代の1人の男性がこぶりのギターをかかえて歌いだした。クラシックギターをふたまわりほど小さくしたギターにスチール弦をはったものだった(せっかくそのギターの名前を教えてもらったのに、もう忘れている/涙)。もう1人の男性が加わってデュエット。曲は60年代のS&G(もちろんよく知っている曲なのだけれど、曲名が思い出せない!)、そして2曲めはビートルズの "Here Comes the Sun" だった。
 一気に飛んだ。時間がぐんぐん遡って、くらくらするような渦のなかにいた。なにかがほぐれていった。

 今日はひさしぶりにCDをかけている。ハリス・アレクシウの「Nefeli's Tango」。昨年の夏、毎日、毎日『半分のぼった黄色い太陽』の翻訳と格闘していたとき、よく聴いた曲だ。でもそのときはCDではなく、YOUTUBE にアップされた、美しい、ギリシャのスコペロス島の映像といっしょだった。バックがこの曲 "Nefeli's Tango" だったのだ。おかげで猛暑と缶詰仕事を乗り切ることができた。

 音楽に感謝! そして音楽を愛する人たちにも、深く感謝!!

(ちなみに、上の写真は、ニーナ・シモンの有名なアルバム「Here Comes the Sun」)

2010/11/18

切り抜き帳「作品が面白いのは作者が面白いから」

「作品が面白いのは作者が面白いからだ。作品がどんなに素晴らしくたって作者がつまらない人間だったら、その作品と作者に寄り添って人生を賭けられないじゃないか。文学作品を読むのは、作品を評価するためではなく、生きていくうえでのアイディアを得るためなのだから。」

 まったく同感! 

 たったいま届いた本の帯に書かれていることばだ。忘れないうちに書きつけておく。「文学作品を読むのは評価するためではなく・・・」というところに深くうなずいてしまった。そう、「その作品と作者に寄り添って人生を賭け」ること、文学作品を長い時間をかけて翻訳するときも、このことばは深い真実味を帯びてくる。
 こんなしゃれた、心憎いことばを「あとがき」に書くのは、インスクリプトから出たこの本の著者である。
 

2010/11/16

ANC政権とたたかう87歳のナディン・ゴーディマ

サッカーのワールドカップが終わった南アフリカで「情報保護法案」をめぐる報道が目につくようになった。
 国益のため国家機密の保護をうたう法案だが、もし成立すると出版禁止や自由な議論の場が失われてアパルトヘイト時代に逆戻りする、と作家やジャーナリストたちは強く反発している。

 今月87歳になるノーベル賞作家ナディン・ゴーディマが、アンドレ・ブリンクやジャブロ・ンデベレ、ジョン・カニ、J・M・クッツェーなど、そうそうたる人物が名を連ねる嘆願書をズマ大統領に提出したのが9月上旬。さらに同月下旬、彼女はスウェーデンのヨーテボリで開かれたブックフェアに参加し、聴衆に法案反対の署名を呼びかけた。


 ヨーロッパ第2の規模を誇るこのブックフェアの、今年の焦点は「アフリカ」。ラトビア、エストニアなど、通常一カ国をテーマとするのにアフリカを一国扱いするのは、と批判もあったが、ゴーディマなど総勢70名の作家が28カ国から招かれた。

 20年前は自他ともに認める反アパルトヘイト闘士で、1990年2月までは非合法だった解放組織アフリカ民族会議(ANC)の隠れメンバーだったゴーディマはいま、政権党となって金銭をめぐる腐敗のうわさが絶えないANCと真っ向から闘う立場に立たされている。

「それはもう皮肉をはるかに通り越している」とこの作家はインタビューで語る。「人々は自由を手に入れるために死に、大きな代償を払って自由を手に入れたと思ったのに、またしてもその自由が脅かされているのだから」と。

 南ア国内ではこの法案に各界のリーダーたちも反対の態度を表明し、市民レベルの「R2K(Right to Know=知る権利)キャンペーン」も立ちあげられた。国外からの圧力も強い。

 憲法で保証された「情報へのアクセス権」をめぐる動きがどうなるか、それは今後この国がどこへ向かうかを知る重要な手がかりとなるだろう。

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付記:2010年11月9日北海道新聞夕刊に掲載されたコラムです。

2010/11/05

「群像」12月号にチママンダ来日のことを

講談社の月刊文芸誌「群像 12月号」に、チママンダ・ンゴズィ・アディーチェ来日をめぐるエッセイを書きました。

 まあ、裏話みたいなものです。タイトルは「チママンダ旋風が残したもの」。よかったら、ぱらぱらしてみてください。

2010/11/01

アディーチェの記事が載りました

9月末に来日したチママンダ・ンゴズィ・アディーチェのインタビュー記事が、今朝の朝日新聞「GLOBE」に載りました。9月27日に行われたインタビューを主体に、24日に早稲田の大隈講堂で行われたスピーチの内容も組み込まれています。

 27日はあいにく外は雨で、肌寒い一日でした。でも写真のように、アディーチェはノースリーブ。あの thoughtful な眼差しがじっとこちらを見つめています。
 

2010/10/29

アディーチェが月曜/11月1日の朝日新聞「GLOBE」に・・・

朝日新聞には、月に2回発行される「GLOBE」という別刷りがあります。本紙より少し白い紙が使われた全8ページの抜き出しで、面白い特集が載ります。

 昨年8月3日号には、この夏他界した歴史家トニー・ジャットが載りました。カメラをじっと見据える、悲しそうな、すばらしく真摯な表情に心うたれて、あの大部な著書『ヨーロッパ戦後史』上下巻(みすず書房)を購ってしまいました。
 そのときの写真に写っていた彼の悲哀をおびた眼差しが、すでに自らの発病を知っていた人の視線であったことは、うかつにも、今年8月、彼がALSによって他界したと報じる「Guardian」の記事を読むまで知りませんでした。

 その「GLOBE」の11月1日発売号に、チママンダ・ンゴズィ・アディーチェのインタビューが載ります。上記のジャットの記事とおなじ、「著者の窓辺」コーナーです。
 インタビューは9月に来日したときのもので、アディーチェの大きな写真も載ることでしょう。

 ご注目ください!!

2010/10/20

日経新聞10月17日に『半分のぼった黄色い太陽』書評

アディーチェ『半分のぼった黄色い太陽』の書評が、日経新聞に掲載されました。

 日経新聞10月17日「世界の秩序と混乱、立体的に」評者:小野正嗣

ネット上には出てこないため、残念ながらリンクできません。(敬称略)

2010/10/10

『半分のぼった黄色い太陽』が21の言語に翻訳された

チママンダ・ンゴズィ・アディーチェのヒット作『Half of a Yellow Sun』は2006年に発表されてから、すでに多くの翻訳が出ている。(詳しくはリエージュ大学のダリア・トゥンカ氏のサイトを参照。)このたび日本語版が加わって21の言語ということになった。

「21カ国語」と書きたいところだけれど、一言語一国家ではないので「◯◯カ国語」とは書かない。 
 日本では「母国語」という表現が長いあいだ、なんの疑問もなく使われてきた。一国家一民族というフィクションが当然のように語られてきた時期とそれは重なる。それが「意図的な幻想」以外のなにものでもないことは、いまさらアイヌの人たち、沖縄の人たち、朝鮮半島出身の在日の人たちのことを持ち出すまでもなく、自明の事実だ。
 ところが、ある年齢以上の人たちにとって、これがかならずしも「自明」ではないところが厄介だ。もっと厄介なのは、現代日本語のなかに「何カ国語」という表現がしっかり根をおろしていることである。だからつい人口に膾炙したその表現に頼りそうになる。おっと、いけない、違う、違う、と意識しなければ、耳障りのよい表現をそのまま使ってしまいそうになる。実際、この表現はまだまだ目にする。とりわけジャーナリズムの世界では厚い壁のように立ちはだかるのを感じる。

 アフリカ大陸出身のたいていの作家にとって「母国語」という表現はあてはまらない。たとえばアディーチェの場合は250以上の民族が住む国ナイジェリア出身で、民族はイボである。「マザー・タング/母語はイボ語ですか?」と質問されると、彼女は「家族や親しい人たちとはイボ語で話すけれど、教育はすべて英語で受けたので、英語で考え、英語で書きます」と答える。

 大学町で育ち、幼いときから英語の本に馴染んで育った彼女は二言語(家の外ではヨルバ語やハウサ語を含む多言語)空間に生きてきた人だ。それでも本音の感情を伝え合うときはイボ語になる。実際、今回の来日時もそんなやりとりを何度か耳にした。この辺はとても微妙。

 以前、南アフリカ出身の人たちと接したときも、それと似たような体験をした。南アでは小学校の低学年までそれぞれの民族言語で学び、途中から英語になる。アディーチェよりは自民族言語で「書く」習慣が多少はあると考えていいのだろう。ズールー語やコーサ語での出版もある。
 アディーチェは、イボ語で書くことは考えられないと語った。『半分のぼった黄色い太陽』では、執拗に「英語で」とか「ピジン英語で」とか「イボ語で」とト書きが入っていて、言語への強いこだわりが書き込まれている。それが語り手の置かれた位置を明らかにもする。
 大学講師のオデニボが「アフリカで白人のミッションが成功した理由は?」と英国人リチャードに唐突な質問をし、「英語で僕は考えている」と述べる場面があった。英帝国による「精神の植民地化」手段としての徹底した英語教育の結果を、憤怒をもって大学人が語る場面だ。

 アディーチェが多くの対談やインタビューを精力的にこなす場面に同席しながら、作中のその場面を何度か思い出した。そして「旧植民地出身の作家にとっての言語」問題の複雑さについて考えていた。

*カヴァー写真は上から、オランダ語版、ヴェトナム語版、イタリア語版、ボスニア語版。
 ちなみに21言語とは、オランダ語、ドイツ語、スウェーデン語、ノルウェー語、デンマーク語、スペイン語、セルビア語、ボスニア語、ギリシア語、スロヴェニア語、イタリア語、フランス語、ポルトガル(ブラジル)語、チェコ語、ヘブライ語、ポルトガル(本国)語、フィンランド語、ヴェトナム語、ポーランド語、シンハラ語、日本語。

2010/10/05

ルーシー再発見/映画「Disgrace」と小説『恥辱』 

 翻訳中のゾーイ・ウィカムの『デイヴィッドの物語』はちょっと横に置いて「もうひとりのデイヴィッド」の物語を読んでいる。デイヴィッド・ルーリー、大学教授、52歳、離婚歴2回。そう、知る人ぞ知る、J・M・クッツェーの傑作『Disgrace/恥辱』の主人公である。

 友人たちがやっている映画の会で次回、スティーヴ・ジェイコブズ監督の映画「Disgrace」を観ることになった。そこで原作本をひっぱりだして読んでいる。映画を観てから原作を読み直すと、いいのやらわるいのやら、映画に登場していた俳優たちの顔がすぐに浮かんできて脳裏から離れない。デイヴィッド・ルーリーはかのジョン・マルコヴィッチだ。う〜ん、である。

 でも、いくつも発見がある。これは面白い。あ、脚本を書いたモンティセッリは、ここをこんな風に変えたのか、と原作とのちがいもよく分かる。これもまた面白い。
 再発見はなんといっても娘のルーシーだ。原作では会話部分のほかは、あくまで父であるデイヴィッドの目からみた娘として描かれているが、映画ではデイヴィッドもルーシーも観る者の視線から等距離。そのため、ルーシーに感情移入することが可能になる。つまりルーシーとの距離が縮まるのだ。

 セクハラで大学の職を失ったデイヴィッドがころがり込むルーシーの家は、東ケープにある。コーサやポンドといった先住民族との土地争奪の歴史が滲み込んでいる土地だ。その土地と「恋に落ちた」元ヒッピーの白人女性ルーシーが、3人組の若い黒人の強盗にレイプされる。それでも彼女は土地を離れない。身ごもった子供を産んで、その土地の人間になって生きていこうと苦渋の決意をするところは、作品後半の重要なテーマである。

 映画を観たあと原作を読むと、ルーシーのこのことばに作者はなにを込めた? といった問いも考えやすい。ルーシーもまた作者クッツェーの分身であることを考えるなら当然浮かんでくるはずの問いが、彼女の「かたくなさ」に呆然となって、小説が発表された10年ほど前はなかなか思い浮かばなかった。

 そんなルーシーに光をあてて再読することで、作者クッツェーと南アフリカという土地の関係もあらためて理解できる時期にきたように思えるのだけれど、どうだろうか。作者はこの小説がきっかけとなったある事件のあと南アフリカを離れたが、ワールドカップの開催もあったことだし、南アの歴史事情も、日本人にとってそれほど遠いものではなくなった、そう思いたいものだ。☆

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2013.7.4付記:2000年に起きたANCや人権委員会からの『Disgrace』への批判と、作家クッツェーがオーストラリアに移住したことには直接的な関係はない。クッツェーが1990年代半ばころからアデレードへ移り住むことを考えはじめ、書類などもそろえていたことはカンネメイヤーの「J.M.Ceotzee:A Life in Writing」でも明らかにされている。たまたま、時期的に重なったため、単純な「理由」をもとめる世界中のメディアと視聴者が飛びついただけなのだ。かくいうわたしも報道されたニュースに振りまわされた。深く反省して、ここに訂正したい。

2010/10/02

ひさしぶりに「水牛」に詩を/アディーチェさん帰国

 チママンダ・ンゴズィ・アディーチェさんが帰国して、さまざまなお土産と宿題を残しながら「チママンダ旋風」もひと息。10月を迎えました。
 日本での「アフリカ表象」の問題点と課題は、これから私たちが真摯に取り組まなければならない重要項目です。アディーチェさんの来日と彼女が残していったことばによって、それはさらに明らかになるはずです。対談やインタビューの成果に期待したいと思います。

水牛のように」に復帰しました。右の「Café」トップラインにリンクしましたが、まだしばらくは『半分のぼった黄色い太陽』の余韻が消えないようです。

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明日、10月3日の朝日新聞書評欄に、『半分のぼった黄色い太陽』の書評が掲載されます。
 

2010/09/29

「ファラフィナ」は「アフリカ」の意味

 チママンダ・ンゴズィ・アディーチェさん、来日中です。

 国際ペン東京大会の、いわば前夜祭にあたる「文学フォーラム」第2日目の朗読、スピーチも無事に終わり、雑誌の対談や新聞社のインタビューなども終わりました。あとは記事になるのが楽しみですが、さっそく今朝の読売新聞(文化欄)に記事が掲載されました。
「ペン大会、来日の作家たち」シリーズ第三回「等身大のアフリカ描く」というタイトルで、アディーチェさんのにこやかな写真も。
 
 長編『半分のぼった黄色い太陽』の書評で、これまでに新聞、雑誌に掲載されたものを掲載順にあげておきます。(敬称略)

毎日新聞 9月12日「苦悶するアフリカで自分を貫く人々」評者:池澤夏樹
読売新聞 9月19日「恋愛を通して描く戦争」評者:都甲幸治
週刊朝日 10月1日号「ステロタイプを突き崩す原動力」評者:蜂飼耳
産経新聞 9月26日「ビアフラ戦争下の人間模様」評者:楠瀬佳子
 
 1年半、頭が完全にビアフラ漬けになって、夢にまで登場人物が出てきたほどでしたが、著者来日などもあって恵まれました。

 話はとびますが、先日アディーチェさんにいろいろ話をきいているうちに、彼女がナイジェリアで設立した出版社「ファラフィナ・トラスト」の「ファラフィナ/Farafina」の意味が話題になり、どんな意味かを質問しました。どうもイボ語ではないな、というのは分かっていたのですが、なんと「アフリカ」という意味のバンバラ語でした!
 設立者のパンアフリカンな姿勢がよく出ている名前です。

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書評追記(2010年10月10日):朝日新聞 10月3日「幻の共和国舞台に他者の他者を想う」評者:斉藤環

2010/09/18

「なにかが首のまわりに」は「アメリカにいる、きみ」

いよいよチママンダ・ンゴズィ・アディーチェの来日が近づいてきました。

ここでもう一度、お知らせというか、確認を。

 早稲田大学の大隈大講堂で開催される国際ペン東京大会の「文学フォーラム」で、9月24日午後6時から、松たか子さんが朗読するのは、2007年に出た短編集『アメリカにいる、きみ』(河出書房新社刊)に収められた「アメリカにいる、きみ」です。ただし、タイトルが「なにかが首のまりに」と変わり、内容も少しだけ変わりました。でも、基本的にはおなじ作品です。
 先日リハーサルに参加しましたが、とても素敵な音楽がついていました。きっと楽しんでいただけるものと思います。
 
 事前登録は締め切りですが、当日の登録もありますので、登録できなかった方も、ぜひ諦めずに足を運んでみてください。

2010/09/13

『半分のぼった黄色い太陽』──「あとがき」に書かなかったこと(3)

TED TALKS という動画で聴ける発言のなかで、アディーチェは体験をまじえて、アフリカに対する紋切り型なものの見方について語る。

 でもその口調は告発調とはほど遠い。しなやかなことばで、自分もまた、それまで耳にしてきた一方的な情報のみで、自分とは異なる人たちを見ていたことに気づいた経験を語る。そこがとても共感できる。
 こういうところが聞き手を納得させるこの人の魅力なのだろう。くりかえしいいたい。そこには、ステロタイプなフィルターを通して相手を見るのではなく、この世界で、人と対等に出会いたい、対等な人間関係をつくりたい、という切実な願いが込められているのだ。

『半分のぼった黄色い太陽』の訳者あとがきを書くため、アディーチェのエッセイやインタビューをいくつか読んだり聴いたりしているうちに、彼女の発信することばの核心のひとつはそこにあるのでは、と思うようになった。

 そのアディーチェがもうすぐやってくる。じかに話を聞くと、予想外の驚きや発見があるかもしれない。世界を見わたそうとする者を知らず知らず包んでしまう色眼鏡カプセルに、晴れやかな透明感が加わるかもしれない。そして、今年33歳になるこの作家の声に勇気づけられるかもしれない。う〜ん、ちょっとぞくぞく、そして、とっても楽しみ。(おわり)

半分のぼった黄色い太陽』河出書房新社刊、2600円(税別)

2010/09/12

『半分のぼった黄色い太陽』──「あとがき」に書かなかったこと(2)

「わかる」「わからない」を分けるものってなんだろう?

 たとえば、日本とはくらべものにならないほど広大なアフリカについていうなら、地域によって差はあるとしても、世界のメディアのなかでしめる割合、あるいは情報内容の偏りはまことに著しい。なかでも、アフリカ各地に実際に住む人たちにとって、もっとも困惑させられるのが「アフリカというのは◯◯」とか「アフリカ人というのは◯◯」といった固定観念で外側から決めつけられることではないか、と今回あらためて思った。
 アディーチェは米国に渡るまで、自分が「アフリカ人」だとは思ったことはなかった、と語っている。イボ人、ナイジェリア人だと思っていた、と。これは一考にあたいする発言だ。

 ファンタジックにフィクション化されて書かれたルポや小説をそのままリアルな「アフリカ」、リアルな「アフリカ人」と受け取り、その情報を細かく検証する手段や姿勢を、残念ながら、私たちはあまりもたなかった。ある意味、これは無理もないのだ。だってある年齢以上の人たちは、学校でアフリカのことを「暗黒大陸」と教わったんだから。ヨーロッパによる植民地化の内実は棚上げにして、未開で、非知性的で、学ぶべきものなどほとんどない地域だと教わったのだ。

 もう少しなにかあるだろう、と思って読んだ本は、もともと英語やフランス語で書かれていて、書き方も文体もじつにエキゾチックな魅力にあふれていて、そのため読者は、アフリカをファンタジックに見る視点をたっぷりと養ってしまった。なんといってもエキゾチズムは外の世界を見るとき、とても魅力的な衣裳だし、「観光」のかなめだからね。

「ファンタジックにフィクション化されて書かれたルポや小説」というのは、とても面白い。でもこのファンタジーが曲者なんだ。楽しむだけなら直接ひどい害はないかもしれない。でも、それがファンタジーだと気づかないまま、そのような視点から<しか>、現に生きている人たちを見ることができなくなっているとしたら、それはとても困った問題だ。現実の暮らしのなかで人と人は誤解しあい、永遠にすれちがう。
 そして、アディーチェがいう「シングル・ストーリーの危険性」の穴に落ちてしまう。(つづく)

『半分のぼった黄色い太陽』──「あとがき」に書かなかったこと(1)

 今回もまた翻訳しながら、翻訳したあとも、いろいろ考えた。

 チママンダ・ンゴズィ・アディーチェという作家の作品がなぜこれほど魅力的なのか、ということもそのひとつ。おそらくそれは、彼女がアフリカ世界を内側から描いていることじゃないかな──いや、「アフリカ」と一般化して語ることなどできないか。あの大陸は広いし、気候も、地理も、歴史も、文化も、言語も、宗教も、思想も、住んでいる人間もじつにさまざま。だからこの小説の場合は、おおまかに「ナイジェリア」という社会を内側から書いている、といったほうがいい。そこに住み暮らしてきた人たちの物語を内側から書いている、ということだ。それも、共感をもってすっと入り込める登場人物たちの波瀾万丈の物語として。

 考えたら奇妙なことだが、つい最近まで日本語でくらす私たちは「アフリカ」にかんする大部分の情報を、外部の人が描いたものからおもに得てきた。そのほうがわかりやすかったからだ。(この「わかりやすい」がちょっとしたくせ者なんだけれどね。)
 たとえば、ビアフラ戦争ならまっさきに頭に浮かぶのは、たぶん、イギリスの作家フレデリック・フォーサイスの本だ。でも、ルポルタージュ、紀行文といったものは、あくまで旅人の目線から書かれたもので、そこで生まれ、生き、抜き差しならない状態にいる人間、つまり「当事者」の声を聞き取ったものとはいえない。代弁しているなどとは、さらにいえない。

 もちろん外部から見るとき初めて見えるものだってある。当事者にしても、外部へ出て、距離をおいて、自分が出てきた場所や経験してきたことの意味を初めて理解する、ということはよくあることだ。それに、内部からの声が聞こえないとき、そこへ行って情報を得てくるルポはとても貴重。しかし、部外者の書いたもの「しか」聞こえないというのは残念だ。そして危ない。

 なぜ、危ないか? ちょっと想像してみてほしい。思い出してほしい。たとえば日本が、日本人が(といういいかたをおおまかに使うが)、外部社会でどう描かれてきたか。「日本人というのは◯◯」と乱暴な第一印象で一般化されたステレオタイプが一人歩きしたことはなかったか。そう、日本人といえば、「富士山」と「芸者」と「腹切り」だった時代はそんなに遠くはないのだ。そして、そのことに「当事者」である日本人側からなかなか「そんなの違う」と大きな声でいえない時代がつづいた。

 思い出してほしい、60年代のハリウッド映画に出てくる日本人イメージの、なんと貧相な、紋切り型だったことか。なぜ紋切り型を使うか? わかりやすいからだ。でも、この場合の「わかる」って、いったいなんなんだ?(つづく)

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2010年9月12日(今日)の毎日新聞朝刊に池澤夏樹氏の『半分のぼった黄色い太陽』の書評が掲載されました。発売からまだ半月、すばらしい早さ! こちらです。

2010/09/09

『半分のぼった黄色い太陽』の地図が OPEN!

右サイドのいちばん上に「半分のぼった黄色い太陽」の関連地図をリンクさせたつもりでしたが・・・。クリックしても行けない! と思われた方、ごめんなさい。いまはだいじょうぶ、行けます! 

2010/09/07

ブルームズデイってソウェト蜂起の日なんだ!

9月に入っても暑い暑い東京で、ゾーイ・ウィカムの『デイヴィッドの物語』を訳していて、こんな箇所に行きあたった。

<わたしは彼に、ドアがノックされたことに答えてジェイムズ・ジョイスが口にした「カム・イン」が誤って記録された話をする。ジョイスの筆記者だった若きベケットがテクストにそれを含めてしまったのだ。そこでふと思い出したわたしは、柄にもなく、きゃあああっと叫んでしまう。

「青年の日」って、そうよ、ソウェト蜂起の日の6月16日ってのはジョイスの「ブルームズデイ」じゃないの、わたしは興奮してしゃべりつづける、ことばの革命が起きた日よ。考えてもみて、黒人の子供たちがアフリカーンス語は抑圧者の言語だといって反乱を起こしたまさにその日に、かのレオポルド・ブルームは栄養にみちみちた朝食を食べはじめ、さも旨そうに、内臓を食べて──
 デイヴィッドが顔をしかめ、首を振ってそれを遮る。>

 ふ〜〜ん、そうなんだ!
 南アフリカは北ケープ州、ナマクワランド出身の作家ウィカムの、すばらしいユーモアに、あらためてニヤリとなる。

2010/08/31

8月の終わりに

昼なかの蟬しぐれもはたとやみ、それでも、ちょっと遅れてやってきたのか、一、二匹、じっとりとたたずむ木立の樹皮に、いっときの足場をもとめて、思い出したように鳴いている。

 8月も今日で終わり。酷暑は収束する気配すらない。それでも、夜は虫の音がすずやかに耳にとどきはじめた。こもれ陽のなかを抜けると、ひろがる緑のなかにちらほらと色づく黄色。

 地を蹴って走る足は、ついに昇りきることのなかった黄色い太陽を追いかけてゆく。

2010/08/25

『半分のぼった黄色い太陽』

チママンダ・ンゴズィ・アディーチェの『半分のぼった黄色い太陽』が「発売中」になりました。

 物語にはナイジェリア全域の地名、とくに「ビアフラ」として分離独立した東南部の地名がたくさん出てきます。あくまで「フィクション」である書籍内には入れませんでしたが、ネット上から手描きの「関連地図」をダウンロードできるようにしました。
 
 右サイドバーの「biaframap」をクリックしてください。

2010/08/20

チママンダ・ンゴズィ・アディーチェ『半分のぼった黄色い太陽』

本が届きました!

 表のカバーを、帯もいっしょにスキャンしてのせます。鮮やかな色合いで、とてもきれいな本になりました。

 ここ1年半ほどの仕事がこの1冊にぎゅっと詰まっています。物語の内容はこのブログでも何度か紹介したので省略しますが、念のためリンクしておきましょう。

 今回もまた翻訳中に、そして訳了後にも、いろいろ考えました。それはまた別の機会に。とにかくいまは、感無量です。

 ちなみに、定価は2600円+税、発売は24日、河出書房新社刊です。

2010/08/19

『半分のぼった黄色い太陽』完成!

さあ、できた!

チママンダ・ンゴズィ・アディーチェの『半分のぼった黄色い太陽』が完成です。といっても「みほん」。本そのものはまだ、訳者の手元には届いていません。でも、版元のカタログには載りました。24日発売です。

一足先に、カバーだけここでご紹介しちゃいます! 詳細は明日!

2010/07/23

サンタフェで語る J.M.クッツェー

連日すごい猛暑です。この暑さ、まだまだ続きそうですが、 J.M.クッツェーの動画についてお知らせします。
 
 新しいといっても、画像がネット上でオープンになったのが最近ということで、録画されたのは2001年11月8日、場所はニューメキシコ州のサンタフェにあるレンシック・シアターです。会の主催者は、LANNAN FOUNDATION。(アクセスして登録すれば、Podcast でも聴けますし、画像を見ることもできます。)

 まずクッツェーは『Youth』から朗読します。これは2001年5月にはすでに書き上げられていたものの、出版がペンディングになっていた作品で(出版は翌年5月)、1997年に出た『Boyhood少年時代』の続編にあたります。その『少年時代』をどのジャンルに分類するか出版社が訊いてきたエピソードもまじえて、『Youth』からかなり長い朗読(約43分)をします。

 それに続いて、南アフリカ出身のハーヴァード大教授、ピーター・サックスとの会話があります。サックスのいくつかの質問に答えるクッツェー、これが約30分。なかなか面白い内容です。
 ロンドンですごした青年時代、詩人になりたかったが60年代にそれを諦めたこと、『Dusklands/ダスクランズ』を出して作家として出発した1974年までの、10年ほどのまわり道の時期について。詩は10代のころはエズラ・パウンドにぞっこんだったこと、そのあとはリルケを読んだこと。
 60年代初めに英国博物館で南アフリカへ旅をした者の記録を読み、土地所有について考えたこと、30歳が作家として出発するためのデッドラインだと思っていたこと、などなど。

 ノーベル賞を受賞する2年ほど前の、地味なチャコールグレーのスーツ姿のクッツェー。時期を考えると、南アフリカからオーストラリアへ移る直前でしょうか。
 
 面白かったのは、『少年時代』のなかで少年ジョンがふとバッハの音楽を耳にしてクラシックについて目覚める場面をサックスがとりあげ、文学作品の構成などに絡めて質問するところ。クッツェーはバッハとベートーヴェンの違いにたとえて語ります。
 ベートーヴェンのイメージは一点をにらんでいる天才で、音楽があふれんばかりに出てきてそのことに自分でうっとりしてしまう人だが、バッハはキーボードを前にした生徒(クッツェー)の隣に座る先生のようで、さあ、こういうふうにやってみようか、といって演奏してくれる人だというのです。そんなふうに即興演奏をするたびに、バッハは謎めいた瞬間を残し、彼のやり方を真似る者を置いてきぼりにする、これはいってみればロマン派の天才音楽家のカウンターパワーにあたる。自分としては、バッハとキーボードに向かっている、と考えるのが好きだと答えます。

 いまさらながら、ではありますが、これは作家の仕事とは "To imagine the unimaginable" とするクッツェーの作品を考えるうえで、なるほど、と腑に落ちることばでした。

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2019.1.20──短い動画しか出てこなくなったので、をクッツェーとサックスの会話部分をここに埋め込みます。(2020.11.15)

2010/07/19

世界文学全集第Ⅲ期『短篇コレクションⅠ』

池澤夏樹氏の個人編集による世界文学全集(河出書房新社刊)は、当初は第Ⅱ期までの全24巻だった。ところが、さらに第Ⅲ期6巻が加わって、まず出たのが『短篇コレクションI』。これが楽しめる。

 コルタサル、パス、ルルフォといった中南米の作家、マラマッド、バース、バーセルミ、カーヴァーなど米国の作家、アトウッド、マクラウドはカナダの英語で書く作家、さらにはイドリース、カナファーニー、アル=サンマーンといったアラビア語で書く作家、フランス国籍を取得した中国語で書く高行健(ガオ・シンジェン)、そしてアフリカは英語で書くナイジェリアのアチェベ、などなど、日本語で書く作家としては目取真俊と金達寿が・・・、それにブローティガンも入っているし、モリスンの唯一の短編も入っている。おお!
 
 とにかく楽しめます。ひらりと開いて、そこから読んでいく。途中でお昼寝も可。でも、短編だから一作の途中でやめるということもせずにすむでしょう。訳者は、これまたそうそうたるメンバーです。

 夏休みの真昼の読書に、超おすすめ!!

2010/07/14

アフンルパル通信第10号 ── 神威岬の奇岩

アフンルパル通信第10号が出ました。

 表紙写真は:吉増剛造

 書き手は:
  山口拓夢/父と映画と風呂での交流
  大友真志/サハリン島
  くぼたのぞみ/神威岬の奇岩
  関口涼子/言葉の客
  宇波彰/トルコ再訪
  小川基/互いに継いで行く事
  管啓次郎/Agend'Ars
  (敬称略)

 発信地が北海道、内容もそれに響き合ったもので、とても充実していると思います。 
 おもとめは、こちらへ

2010/07/05

『群像 8月号』にアディーチェ新作が載ります!

7日発売の「群像 8月号」にチママンダ・ンゴズィ・アディーチェの新作短編「シーリング」を訳出しました。

舞台はナイジェリアのラゴス、”シーリング”というのは「ceiling/天井」のことですが、これが意味深! ある人物を呼ぶ名前なのです。どういう人物か・・・それはぜひ、雑誌を手に取ってぱらぱらしてみてください。あっ! という感じで謎は解けます。フフフ、という感じでもあるかな。

 チママンダ・ンゴズィ・アディーチェは9月下旬に来日して、大隅講堂でスピーチをします。スピーチの前に短編「なにかが首のまわりに」が朗読されます。これは『アメリカにいる、きみ』所収の表題作の新バージョンをあらたに訳出したものです。新バージョンは、この作家のここ数年の進化ぶりを伝えて、微妙な違いが味わえるはずです。

 朗読は、なんと、女優の松たか子さん。音楽や美術も豪華メンバーです。お楽しみに。

 場所は、早稲田大学 大隅講堂
 時間は、9月24日(金)午後6時から


 その前に長編『半分のぼった黄色い太陽』が出版されます。これもどうぞお楽しみに。

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追記:24日の大隅講堂の朗読は工夫が凝らされていて、まず著者のアディーチェさんが朗読し、それを受けて松たか子さんが日本語で朗読し、さらに締めの部分をふたたびアディーチェさんが読む、というステージになるはずです。

2010/07/01

翻訳者泣かせの南アフリカ英語──その2

「kaffir/カフィールという語」

サッカーのワールドカップでは早々と負けてしまった南アフリカだけれど、「虹の国」と呼ばれるこの国には、じつにさまざまな人が住んでいる。さまざまなという意味は、この国の成り立ちとおおいに関係していて、アパルトヘイト体制による「人種」という「厳密な」定義によって、その実、きわめて恣意的な区分が何十年にわたって人々の暮らしや心に残したものは、10年や20年では払拭できないほど深いのかもしれない。

 ましてや、ヨーロッパ人がやってきて、銃と聖書とさまざまな物資をもちこんで土地を奪っていった歴史がその前提となっているのだから複雑きわまりない。でも、その複雑さのなかに、アジアやアラブの人間が深く絡んでいることは案外、見落とされがちだ。つい「ヨーロッパ対アフリカ」の構図に目を奪われてしまうからだろうか。ヨーロッパ人がやってくるはるか前から、東アフリカ地域、海域ではアラブ人交易商たちが活躍していたのは周知の事実。

 そのことを示す端的な例が「kaffir」ということばである。この語を「リーダーズ英和辞典」で引くと「1a<古>カフィル人(南アフリカのBantu族); カフィル語(Xhosa語の旧称)b[derog](南アフリカの)黒人」と出てくる。「ジーニアス英和辞典」では「1カーフィル[コサ]族(の人)(南アフリカのバントゥー族の一部族;<南ア><侮蔑>アフリカ黒人」とあり、つぎに「2カフィール語<コサ語の旧称>」さらに「4(イスラム教徒から見て)不信心者、異教徒」となる。

 では件の「南アフリカ英語辞典」ではどうか。出てくる、出てくる。すごい量の情報だ。二段組みで約3ページ半。しかし、これなどまだ少ないほうで、先日、遅ればせながら取り寄せた「A Dictionary of South African English on Historical Principles/South Afirican Words and Their Origins」(Oxford, 1996)では、三段組みの細かな文字で、関連項目を含めると、なんと10ページを越える。

 クッツェーやウィカムの小説にこの語が出てくるのは、たいてい会話のなかで、話者が「アフリカ黒人」を罵るようにして呼ぶときだ。もっとも強い侮蔑語として使われる。だから「コサ人」とか「ズールー人」といった民族集団をさす語とは全く違うニュアンスをもつことに注意しなければいけない。
 しかし、「イスラム教徒から見た不信心者、異教徒」というところも興味深い。この「kaffir」という語、語源をさかのぼるとアラビア語に行きつく。つまりこの語の裏には、アラブ商人によって売買された奴隷と南部アフリカの関係が見え隠れしている。ご存知、ケープタウンには「Slave Logde」という建物がある。売られてきた奴隷の一時滞在所とでもいうべき建物である。

 英帝国やオランダが植民地にしていたインド、インドネシア、セイロン、マラヤなどから労働力として運ばれて来た人々や、東アフリカからアラブ商人に売られてきた奴隷が相当数いた(当然、その人たちの子孫がいる)ことを考えると、アラビア語やイスラム教と強く結びついた文化が、かなり古くから持ち込まれていたことが理解できるだろう。彼らイスラム教徒からみた「異教徒」を意味する語が、イースタンケープ州に多く住むコサ(マンデラ元大統領が属する民族)の人々をさすようになった経緯というのも興味深い。
 
 歴史に強いわけではないから細かなことまでは分からないけれど、これはたった一冊の小説を訳すためにも、その国の時代的背景、歴史的背景を調べなければ正確な訳ができないことばがある、という具体例かもしれない。
 ちなみにコンサイス版のOED(2003)ではこの語、「an insulting and contemptuous term for a black African/アフリカ黒人を意味する侮辱語、軽蔑語」となって、他の説明はいっさい出てこない。さすが現場に強い旧宗主国の辞書。この説明が現代の南アフリカ(および他のアフリカ諸国)から出てくる同時代的文学作品のなかで使われる「kaffir」の意味合いを、もっとも端的にあらわしているといえそうだ。

2010/06/23

翻訳者泣かせの南アフリカ英語──その1

これまで何冊か南アフリカ出身の詩人、作家の作品を訳してきたけれど、最初に出たのは、J・M・クッツェーの『マイケル・K』で、1989年のことだった。
 80年代はまだワープロが主流だった。PCによる通信もはじまったばかりで、現在のようなインターネットの繁栄は、当時の一般の人間にしてみれば、ほとんど想像がつかなかった。
 
南アフリカからの情報も、いまでこそワールドカップの試合のようすを、ネットで刻一刻と追いかけたり、コメントを書き込んだり、と相互に交信できるようになったが、80年代後半は、定期購読している南アの新聞も、いつ届くのやら、発行時期順に届くことさえまれだった。
 いまは「メール&ガーディアン」という紙名になったその新聞、当時は「ウィークリーメール」という週刊新聞で、アパルトヘイト体制下の検閲制度によって、頻繁に発禁処分になったり、記事がバンされてその箇所が真っ黒に塗られて発行されたりしたものだった。
 紙面にならぶ英語がまた一筋縄でいかず、骨が折れた。南アフリカ特有の英語なのだ。

 当時すでにブッカー賞やらなにやら国際的に高い評価を受けていたクッツェーの文章は、さすがに、じつにすっきりした文体で、「南ア特有の」という感じは「一見」ほとんど感じられなかった。だれもが指摘するように、削りに削った無駄のない、無機的なとまでいわれる端正な文章だった。しかし、である。やはり、南アだあ〜、と思わせることば使いがあちこちに隠れていた。
 
 主人公マイケルが自力で育てたカボチャを、ついに収穫して、ナイフを入れ、網で焼くシーンがある。作品中もっとも美しい場面だ。

「やがて、十分に熟れた最初のカボチャを切る夕べがやってきた。それは畑のまんなかで、ほかの実よりも一足早く生長していた。・・・(中略)・・・外皮は柔らかく、ナイフはすっと深く入った。果肉は、縁のところがまだ緑色を残していたが、濃いオレンジ色だ。作っておいた焼き網の上にカボチャの薄切りを並べ、炭火で焙った。暗くなるにつれて火はいっそう明々と燃えた」(ちくま文庫版、p166)

 最後の「炭火」、これは「coals」の訳。英語の辞書には真っ先に「石炭」という訳が出てくるが、「南アフリカの英語辞典/A Dictionary of South African English」(Oxford Univ. Press, Cape Town, 1991)には、はっきりと「炭火」とあって、それ以外の意味は出てこない。
 ジョハネスバーグ近郊のタウンシップ、ソウェトの煮炊きでは石炭が使われ、朝夕の空は煤煙でおおわれる、という情報に引っ張られて、そうか南アは石炭の産地なんだ、と最初の訳では、悩んだ末に「石炭」と訳した。
 それから2年後に出た件の辞書には「The glowing or white-ashed embers of a wood or charcoal fire used for braaiing」とある。まさに「炭火」である。braai(ing)/ブラーイ というのはアフリカーンス語で南アの農場料理、肉やブルボース(渦巻き形のブラッドソーセージ)を網で焼くバーベキューのことだ。

 しかし、考えてみるべきだった。マイケルはマッチで火を点けるのだ。石炭はマッチごときでは火は点かない。新聞紙をしぼるようにひねり、その上に細く割った薪をのせ、さらにそこに拳大の石炭をのせて、それから火を点ける。石炭は燃え出すまでにひどく時間がかかるのだ。北海道では60年代半ばまで、冬の暖房の主力は石炭だった。思い出すべきだった。
 いまならネット検索であっけなく情報に行き着くことも可能だし、メールで確認だってできる。当時は、そうはいかなかった。件の辞書も手元になかった。だから、全面改訳して2006年に文庫化できたときは、ほっとした。間違いに気づいていて、それを訂正できないもどかしさ。長いあいだの宿題がはたせたのは、本当にうれしかった。 

2010/06/16

アディーチェ講演/9月24日は18時から

早稲田大学で開かれる、国際ペン東京大会2010の文学フォーラムに、チママンダ・ンゴズィ・アディーチェが出ることは以前もお知らせいたしましたが、講演時間が18時開始へと変更になりました。場所は、大隅講堂です。

 詳しくはこちらへ!
 
 当日はアディーチェのほかにもあっと驚く人がステージにのぼります。どうぞお楽しみに!

2010/06/15

皿の上の雲──おもしろ食い物日記

「全体わたしは湯気好きだ。生まれ変わったら雲なり風呂なり火山池なり、おひつのご飯、せいろの小龍包、なにしろなにか湯気の立つものになりたいとおもう。漱石先生は余も木瓜(ぼけ)になりたいと書いておられるが、わたくしはできれば湯気になりたい」

 のっけからそんな愉快な文章で読者を世界中の食い物の世界にいざなう、おもしろ楽しい旅日記がはじまった。

 世界食堂随聞記「皿の上の雲」、初回は「南インド、マイソール」である。書いておられるのは(ああ、文体が感染してきた!)この日本から、しばし「どろん」の旅に出た、詩人で作家の中村和恵さん。

 南インドでは朝ごはんにイディリという、お米とお豆の粉でつくる蒸しパンのようなものを食べるそうな。ちいさな白い雲のようなものがひとつ、皿の上でほわほわと湯気を立てている場面からはじまり、話は古都マイソールの歴史やら、そこの出身の文学者、ラージャ・ラオなどへすいすい進む。ころがるような独特の文体で(読みはじめると癖になる!)、その地の事情やらそこから出てくる文学など、ふむふむ、そうか、とお勉強させていただけてまことに重宝。
 
 旅をしながらの、この食い物エッセイが載っているのは、平凡社の「月刊百科」。2010年6月号から掲載開始です。毎月1日刊行で、大きな本屋さんに行けば無料でもらえます!

 さあて、次はどんな土地の、どんな話になるのかしらん?

2010/06/13

南アフリカ、キックオフ・コンサート

サッカーに強いわけではない。特別、好きなわけでもない。でも、観た。「キックオフ・コンサート」をPCで・・・あれれ、いまリンクしたら編集版(シャキーラ)に繋がってしまった。私が観たときは2時間以上の、なが〜い無編集のバージョンだったのだけれど。おかげで、早送りもできず、ずっと最後まで観ていたら、PCが加熱してきて大変だった(涙+笑)。

アンジェリック・キジョーがよかったなあ。カラフルなシャツにグレーのスーツで出てきて、いちばん最初に、私の大好きな曲「マライカ」を歌った。画面に、ソウェトで歌われたゴスペルソング、とコメントが出たけれど、あれはれっきとした作曲者のいる曲で、もともとはタンザニアの歌(2010.6.14訂正/ごめんなさい、作曲はケニアの人でした*)。キジョーもスワヒリ語で歌っているらしい、手元にあるマホティラクイーンズのヴァージョンとは歌詞が違うもの。
 まあ、南部アフリカで広く歌われてきた名曲中の名曲で、ゴスペルといってもいいくらいの曲だけれどね。

 いまは個別に探すと、それぞれのアーチストや曲が出てくるようになった。でもステージの準備のために、曲と曲の間をつなぐちょっとした出し物が、けっこう面白かったんだけれど。
 たとえば、ツツ主教が白いセーターの上から黄色いTシャツを着て、ものすごく上機嫌に、はしゃぐように語っていた。大声で呼びかけよう、このソウェトにマディバ(マンデラの愛称)は住んでいるんだから、といって。コンサート会場はオーランドだった。あ、ここで観ることができます。フランス語の訳つきですが。

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*2010.6.14 付記/Malaika はタンザニアの曲と書きましたが、ケニアのFadhili Willias という人の曲でした。キジョーはしっかりスワヒリ語で歌っていました。
このサイトに歌詞、歌っている人の映像+音へのリンクなどが載っています。ミリアム・マケバも出てきます。

2010/06/10

バーバラ・キングソルヴァーがオレンジ賞受賞!

このところ更新が続きますが、書かずにはいられないニュースです! 

 アメリカのベストセラー作家、バーバラ・キングソルヴァーがオレンジ賞を受賞しました。受賞作「The Lacuna」は9年ぶりの作品で、メキシコとアメリカの歴史が絡んでくる作品のようです。出たのは知っていましたが、忙しさにまぎれてまだ読んでいません/涙。

日本でもすでに3つの作品が訳されています。すべて訳が出たときすぐに買い求めて読みました。

『野菜畑のインディアン』が1994年10月、『天国の豚』上下巻が翌11月と、たてつづけに早川書房から出たのですが(いずれも真野裕明訳)、その後の訳書は2001年の『ポイズンウッドバイブル』(永井喜久子訳、DHC)まで待たなければなりませんでした。

『ポイズンウッドバイブル』は現在のコンゴ民主共和国を舞台にした手に汗握る大作で、読みはじめたら途中でやめられなくなる面白さ。ニューヨークタイムズの書評欄で、長期にわたって1位を続けた作品でもあります。時事通信に書評を書き、以前このブログにもアップしました。キングソルヴァーのこれまでの代表作です。

 この受賞は、なんだか、すごく嬉しいなあ。